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大林宣彦監督は映画の伝道師だった 遺作『海辺の映画館』まで自由を表現し続けたその功績

リアルサウンド

20/4/24(金) 13:00

 4月10日19時23分、映画監督の大林宣彦さんが逝去した。先日追悼放送された『時をかける少女』(1983年)をはじめ、大林監督作品に多大な影響を受けた人は数知れない。テレビで大林監督作『異人たちとの夏』(1988年)に出会い、以後、最新作『海辺の映画館ーキネマの玉手箱』に至るまで、そのフィルモグラフィを追ってきた、映画評論家のモルモット吉田氏に、大林監督への想い、映画人としての功績について話を聞いた。(編集部)

参考:大林宣彦監督が映画界や社会に遺したもの その“フィロソフィー”から何を学ぶべきか

●「テレビ放送」にも気を配っていた大林監督

 大林映画の話になると、年齢を飛び越えて若者から老人まで一緒に話ができてしまうのですが、その理由は大林宣彦監督の長いキャリアもさることながら、年齢や映画の趣味に関係なく、必ずどこかの段階で大林映画に出会ってしまい、忘れがたい1本がそれぞれ心に残っている人が多いからではないでしょうか。

 個人映画時代の『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(1966年)を挙げる人もいれば、商業映画第1作『HOUSE/ハウス』(1977年)を、あるいは『転校生』(1982年)を、『時をかける少女』を、『廃市』(1984年)を、『野ゆき山ゆき海べゆき』(1986年)を……「尾道三部作」をはじめ、際限なくそれぞれの1本があると思います。

 個人的な記憶で言えば、最初に大林映画を意識したのは、小学生のときに『金曜ロードショー』で観た『異人たちとの夏』でした。当時、『オレたちひょうきん族』のレギュラーだった片岡鶴太郎が同作に出演したことから番組内でさっそくパロディが演じられたので、子ども心にも、この作品を認知したのでしょう。あとで分かったのですが、大林監督はテレビ放送にも気を配る監督だったことが、より幸福な出会いを演出してくれたのではないかと思います。

 地上波での映画放送はCMが入り、短縮されるのが常でした。時にはかなり乱暴にカットされる作品もありました。大林監督は映画監督としては珍しく自分でハサミを入れて放送枠に合わせて短縮する監督で、映画とは別のTVバージョンを作るぐらいの意気込みで細部にわたって編集をやり直していました。これは他の作品でも同様で、映画評論家の淀川長治さんは日本映画をめったに観なかったので、『転校生』はテレビ放送で初めて観て惚れ込んだと言います。

 他にも、『野ゆき山ゆき海べゆき』はテレビ放送の際に、シーン数は劇場版と同じながら1カットずつ短縮することで40分も短くしています。逆にテンポがよくなってTVバージョンの方が良いという声もあるほどです。ですから、昔、テレビで録画した大林作品のビデオテープが手元に残っているという人は、今ではサブスクリプションなどで簡単に観られるからと捨ててしまわないで保存しておくことをお勧めします。幻のTVバージョンかもしれません。

 テレビで大林映画と出会った者にとって、決定的な1本となったのが、「新・尾道三部作」の第1弾となった『ふたり』(1991年)。赤川次郎原作の幽霊になった姉と、のんびりした妹がおりなすファンタジー映画です。これはテレビ放送された後に劇場公開された異例の作品で、NHKで45分のテレビドラマとして前後編が放送された後に、編集の異なる劇場版が公開されました。小学生の頃に観たのですが、テレビ版にすっかり魅せられて、劇場版をどうしても観たいと思うようになったわけですから、この試みは大林映画に出会いかけていた観客をいよいよ夢中にさせる効果があったように思います。

