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差別の連鎖を止めるためには 『ナイチンゲール』が見出す一筋の光

リアルサウンド

20/3/18(水) 19:00

 オーストラリアがイギリスの植民地だった19世紀。離島のタスマニアで、人類史に残る虐殺、迫害が行われた。この人間の罪深い歴史の真実を、目をそらさずに描ききったことで騒然となった映画が、本作『ナイチンゲール』である。

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 その内容の凄まじさに、一部映画祭での上映時には途中退席する観客も出たというが、同時にヴェネチア国際映画祭にて審査員特別賞、最優秀新人俳優賞(バイカリ・ガナンバール)の2冠を獲得。ナショナル・ボード・オブ・レビューのトップ10映画に選出され、オーストラリア・アカデミー賞では作品賞、主演女優賞を含む6部門で最多受賞作品となるなど、高い評価を得た作品だ。

 ここでは、そんな問題作『ナイチンゲール』の内容を追いながら、そこで真に何が描かれているのかを、できるだけ深く考えていきたい。

 植民地時代、オーストラリアはイギリスで罪を犯した者を送る流刑地となっていた。当時、女性は比較的軽微な罪でもオーストラリアに送られる場合があったという。それは、男性ばかりになっている男女比の割合を是正する目的があったようだ。そんな女性たちが、どのような役割を担わされたかについては想像がつく。本作の主人公は、けちな盗みによって、そんな女性流刑囚の一人となったアイルランド人のクレアだ。

 美貌と美声を持ったクレアは、この地方を支配するイギリス軍の将校であるホーキンスの目にとまり、他の流刑囚とは異なり、アイルランド人男性と結婚し子どもをもうけるなど、家庭を持つことを許される優遇を受ける。しかし、その裏で彼女はホーキンスの愛人として囲われることを余儀なくされていた。カゴの中の鳥のように扱われ、歌わされる姿はまさに、美しい鳴き声が珍重される小鳥“ナイチンゲール”のように見える。

 クレアを演じるのは、TVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』にも出演した、アイルランド系の俳優アイスリング・フランシオシ。オペラの舞台経験もある、可憐な歌声で、苦難に遭う人間の悲劇性と、それに抗おうとする意志を力強く表現する。

 刑期が終わったはずなのに、ホーキンスは優遇したことの恩を着せ、クレアを手もとから手放さない。ホーキンスの慰みものになっていることを知らない夫は、クレアがいまだホーキンスのもとで働かされていることに抗議。そのトラブルが上官に見られたことで、ホーキンスは出世を見送られる事態となる。逆恨みをしたホーキンスとその部下たちによって、クレアの一家は、およそ想像し得るなかで最悪といえる卑劣な暴力を受け、人間としての尊厳を踏みにじられる。本作が物議を醸したのは、この異常とも思える陰惨な場面があるためだ。

 本作の監督は、ジェニファー・ケント。彼女はラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』(2003年)の助監督を務めることで映画人としてのキャリアをスタートしている。そう聞けば、この観る者の神経をざわつかせるような挑戦的な手法には納得する部分もある。だが、彼女の作家性はそれだけではない。その後、複数の監督作が世界で評価を受けるが、なかでも前作『ババドック~暗闇の魔物~』(2014年)は、育児への不安や、人間の心の深層にある悪意を、超現実的な恐怖として表現した傑作だ。そこには、天才的な映像センスと、優れた問題意識が備わっている。同じく家庭の不和を題材にして、日本でも話題となったアリ・アスター監督のホラー映画『ヘレディタリー/継承』(2018年)と並べて大勢が評価したとしたら、どちらが優れているかで意見が割れるだろう。

 このような大胆な手法と、人間の心理を深いところでとらえるまなざしがあってこそ、本作における地獄のようなシーンを表現することができたといえよう。だが、本作の暴力シーンは、ただ観客にインパクトを与えるためだけに見せるのではない。このような悪魔的な暴力は19世紀のオーストラリアではいくらでもあり得た事態であり、実際に人類の歴史のなかで何度も繰り返されてきたことだ。それをあからさまに表現することで、本作は暴力の本質が身体的なものだけでなく、人間の誇りを根底から奪おうとする卑劣なものであることを明らかにするのだ。

 クレアが暴力を受けた背景には、当時のイギリス人による囚人への蔑視はもとより、アイルランド人への偏見や女性への差別があった。だが本作がそれだけに終わらないのは、そんな差別によるおそろしい犯罪の被害者であるクレアにすら、差別心があることを描いているところだ。

