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2010年代のアイドルシーン Vol.9 2014年の渡辺淳之介(後編)

ナタリー

渡辺淳之介と第1期BiS。

2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。この記事では前回に引き続き、音楽プロダクション・WACKの代表である渡辺淳之介の2014年の動きに焦点を当てる。前編では神奈川・横浜アリーナで第1期BiSが解散するまでの流れをたどったが、後編ではその後、渡辺がどのような考えを持ってWACKを設立し、今やアイドルシーンのトップに上り詰めたBiSHを結成するに至ったのか、2014年後半の一連の流れに着目。本人に聞いた話を軸にしつつ、WACK所属アーティストのサウンドプロデューサーである松隈ケンタ、「OTOTOY」の飯田仁一郎編集長、BiSHのセントチヒロ・チッチといった渡辺に近い人物の証言も交え、アイドルシーンの1つの転換点を振り返った。

取材・文 / 小野田衛

BiSは会社の中でアンタッチャブルな存在だった

渡辺淳之介がBiSの解散を決意したのは2013年末のことだった。そこから急ピッチで事態は進んでいく。渡辺はBiSの解散準備と同時に自身の独立準備も始めていた。所属していたつばさレコーズには残留する意思もあることを伝えたが、逆に「お前が好き勝手にやるんだったら、むしろうちを離れたほうがいいんじゃないか?」と提案される有様だった。

「BiSというのが会社の中でアンタッチャブルな存在になっていたんです。変なことをやりまくって世間からも批判されているけど、客はどんどんうなぎ上りで増えている。それに対して会社的には『淳之介の言ってることは頭がおかしいけど、聞いておかないといけない』みたいなスタンスで。腫れ物に触れるような感覚はあったと思います」(渡辺)

渡辺の在籍時、つばさレコーズはワンマン企業だった。吉永達世社長の力は絶大で、卓越したバイタリティと眼力は各方面から一目置かれている。そんな社内にあって、吉永以外で初めてメジャー契約を勝ち取った社員が渡辺だったという。こうしたことから、渡辺の出す企画はほぼすべて社内で通った。

「もっともつばさレコーズ自体もベンチャー気質なところがあるので、僕以前にも独立していろんなところで活躍している先輩たちがいたんですよね。引き留めの声があまり強くかからなかったのは、そういった会社の体質も関係しているのかもしれない。最後も揉めるようなことは一切なかったし、完全な円満退社でした」(渡辺)

横浜アリーナでのBiS解散ライブが異色だったのは、メンバーの去就を明確にした点にもある。解散前よりアップフロント系列の芸能事務所・ジャストプロから声がかかっていたプー・ルイは、「俺についてくるか、ジャストプロに行くか自由に選んでいいよ」と渡辺から提示されたものの、もともとハロプロが大好きだっただけに「これはまたとないチャンス」とジャストプロを選択。ファーストサマーウイカとヒラノノゾミはデザイナーのNIGOが立ち上げる新しいアイドルグループ・BILLIE IDLEにスライド。コショージメグミはekomsが運営するMaison book girlに加入。カミヤサキだけは渡辺と行動をともにすることになった。

そして当初、渡辺はBiSでタッグを組んできたサウンドプロデューサーの松隈ケンタと一緒に会社を立ち上げるつもりだったという。だが、その目論見は外れた。渡辺は「あの人、勝手に会社を作っていたんですよ! 松隈さんを社長にして自分は副社長くらいに考えていたのに、見事にフラれましたね」と冗談めかして語るが、一方の松隈は次のように反論する。

「そのへんは認識の違いがあったんです。僕は最初から独立したフリーの立場だったし、SCRAMBLESの登記は自分にとっては税務上の問題でしかなかった。自分は会社って何個作ってもいいものかと思っていましたから。確かに2人で会社を作る話はしていたんですけど、具体的にどういう形でどこまでを手がけるかといった具体的なところまでは進んでいなかったんです。とはいえ僕もWACKに出資金は出してるし、アーティストとしても所属しているので、気持ち的には一緒に会社を作ったつもりでいるんですけどね(笑)。

ただ、まあ結果的には今の感じでよかったんじゃないですか。どちらかが倒れそうになときに支え合えるし、それぞれ性格ややり方がまったく違うので、同じ会社の中でうまくいったとは思えないし。今でも一緒に気持ちよく仕事できているのは、違う会社に属しているからじゃないかな」(松隈)