●大林映画独特の予算の使い方

 そして、その後に作られたのが、個人的には大林映画のベストワンと思っている『青春デンデケデケデケ』(1992年)。60年代後半の香川県観音寺市を舞台に、高校生になった主人公が同級生たちとロックバンドを作る青春映画です。主人公はラジオから流れてきた『パイプライン』の音色に〈電気的啓示〉を受けてロックに目覚めるのですが、自分の場合は、この作品から〈映画的啓示〉を受けました。大林監督は映像と言葉と音楽を過剰に積み重ねていくことで、主人公と友人たちの心情や舞台となる町に暮らす人々にいたるまで、余すところなく描いていて、まだヌーヴェル・ヴァーグも知らない中学生にとっては、映画はこんなにも自由に逸脱しながら表現できるものなのかと衝撃を受けました。

 ある時期まで、大林映画と日本のメジャー映画は幸福な関係を築いていました。東宝で製作された『HOUSE/ハウス』や、角川映画の『ねらわれた学園』(1981年)、『時をかける少女』などは大林監督の個人映画と大手が求める商業映画が理想的な形で結びついてヒットした作品だったと思います。配給収入20億円を記録した『水の旅人 侍KIDS』(1993年)が、そうした時代の最後になるかと思いますが、それ以降、大林監督はテレビと組むことで新たにローバジェットの映画製作を進めていきます。『三毛猫ホームズの推理』(1996年)、『淀川長治物語 神戸篇 サイナラ』(1999年)などは、テレビドラマとして放送した後に再編集された劇場版を公開しています。

 ローバジェットと言っても大林作品のお金のかけかたは、通常の映画やテレビドラマと違います。全パートに均等に予算を配分するのではなく、その作品にとって、例えば美術が重要であれば、セットを組む美術予算を多く取り、その代わりに撮影日数を短くすることで製作費の帳尻を合わせたりします。吉永小百合主演の映画『女ざかり』(1994年)の場合は、脇に至るまで豪華なキャストが組まれましたが、とても予算にはまらない。だからキャスト費を抑えるために撮影は2週間で終わらせ、16mmカメラを何台も同時に回して編集素材を集めることで撮影日数の短さを補ったといいます。

 こうしたテレビから映画を生み出す時期に生まれたのが、宮部みゆき原作の『理由』(2004年)です。WOWOWでドラマとして放送された後に、劇場版として編集されたものが公開されました。長い原作と登場人物の多さから、映像化する場合は大胆な脚色が必要になると思われていましたが、大林監督は100名以上にのぼる登場人物を巧みにさばき、原作にこれ以上ないというほど忠実に映像化しながら、完成したものは大林映画でしかないという凄まじい大技を見せてくれました。ここから2000年代の大林映画の快進撃が始まります。『転校生-さよなら あなた-』(2007年)という誰もが無謀に思える『転校生』のリメイクに挑んだのも自信の現れではないでしょうか。

●2010年代のより“自由”な作品たち

 そして2010年代に入ってからの『この空の花 長岡花火物語』(2012年)、『野のなななのか』(2014年)、『花筐/HANAGATAMI』(2017年)は、もはや個人映画、商業映画、テレビといった境界を越えて、大林監督が注ぎ込む圧倒的な映像とメッセージが噴出する凄まじい時代が訪れます。ここには老いや衰えといったものはなく、これまで以上に自由に映画が作り出されていきました。

 『この空の花』から、それまでのフィルム撮影からデジタルへと移行しましたが、これが晩年の大林映画の原動力になったと思います。フィルムではオプチカル処理にかなりの予算が取られたのが、デジタルではかんたんに出来るとあって、全カットにVFX処理が行われ、絵の具を塗り重ねたような色と映像の氾濫が、晩年の作品になるほど激しくなっていきました。

 デジタル撮影が行われるようになった頃、フィルムとデジタルは絵筆の違いだと言われたものですが、実際には――若い監督までもが――デジタルでフィルムの質感を再現しようとする人ばかりでした。そのなかで、大林監督ほどデジタルの特性を駆使して映画を作った監督はいないでしょう。