 復讐のため、タスマニアを移動するホーキンスを追うクレアには、道案内をする先住民の助けが必要だった。ダンサーでもあるバイカリ・ガナンバルが演じる、先住民・ビリーがその役割を担うが、彼自身や彼の文化に対し、クレアは強い偏見を露わにする。人間扱いされてこなかった彼女が、さらに他の人間に偏見を向ける。このような差別の連鎖ともいえるような構図は、現代の社会にも根強く存在する。

 クレアばかりを責めるのは酷かもしれない。当時、イギリス人たち白人の入植者たちは、先住民たちを大勢殺害し、虐待を繰り返し、土地を奪ったのだ。先住民を人間とみなさず、害獣の感覚で狩りを行い、次々に銃殺していく。本作の舞台となったタスマニアでは、そのために土地に住んでいた民族そのものが消滅してしまったという。この事実は、紛れもなく人類史に残る犯罪行為である。入植した白人たち全体が、先住民にとっておそろしい脅威だったといえよう。

 オーストラリア政府は、2008年になって、やっと先住民に対して公式に謝罪を表明した。それまでヨーロッパにルーツを持つオーストラリア人は、権力や軍事力を背景に、自分たちの民族の歴史的な蛮行を、大筋では正当化してきたということだ。その歩みの遅さが示すように、現在でも先住民に対する差別や偏見は根強く存在する。

 自身もオーストラリアで生まれ育ったケント監督は、イギリス人とアイルランド人の間の差別、女性への差別を描き、さらにそれらの差別構造を含んだ白人社会全体が先住民を差別していたという、数層の差別世界を凝縮したかたちで表現していく。それは、彼女自身が描かねばならなかった切実なテーマだったことは、想像に難くない。

 クレアを助けるビリーは、途上で仲間たちが殺されていく姿を目にし、自分自身も何度も危険に遭い、土地を奪った殺戮者である白人たちに「悪魔め!」と責められ追い立てられていく。ビリーが、「ここは、俺たちの住む場所なのに……」と涙を見せる場面は、まさにオーストラリア先住民すべての心情を代弁する言葉だろう。

 陰惨な内容が続く本作が一筋の希望を見せるのはここからだ。同じ地獄を体験したクレアとビリーは、互いの苦しみを少しずつ理解していくことで、差別心や敵愾心が薄まり、共通の敵に対して、ともに闘う意志を固めていくのである。そして、互いの共感の象徴となるのが、ビリーのダンスであり、クレアの歌である。迫害を受けながらも、両者は互いの民族の文化が持つ誇りを目にして、耳で聴いて、自分たちは差別されるような存在ではないということを確認し合うのだ。

 クレアやビリーにとっての敵の本質とは何なのかも、本作は明らかにしていく。ホーキンスは軍の威光によって、部下すら人間扱いせず、自分の道具として利用していく。そんなホーキンスと同行することになった小さな少年は、彼の力に憧れ、自分もまた先住民や女性を差別するホーキンスのようになろうとする。既存の権力構造に組み込まれようとすることで、差別は受け継がれ、特定の層が優遇される社会構造が強化されていく。数々の悲劇は、このような仕組みのなかで生まれてきたのだ。

 そんな構造を打ち壊すことは、クレアのような女性にとっても、迫害を受けるビリーのような民族にとっても必要なことだ。別のカテゴリーにいる被差別者たちが力を合わせ“共闘する”ことで、差別的な環境に抗う、より大きな力が生まれる。

 現在の社会においても、差別者同士が差別し合い、多くの分断が生まれることで、不満の矛先が分散し、上位の差別者や権力者の地位が盤石なものとなっているという状況が見られるのは周知の通りである。では、クレアやビリーのように連帯し、差別の構造を打破していくためには、どうすればよいのか。

 それは、まず自分自身の差別感情と向き合い、乗り越えていくという意志や努力が必要なのではないか。そして自分を日々、より正しい位置へと修正していくことによって、より大きな差別と闘うための強い力が生み出されるはずなのだ。これが、クレアとビリーの苦難を描くことでたどり着いた、本作の答えであるように思えるのである。ケント監督は、19世紀オーストラリアの地獄と希望を映し出すことで、現在の世界の課題と進むべき理想的な方向を提示したのだ。 (文=小野寺系)

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