渡辺印を作りたかったから、BiSHを始めた

とにもかくにも渡辺は独立独歩の道を進み始めた。BiSの解散ライブが2014年7月8日で、WACKの法人登録が同年8月3日。では、新しく作った自分の会社で何を始めるのか? ここのビジョンが起業にあたってもっとも重要になるはずだが、渡辺は「特に何も考えていなかったんですよねえ」としれっと口にするのだった。

「その頃はBiSHの構想もなかったですしね。7月にBiSが解散したけど、その時点で決まってたのはNIGOさんの始めるBILLIE IDLEにプロデュースとして入ることくらい。グループの制作進行を僕が担当していたので、プロダクションマネージャーみたいな感じでしたね。マネジメントはタッチしていなかったから、煩雑な作業はほぼ皆無。それと同時にThis is not a businessというバンドもやっていました。もともと僕はバンドをやりたい人間でしたから。

正直言ってBiSが解散した時点でもうこりごりだったんですよ、アイドルグループは。なんかもう面倒くせえなと思っていました。メンバーもいろいろうるさいことを言うし、チェキ会とかで人手も必要だし。その当時やっていたバンドはクラウンからメジャーデビューも決まっていて、バンドはただ竿(※ギターやベースなどの弦楽器)を持ってツアーを回ってればよかった。Tシャツとかのグッズも売れてたので、まあとりあえず食う分には困らないくらいの感覚だったんですよね」(渡辺)

複数のグループを擁する2021年現在のWACKに対しては、勢いのある新興アイドル軍団といったイメージを持っている方が多いだろう。しかし、それは2014年当時の渡辺にとってもっとも唾棄すべき会社像だった。できればアイドルには触れないでビジネスしたいと考えていた渡辺だが、あっけなくその構想は崩れ去ることになる。

「結局ね、BiSがあったからこそ僕は偉そうにできていたんですよ。だけど独立してBiSという看板がなくなったら、途端に弱い立場に追い込まれたんです。2014年の夏には『TOKYO IDOL FESTIVAL』にもプラニメ(元BiSのカミヤサキと元いずこねこのミズタマリによるユニット。のちのPOP / GANG PARADE)で出たんですけど、そこでも僕は異常に肩身が狭いわけです。『あれ、なんかおかしいな?』と思いましたね。それで2014年の年末に『ちょっとこれはもう1回BiSみたいなことをやらないと偉そうにできねえぞ』と考えまして(笑)。で、始めたのがBiSHなんです」(渡辺)

本当に偉ぶりたかっただけなのか? それだけで、あれだけ嫌がっていたアイドルをもう一度手がけるというのはにわかに信じがたい。実際はほかにも理由があったのではないか? そのように食い下がると、今度は言葉を選びながら慎重に語り始めた。

「確かに『偉そうにしたかった』というのは語弊があるかもしれないな。誇りみたいなものが自分の中で持てなかったというのが正確かもしれない。This is not a businessには彼らなりの方向性があったし、プラニメだって2人の意思がはっきり存在していた。つまりWACKには渡辺印がひとつもなかったんです。でも、それって変な話じゃないですか。独立する前のほうが渡辺印がたくさんあって、自分の会社を作ったらそれが全部なくなっているわけですから。普通、独立したら自分の好き勝手をやりますよね。だから要するに『俺はこれをやっています!』って堂々と言えるものが何もなかったんです。それを作りたかったからこそ、BiSHを始めたという部分は多分にありますね」(渡辺)

ダサいと言われることをやるのが自分の役目

2014年の年末、どういうわけか渡辺はすでに退社しているつばさレコーズの忘年会に呼ばれて顔を出すことになった。つばさレコーズの吉永社長からすると、かわいがっていた元社員の独立を祝おうという意図があったのかもしれない。そして、その忘年会には松隈の姿もあった。意を決して「もう1回BiSをやろうと思っているんですけど、手伝ってもらっていいですか」と頼んだ渡辺に、松隈は「待ってたよ」とだけ返事をした。ここから2人の快進撃が始まることになる。

