Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

「刃牙」シリーズ・渋川剛気のモデルとなった合気の達人とは? 板垣恵介が描く、武術の領域

リアルサウンド

20/4/26(日) 14:48

■もう一つの格闘技伝説~「しからば、力くらべせむ」

 現在進行中の「刃牙」シリーズ最新作・『バキ道』は、『日本書紀』に記された「野見宿禰(のみのすくね)」伝説を紐解くところから始まる。そこで描かれる「古代相撲」に対し、日本神話にはもう一つの格闘技伝説があることをご存知だろうか? 

関連:【画像】『板垣恵介の格闘士(グラップラー)烈伝』(絶版)

 それは『古事記』の「国譲り神話」における出来事で、タケミカヅチとタケミナカタという神同士の戦いだった。「然らば、力を競(くら)べせむ」、……「だったら力比べしようじゃないか」。そう言って勝負を持ち掛けたのがタケミナカタだが、これは野見宿禰のライバル、「當麻蹶速(たいまのけはや)」の発言によく似ている。

 蹶速が言ったのは「頓(ひたぶる)に、力を争(くら)べせむ」、……『バキ道』の第1話で「ひたぶるに我と「力比べ」せん者と!!!」というセリフになったものだ。そして『古事記』における「力比べ」も「互いの腕を掴み合う」という素手の形式だったため、宿禰伝説に繋がる「相撲の元祖」として伝えられるようにもなった。

■「合気」の源流とも伝えられるタケミカヅチ

 『バキ道』6巻に収録予定の第49話では、合気柔術の達人・渋川剛気と、その師・御輿芝喜平の出会いが描かれる。板垣恵介は「岩のように頑丈な体」をそのまま「岩」として描いてしまうような、具体的な比喩の表現を得意とする漫画家だが、御輿芝の「合気」の力を表すのに使ったのが「巨大な氷嚢」の絵だった。

 単に重かったり、堅かったりするのではなく、氷の詰まった袋……。一見すると不思議な表現だ。しかしもしかすると、板垣恵介が『古事記』と合気の関係を知った上で描いたかもしれない可能性を指摘したい。

 「その御手を取らしむれば、即ち立氷(たちひ)に取り成し、また剣刃に取り成しつ」、……「タケミカヅチが自分の手を相手に掴ませると、その腕を氷柱や剣のように変化させた」と『古事記』には書かれている。さらに「タケミナカタの手を掴み返すと、若葦でも折り取るかのように投げ飛ばした」と、凄まじい投げ技の反撃へと続く。

 タケミカヅチが見せたこの「神技」こそが、実は「合気」の源流を表しているという口伝が存在するのだ。それは合気道の元となった「大東流合気柔術」の言い伝えであり、その大東流から合気道を創始した開祖・「植芝盛平」も『古事記』から合気の極意を学ぶ重要性を弟子に伝えている。

 もちろん、神話に起源を求める言い伝えなどは、作り話にすぎない気もする。ただ、実際に植芝の手を握ったことのある力士・天竜三郎は、その手を「まるで鉄棒」のように感じて畏怖したと言い(「合気道新聞」第116号より)、達人の放つ「合気」が氷柱や剣のように重たくて冷やかなイメージを与えるのも事実らしいのだ。

 この植芝盛平こそが、御輿芝喜平のモデルとされる実在の武道家なのである。すると、御輿芝の合気を「氷嚢」に喩える板垣は、意外と「リアルな合気道」をよく理解しながら描いているようにも思えてくる。

■板垣恵介の知る塩田剛三のリアル

 そもそも重度の格闘技マニアである板垣恵介は、どこから合気道への理解を深めていったのだろうか。それは渋川剛気のモデルであり、植芝の弟子で最も高名な達人の一人である「塩田剛三」と、漫画家デビューする以前から親交があったことに由来する。