 晩年の大林監督の姿に、黒澤明監督や新藤兼人監督を重ね合わせることもできるでしょう。若き日のエネルギッシュな作風から、晩年のイノセンスな作風への変化、殊に戦争への警鐘を作品に取り込むところに共通するものがあります。

 また、黒澤監督はオムニバス映画『夢』(1990年)の中で、生き残った兵士が戦死した部隊と遭遇する『トンネル』や原発の爆発によって逃げ惑う人々を描いた『赤富士』を撮り、戦争の記憶と近未来への憂慮を映像化していますが、この映画のメイキングを撮ったのは大林監督です(『映画の肖像 黒澤明 大林宣彦 映画的対話』1990年)。

 新藤監督は遺作の『一枚のハガキ』(2011年)で自身の戦争体験をもとにした作品を撮りましたが、若き日には広島の原爆をテーマにした世界で最初の劇映画『原爆の子』(1952年)を撮っています。さらに『さくら隊散る』(1988年)という広島への原爆投下で命を落とした移動劇団「桜隊」を描いたドキュメンタリードラマの秀作がありますが、大林監督の遺作『海辺の映画館―キネマの玉手箱』に桜隊が登場するところからも、同じ広島出身の新藤監督の影響が見て取れます。実際、大林家が所有する家屋に新藤監督が下宿していた時期もあり、幼少期に「毎週末、活動写真を見た映画館では、隣に新藤さんがいた」(『中國新聞』)と語っています。

 こうした先人たちの晩年の仕事を継承しつつ、大林流極彩色の満艦飾映画に仕上がった『海辺の映画館』は、映画館のスクリーンに映される近代の戦争映画に主人公たちが同化して時をかけてゆく物語です。これまで以上に饒舌に映像と言葉が洪水のように押し寄せてくるので、最初に観たときは受け止めきれないほどでしたが、改めて全体を見返してみると、圧倒的な映像に深く感動しました。

 黒澤監督の晩年の『夢』や『八月の狂詩曲』(1991年)、『まあだだよ』(1993年)は、メッセージがストレートに出過ぎている、無邪気すぎるなど、ずいぶん批判が多かったのですが、『海辺の映画館』は、“それの何が悪い?”という大林監督からのアンサームービーになっているような気がします。映画祭で最初に観たときに後ろの席に座っていた有名な撮影監督が、「彼は映画で言いたいことを全部言ったんだね」と感に堪えないような声を漏らしていましたが、自分も全く同じ気持ちでした。

 大林監督は精力的に舞台挨拶やトークショーなどにも出演されており、語り部としても淀川長治さんに次ぐ映画の伝道師だったと思います。それだけに、大林監督の話を聞いたことがあるという人は多いのではないでしょうか。

 個人的に印象に残っているのは、吉祥寺のバウスシアターで行われた爆音映画祭で『HOUSE/ハウス』が上映された時、映画館の中は通路まで若い観客でいっぱいだったのですが、上映が終わると、真ん中の席に座っていた大林監督がおもむろに立ち上がり、映画の成り立ちを静かに語りだしました。とてつもなく大きな音で『HOUSE/ハウス』の世界にひたっていた観客たちは、悪戦苦闘しながら、この映画をどうやって実現させていったのかを語る大林監督の言葉に真剣に耳をすませていました。そのとき、爆音映画祭だけあって場内BGMのミキシングも素晴らしく、ゴダイゴの「ハウスのテーマ」が大林監督の声を邪魔しないように静かに流れていましたが、話が佳境に入ると音楽も大きくなっていくので、さっきまでスクリーンに映っていた映画と、それを観ている映画館が地続きのように感じました。その気分をまた味わうことができたのが『海辺の映画館』です。当初の公開予定日に大林監督は亡くなりましたが、この映画に描かれていることは、終息後の世界に最も必要とされるものだと思います。(モルモット吉田)

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