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『映像研には手を出すな!』の美術における“日常”と“日本” アニメの世界は新たなフェーズへ?

リアルサウンド

20/3/22(日) 12:00

 浅草みどりは文字通りアニメの“設定”の中に生きている。彼女にとっては、小学校の頃に移り住んだ芝浜団地も、入学したばかりの芝浜高校も、そして日頃歩いている芝浜の町並みも、すべてが冒険の世界であり、アニメの設定世界であり、そして「最強の世界」なのだ。彼女たちが、自分で思い描いたアニメの設定の中に突入し、生き生きと冒険を始める様は、この作品の最も大きな魅力の1つにもなっている。

参考:『映像研には手を出すな!』金森の存在から考える、自主制作アニメーションの現在

 したがって、このアニメの作品価値を高めている重要な要素が“美術”であることは疑う余地がないだろう。本記事では、『映像研には手を出すな!』(以下『映像研』)の美術設定に注目しながら、本作の独特な世界観を明らかにしつつ、日本のアニメ作品における“日本”的なるものの可能性を考察してみたいと思う。

■野村正信の美術
 『映像研』の美術監督を務めるのは、株式会社美峰の野村正信である。『月刊ニュータイプ』の2020年4月号には野村のインタビュー記事が掲載されており、本作の美術制作の舞台裏が語られている。

 野村によると、監督の湯浅政明からは「日常」「想像」「アニメ」の世界を描き分けるようオーダーが出されたそうだ(『月刊ニュータイプ 2020年4月号』KADOKAWA 2020年 pp.28-29)。「日常」の世界とは、主人公たちが生きるいわば“地の世界”であり、アニメキャラとしての彼女たちと馴染む通常のタッチで描かれている。「想像」の世界は、主に浅草の思い描く設定、つまり文字通り「イメージボード」の世界であり、本作では淡い水彩画風のタッチで描かれる。「アニメ」の世界は、彼女たちが創作した、アマチュアテイストの残るアニメの世界である。

 この中でもまず面白いのが、「日常」の世界だ。言うまでもなく、『映像研』は“ご当地アニメ”ではない。2050年代の架空の町「芝浜」に舞台が設定されており、学校や町並みも含め、そこに描かれているのは現実にある風景ではないからだ。しかしだからと言って、近未来SFのような世界とも違う。食堂での注文方法など、一部の描写に近未来感はあるが、この世界の基調を成しているのは、コインランドリーや昔ながらのラーメン屋、寂れた商店街、あちらこちらに見られる廃墟や廃物など、今の日本の日常的風景と地続きでつながっている世界だ。それは決して遠い異世界や未来世界などではなく、僕らにとって馴染みのある風景を縦横に拡張し、立体的に積み重ねた、“近い異世界”とでも言うべきものである。

 まず、複雑に入り組んだ“近い異世界”としての「現実」がベースとしてあり、そこを浅草たちが冒険する。それがすでに“ダンジョン探検”として面白い。そこに浅草たちの「空想」が折り重なる。それは「現実」を基にしていながらも、彼女たちの想像力によって自由自在にリドローできる可変的な世界だ。そのようなアモルファスな「空想」が、やがて金森氏の現実主義的なリードと水崎氏の実作業によって、「創作」としてのアニメに仕上がっていく。馴染みの世界が徐々に創作の世界へと転じていくこのワクワク感を、野村の美術はそれぞれに異なるタッチを用いることで、重層的かつ魅力的に描き出すことに成功している。

■異能者たちの住む日常世界
 浅草みどりは魔法使いでも超能力者でもないが、日常の中にファンタジーを見出すことのできる一種の“異能者”である。彼女は、森見登美彦原作/石田祐康監督の『ペンギン・ハイウェイ』(2018年)に登場するアオヤマ君と同族なのだ。アオヤマ君は父の「世界の果ては折りたたまれて,世界の内部にもぐりこんでいる」という言葉を信じ、常に日常の中に「世界の果て」を求めるべく冒険している。物語を“遠さ”の中ではなく、“近さ”の中に求める彼ら/彼女らには,もはや異世界の類は必要ない。日常的な風景がそこにあれば、すでに冒険は始まっているのだ。

 『映像研』において、この日常が現代日本の風景の相似形であることには大きな意味があると僕は考える。もちろんそれは、僕ら日本人にとって馴染みの深い世界であり、僕らがよく知っている風景の中を、まるでファンタジーのように主人公たちが冒険することにこの作品の醍醐味がある。しかしそれだけではない。先述したように、『映像研』は“ご当地アニメ”ではないが故に、そこに描かれる風景は実際のアドレスを持たない、いわばカッコ付きの“日本”の風景だ。それはもはや、日本に住む日本人だけが特権的に占有するナショナリスティックなトポスではない。この“日本”的なるものの“無国籍性”によって、海外のファンも自由に冒険を読み込むことが可能になっていると言えるかもしれない。ちなみに海外の日本アニメファンが利用するデータベースサイト「MyAnimeList」のレーティングで『映像研』10点満点中8点以上のスコアを出しており、本作が海外でも評価を受けていることを示しているが、その理由の一端が、こうした“日本”的なものの描き方にあると言えるかもしれない。

■共有される“日本”的日常
 実は,先ほどの美峰の美術制作に関しては大変面白い事実がある。この会社は現在、ベトナムに制作拠点をおいており、多くの作品をベトナム人スタッフが手掛けている。先述した『月刊ニュータイプ』のインタビューで野村は次のように語っている。

「当初は普通の街中をお願いしても、どうしてもアジアっぽい木々が生えていたり、道路の白線が全然違ったりしていたんです。でも今は日本のアニメが好きなスタッフもいますし、かなり場数を踏んできたので、Skypeでの打ち合わせも背景用語で全部話が通じるようになっています」(『月刊ニュータイプ』上掲号,p.85)

 こうした美峰の制作現場からは、“日本”的な風景をベトナム人スタッフがすでに理解し共有しているという興味深い事実が窺えるのである。

 これと似たようなことは、先日日本でも上映され話題となった中国のアニメ映画『羅小黒戦記』(2019年)においても見られる。監督のMTJJは熱心な日本のアニメファンであり、主人公・小黒のデザインや表情の付け方に、日本アニメに頻出する“かわいい”の表現コードが意識的に使われている。しかしそれはすでに単なる模倣の域を超えており、MTJJは日本的な“かわいい”のコードをほぼ完全に自家薬籠中の物として使いこなしていると言える。ある文化の中で生まれた表現のコードは、それが強い表現力を持っていればいるほど、易々と国境を越え、多様な文化の中に根付いていくものなのだ。

 ひょっとしたらアニメの世界は、“日本らしさを日本人が守る”というような偏狭なナショナリズムではなく、より広い文化制作圏の中で“日本”的なものを共有し、守っていくというフェーズに移行しつつあるのかもしれない。“日本”的なものを愛好し、守る人々が世界中にいさえすれば、それは時代とともに変質することはあっても、霧散してしまうことはないだろう。僕らがこれから守るべきは、そうした意味での“日本”なのかもしれない。『映像研』の美術が示した日常風景は、こうした“日本”の1つだ。

 次回はいよいよ最終話だ。是非ともエンドクレジットに目を留め、素晴らしい作品の制作に携わってくれた国内外のスタッフに称賛の拍手を贈ろうではないか。

■原嶋修司
アニメを愛し、アニメについて語ることを愛するアニメブロガー。予備校講師。作品評や関連書籍のレビューを中心とするブログ『アニ録ブログ』を運営。

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