「独立したばかりの渡辺くんは、どんな仕事でも丁寧に取引相手に合わせなきゃならない場面が多かったので、結果的に自分の持ち味が発揮できていなかったんですよ。そのことは本人にも伝えました。でも、それは言われなくても本人が感じていたはずなんですよね。渡辺くんは天才的な目利きの持ち主で、いまだにオーディションのたびに人選に驚かされるほど。メンバーに自主性を与え、自信を持たせることで覚醒させていく手法も本当にすごい。だからそんな渡辺くんに『もう一度BiSを始めたいんだ』と言われたときは、2人だけで作る未来にワクワクしたことを覚えています」(松隈)

「ただ、当時は松隈ケンタ以外の人たちからボロカスに言われたんですよ。『BiSをいい感じで解散させたのに、もう1回ってどういうことだよ? ダサすぎだろ』って。まあその反応で逆にいけるかなと感じた部分はありますけど。自分が天邪鬼ということを差し引いても、ほかではなかなかやらないような道を進んでいるんだという確信が持てましたから。実際、発表したTwitterへのリアクションもすごかったですしね。確かYahoo!トレンドで『BiSH』が1位になったんですよ。それで、これはやっぱりいけるじゃんと思いました。そもそも僕はダサいと言われることをやるのが自分の役目だと思っているので、みんなからダサいと言われて自信を深めたんです」(渡辺)

この時期、渡辺は松隈以外にもう1人“信用に足る人物”に相談を持ちかけていた。2010年のBiS結成にも居合わせていた「OTOTOY」の当時の編集長・飯田仁一郎氏である。ただ、このときの様子については若干両者の言い分が異なっている。まずは渡辺の言葉に耳を傾けてみよう。

「最初、『OTOTOY』の編集長に相談したときは『うわー』みたいな渋い反応だったんです。『それ、どうなんだろう』とか言われちゃって。それでもインタビューしてもらって、僕のほうから強引にプレゼンして、『こんな感じでBiSHというのをやろうって思っている』って説明したら『改めて話を聞くと面白そうだな』みたいな感じでリアクションが変わってきまして。『OTOTOY』ではBiSHも初期からずっと連載をやっていて、それは『二番煎じは本家を超えられるのか?』というテーマなんですけど。まあ今となっては、そこはなんとか達成できたかなと思いますね」(渡辺)

一方、飯田の記憶によると相談を持ちかけられたときの様子は次のようになる。

「渡辺さんから電話がかかってきたんですよ、『第2のBiSを作ろうと思う』って。『いいッスね。最高です!』って返事したと思います。今も昔も渡辺さんがやりたいことを後押しすることはあっても、僕が意見するようなことはほぼないですから。当時の記事を読み返すと『さあ、また熱い日々が始まる。そうだ、何度も思い返すことのできる青春の日々だ!』とか書いてありますからね。僕も渡辺さんの提案に相当テンションが上がっていたんだと思います(笑)。

渡辺さんの様子ですか? テンションはいつも通りでした。特に高くもなく、低くもなく。でも、閃いたときの確信が言葉に詰まっている……そういう印象は受けました。成功するかしないかは、わかりませんでしたけどね。結果は関係者ではなくお客さんが出すもので、やってみるまでわからないと思っているので」(飯田)

チッチが振り返るBiSHのオーディション

2014年のつばさレコーズ忘年会から、松隈はすぐさま楽曲制作に突入した。BiSH始動を世の中に宣言したのが2015年1月14日(参照:「BiSをもう一度始める」渡辺淳之介プロデュース“BiSH”始動)。3月10日にはすでにオリジナルメンバー5人が確定している。その中の1人、セントチヒロ・チッチがオーディションの様子を説明してくれた。

「ここに飛び込めば、人生を変えることができるかもしれないと思ったんですよ。どうしても型にはまってしまう自分の正統派な生き方に飽き飽きしていたとき、BiSHのメンバー募集を知ったので。

オーディションのグループ面接では、変なことを言う女の子ばかりが集まっているなという印象がありました。渡辺さんも松隈さんもわかりやすいところがあって、興味があるかないかは見ていてすぐにわかりましたね。私は『ハレ晴レユカイ』(平野綾、茅原実里、後藤邑子 / テレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディングテーマ)を披露しました。歌い始めると松隈さんがギロッとこっちを睨んできたこと、歌い終わってから『ちょっと脱いでみて』と渡辺さんに言われたことは鮮明に覚えてます。できるかできないか試されているのかなとも思いました」(セントチヒロ・チッチ)