 板垣から見た塩田の実像については『板垣恵介の格闘士(グラップラー)烈伝』という本に詳しく、塩田の著書に挿絵を描くこともあるような関係だった。塩田自身は『グラップラー刃牙』の連載中に亡くなってしまうのだが(1994年没)、モデルとなる本人と実際に知り合っただけのことはあり、「渋川剛気」というキャラクターは漫画的な誇張だけでなく、「塩田剛三」という武道家の本質をかなり忠実に写し取っているようでもある。

 それは例えば、「温厚そうに見えて狂気じみた獰猛さすら覚えさせる一面」だったり、「相手を油断させて優位な間合いを奪う老獪さ」だったりする。コミックス未収録の試合だから詳細は伏せるが、『バキ道』の「渋川剛気vs巨鯨」戦では、その獰猛さがシリーズ中でも一番というレベルで発揮され、思わず興奮を誘う描写となっていた。

 また、『グラップラー刃牙』時代から「耳の遠いお爺さんのようなフリ」をして試合前の掴み所をなくす、という心理戦を繰り返している。これも塩田が他流試合を挑みに来た空手家を「老人の演技」で騙し、不意打ちの一撃で意識を失わせたという、老獪なエピソードをそのまま活かしたものだ。

 思えば、愚地独歩の奥の手であった「本当の正拳(菩薩の型の拳)」は敵意を完全に消しているため合気が通用しなかったが、限界まで接近してから「先に話し掛ける」ことで顔面に突きを誘い、捨て身の合気を掛けるという精妙な駆け引きで勝利している。

 渋川の「生まれ落ちて七十余年 人間ブッ倒すことだけ考えてきたンだぜ」と豪語する(『グラップラー刃牙』第312話)執念深さは、塩田の青年時代からも顔を覗かせる。渋川が柔道出身者だという設定も塩田の経歴通りなのだが、18歳の塩田が植芝盛平と初めて手合わせした際、なんとしても一撃入れてやろうと「柔道だから組みに行くと思わせて蹴飛ばしてやる」という作戦を実行したというのだから、「手段の選ばなさ」については筋金入りと言える(結果としてその前蹴りが合気で簡単に返されてしまったことで植芝に弟子入りを決意するのだが)。

 弟子入り後も「いつか植芝先生を投げる」という勝ち気を持ち続けていたが、最後に受けた合気道九段の昇段審査は特に印象深い。開祖の教える合気道は本来、剣術などの武器術を含むのだが、体術を好んだ塩田の剣は師に敵うレベルではなかった。だが、その時に「体術ならば一撃入れられる」予感を得ていたらしい。そのつもりで踏み込もうとすると師に制止され、「体術がそのくらいできるならいいだろう」と九段の免状を授かったという。

 武器を持った師匠には勝てないが、素手ならイける。師匠はきっと、弟子に投げ飛ばされてしまう前に止めたに違いない……。『グラップラー刃牙』で板垣は「素手の渋川に気圧された御輿芝が、無意識に刀で応戦してしまう」という、渋川が独立を決意する過去を描いたが、きっとこの昇段時の塩田の心理を表現したかったのではないだろうか。

■「絶対的な力」だけではない領域は存在するのか?

 さて、「渋川vs巨鯨」の次に控えるカードは、「匠」と呼ばれる技巧派の関脇・猛剣と、渋川と並んで日本武術界を象徴している愚地独歩の試合となる。しかし刃牙ワールドでは「範馬勇次郎」と「範馬の血」という絶対的な力が描かれてきたことで、伝統的な武術は(残念にも)格落ちを否めないポジションに追いやられていたと思う。

 ただ、前作『刃牙道』で「宮本武蔵」の怪力だけではない強さが追求されたように、板垣恵介は再び「武術」の領域に注目しだしているのかもしれない。キー・キャラクターである野見宿禰が怪力無双だから、結局「力」の絶対性が揺らがないとしても、渋川剛気や愚地父子といった武術サイドのキャラクターと相撲取りがぶつかる展開は、案外と『グラップラー刃牙』の初心に返った気分も味わえるものかもしれない。

(文=泉信行)

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む