「自分の人生を変える」という彼女の目論見は、オーディション合格後にすぐさま現実のものとなる。グループの商業的成功に加え、ジェットコースターのような怒涛の毎日が何事にも代えられないような充実感をもたらしてくれたからだ。

「苦しいことも楽しいことも信じられないほどたくさんあるけど、それが面白くて幸せなことだと感じています。いつも“当たり前”を壊され続けているから、それが自分の進化につながっている気がしていて。1歩ずつ人として本質を見られるようになったし、何よりも物事を考える癖が身に付きました。渡辺さんと出会ったことで、いろんなことを教わった気がします。普通じゃなくてもいいということ、ダメなことなんてほとんどないということ、人との関わりも仁義も愛も大切にしなきゃいけないということ……」(セントチヒロ・チッチ)

解散って、ものすごく効果がある

もう1回BiSを始めると宣言したものの、BiSHの方法論はBiSとは異なる点も多々あった。第1期BiSのレコード会社は当初つばさレコーズだったが、途中からはエイベックス・エンタテインメントとなっていた(所属事務所はつばさプラス)。もちろんメジャーならでのメリットを見込んでのことだが、同時に若干の息苦しさも渡辺は感じていたようだ。

「BiSHではアルバム発売前に全曲ダウンロードして聴けるようにしたんです。CDなんか買わなくてもいいんですよということですよね。あとは最初に黒目だけのビジュアルを出して、徐々に全容を公開していく方法とか……。とにかくやりたいことがいっぱいあったので、どんどん積極的に動いていきました」(渡辺)

一方でBiSから踏襲したことも当然ある。一番はサウンド面。松隈とタッグを組み、ほかの楽曲制作スタッフも以前と同じ布陣で臨んだ。当然、BiSHの音楽性がBiSから大きく逸脱することはなかったでは、なぜBiSHは大ブレイクすることができたのか? BiSに関しては「でんぱ組.incと違ってメジャーになれなかった」と反省の弁を口にしているのに、そこを突破できた要素はなんだったのか? こうした疑問に関して渡辺は「ここは非常に重要なポイントなんですけど……」と前置きしながら、核心部分に触れていく。

「解散って、ものすごく効果があるんですよ。日本人って“解散”とか“脱退メンバー”というものがとにかく大好きなんです。これは要するに『かわいそうな人が好き』という考え方に近いと思うんですけど。それに加えて、一種の懐古主義も機能する。『BiSをもう1回始めます』と言ったとき、みんなすごい勢いでBiSのことを話題にし始めたけど、その中には解散ライブに来ていないような人も大勢いたんですね。“解散新規”と僕は呼んでいるんですけど。

これはね、カート・コバーンやジャニス・ジョプリンと構造的には同じなんです。リアルタイムを経験できなかった若者が『あーあ、俺もCLUB CITTA’でパジャマ姿のカートを見ておきたかったな』という感覚」(渡辺)

ここまで語った渡辺は、ファンとの関係性についてもさらに踏み込んだ話をしてくれた。

「第1期BiSについて僕は『究極の内輪ノリ』と言いました。これはある意味、外を受け付けなかったということでもあるんです。ものすごく排他的だった。『BiSを好きじゃない奴は来なくていい』みたいな感じでね。当時、BiSの内輪に入りたいけど入れない人たちは大勢いたと思いますよ」(渡辺)

これには頷ける部分が大いにある。モッシュやダイブが当たり前だったBiSのライブはハードコア系バンドのような熱狂を生み出していたが、同時に対バンイベントなどに出ても敬遠するアイドルファンは多かった。外部から見ると、あまりにも粗暴だったのである。

「僕のTwitterをさかのぼっていただければ発見できると思うんですけど、BiSHのお披露目ライブでは『同窓会みたいだね』とか言いながらライブも観ないで酒を飲んでいる奴らがいたんですよ。その光景を見て『もうお前らはマジで来るな!』と思ったし、そのようにツイートもしました。『お前らなんて求めてないから。いらないから』くらいのことまで書いたはずです」(渡辺)

BiSHは早い段階で女性限定エリアを作った。無料ダウンロードを行ったのも門戸を広く開放したかったからだろう。新しいグループでは、もう「内輪向けの悪ふざけ」なんて絶対にやりたくなかったのだ。それは渡辺自身の立場が変化したことも大きい。一企業の代表取締役社長として社員やその家族を養っていくため、発想を根本から変える必要があった。渡辺は第1期BiSについて「あの頃が一番楽しかった」と振り返っている。だが、もはや目先の楽しさだけを追求するのが許される立場ではなくなっていた。

かつて友達感覚でつき合っていた研究員を「もうお前らは来るな!」と突き放したのは、おそらく経営者としての責任感ゆえだろう。単純にムカついていたのかもしれないが、泣いて馬謖を斬るような複雑な心境だった可能性もある。いずれにせよ2015年の渡辺淳之介は真の意味で大人になることを余儀なくされていたのである。

「それともう1つ僕の考えとしてあったのは、メンバーの給料的にもう少し報われてほしいなということ。少なくともバイトはしてほしくなかったんですよ。横浜アリーナで解散ライブができるようなグループのメンバーが、生活の面でひいひい言ってるのっておかしな話じゃないですか。

でも、これはアイドルに限った話じゃないんです。僕が大学生時代もバイト先で大物のバンドマンが働いているのを見て、『うわ、こんな有名なのに音楽だけじゃ食えないんだ……』ってドン引きしましたし。僕としてはやっぱりベンツとかに乗っていてほしいし、洋服店でも値札とか見ずに『ここからここまで』って注文してほしい(笑)。武道館アーティストでも食えないみたいな現状に対して、どうにかしたいという気持ちは強かったです」(渡辺)

人生でも一番熱量を注いでいた時期

ここでベタな質問をぶつけてみた。「ご自身で振り返って、2014年の渡辺淳之介はどう総括できるのでしょうか?」と。

「若かったですよね……。そして怒涛の1年だったと思う。特にBiS解散までの流れというのはすごく濃くて、本当に大袈裟じゃなく『解散ライブがちゃんとできるんだったら捕まってもいい、死んでもいい』とか思ってたんですよ。それぐらい熱量を持ってやれたことが今につながっているというのは確実にあるでしょうね。すごくつらかったけど、俺の人生でも一番熱量を注いでいた時期じゃないかな。

いや、もちろん今も楽しんではいるんですけどね。でも『死んでもいい』くらいの気持ちは2014年が頂点だった気がします。BiSH以降はメンバーたちの関係性も含めて守るべきものができちゃったのと、あとは関わる人数が増えたという部分もありますかね」(渡辺)

BiSHを始めた際、渡辺は「ああ、もうアイドルシーンなんて存在しないんだな」と痛感したという。これをSex Pistols解散時にジョニー・ロットンが「Rock is dead」とコメントした件と重ねるのは大袈裟だろうか。そこにはある種の感傷と先に進もうとする覚悟が見受けられる。寄りかかるべきシーンがない以上、自分たちで新たにそれを作っていくしかない。そう考えた渡辺は第2期BiSを始動させ、次にGANG PARADEを結成し、その翌年にEMPiREをスタートさせていく。その後のBiSHの本格的な大ブレイクとWACK帝国の隆盛はアイドルファンならばご存知だろう。これは「2014年の渡辺淳之介」と違うフェーズに切り替えたことでもたらされた繁栄と言うこともできる。

デビュー当時のBiSは一部の好事家から支持を受けていたような面も大きかったが、今やWACKはアイドル界の主流へと成長しつつある。オーディション合宿の様子もオープンにしてファンを大胆に巻き込んでいく手法などは、大手事務所の中からも追随する動きが見えるほどだ。インディーズシーンに明るい関係者の中には「今の地下アイドルはWACKフォロワーばかり」とため息混じりにこぼす者もいる。2014年の渡辺が取った「独立」というアクションがシーンの潮流を大きく変えたことは疑う余地もない。

あらゆるジャンルに当てはまることだが、新たな道を切り拓くことができるのは業界の規範から外れた人物だけだ。村の掟に唾を吐き続けた渡辺。そのアナーキーな精神性はサブカルチャーとメインカルチャーの境界線も、ロックとアイドルのファン層の差も軽々と乗り越えていくこととなった。そして今後もWACKと渡辺は前例のない戦いを余儀なくされることだろう。それは歴史を作る選ばれし者たちの使命でもある。

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