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ポップミュージックにおける、“ボーカル多重録音”の効果 ジャスティン・ビーバー『Changes』を機に紐解く

リアルサウンド

20/3/5(木) 6:00

 ジャスティン・ビーバーのニューアルバム『Changes』は、アトモスフェリックなビートに包まれたビーバーのボーカルが強い印象を残す。ときにごく近く、ときにリヴァーブの向こう側に遠ざかりつつも、甘ったるくキャラ立ちした歌声は抜群の存在感だ。

(関連:ジャスティン・ビーバー、21世紀最大のポップアイコンが4年ぶりのアルバム『Changes』で見せた“変化”とは?

 一方で、たとえばPitchforkでは10点満点中4.5点となかなかの酷評。レビューの「輝きもエロティシズムもあるが空港のターミナルのそれだ」という一節にはさすがに笑ってしまった(参照:https://pitchfork.com/reviews/albums/justin-bieber-changes/)。かつてリアーナがディプロのデモを聴いて言い放った「空港で流れてるレゲエみたい」を彷彿とさせる。たしかに、17曲で51分という長さに対して起伏が少なすぎ、歌詞に聴きどころがあるわけでもなく……という難点はあるだろう。であるとしても、こうした声の存在感に惹かれてつい聴いてしまう。

 ここで注目したいのが、この声の存在感がビーバーの持つ恵まれた声質によることはもちろん、録音された声の処理や、ダビングされたハモりやアドリブの空間的な配置によっている、ということだ。『Changes』でのブライトで深い、かつすごく人工的な(人によってはチープに感じるかもしれない)ニュアンスがあるリバーブを駆使した声の処理とは対極的ではあるけれど、たとえばビリー・アイリッシュのように、ドライなボーカルを繊細に重ねて親密な(しばしばASMR的と言われる)空間を演出するミュージシャンも、「録音された声」の扱いでリスナーの耳を惹きつける。

 と、いうわけで、いささか唐突ながらポップミュージックにおける「録音された声」についてここで一席ぶちあげたいと思う。特に、多重録音の駆使について。

 歌声はあるときには言葉やメロディを伝える媒体だが、またあるときにはそのサウンド自体が雄弁に語り、あるいは言葉にしがたい官能を纏う。「録音された声」においては、そこに録音以降のプロセス――つまりミキシング――が加わることで、より複雑な世界をつくりこむことができる。

 そもそも、自分自身の声でハモりを重ねる、なんていうのはポップミュージックではよくあることだ。あるいは、ボーカルをダブルにする(違うテイクを左右チャンネルにふりわけて使うことで、ステレオ的な広がりをもたせることができる)とかも。しかし、よく考えるとこれはとても奇妙だ。ひとりの人間が同時にふたつ以上の声を出すことは現実にありえないわけだから。にもかかわらず、それに違和感を覚える人はほぼいないだろう。それどころか、こうしたテクニックによってつくりこまれたサウンドに空間や情感をありありと感じ取りさえする。

 こと多重録音の普及以降、あらゆるポップミュージックはおよそ「現実にありえない」フィクションの空間をスタジオのなかやDAWソフト上でつくりだしてきた。これ見よがしの非現実ではなかったとしても、異なる時間、空間で捉えられたサウンドを、あたかもひとつの時空にあるかのように上手にうそをつくのがポップミュージックである。

 ミュージシャンやエンジニアは音量や左右の位置、音質等々をコントロールすることで、サウンドの中にしか存在しない世界を一曲一曲かたちづくっている。現代のリスナーは当然のようにそうしてつくりだされた世界に没入していく。それはあたかも、断片的なショットの集積にひとつの時間の流れを見て取り没入する、映画のようだと思う。

 その「ありえなさ」がエクストリームに達すると、10ccの「I’m Not In Love」のバッキングのように、大量に録音した歌声をミキサー上で操り「演奏」するような試みも生まれる。1オクターブ内の12音を1音ずつ録音したテープループ(しかも、このテープごとにさらにボーカルが3人×16回重ね録りされている)をミキサーのチャンネルに割り振り、音量フェーダーの上げ下げで必要なコードを鳴らす、という、いわばスタジオをまるごとメロトロンにしてしまうことであの印象的なサウンドをつくっている。

 10ccの場合は4人組によるチームワークだったが、ソロミュージシャンにおいてももちろん声の多重録音は重用される。ジャズボーカリストのボビー・マクファーリンの作品や、山下達郎による『ON THE STREET CORNER』を思い起こす人も多いだろう。

 個人的に印象深いのは、デジタルMTRにひたすらボーカルを多重録音して複雑な織物のようなサウンドをつくりあげるエンヤだ。一曲あたり数百回もの声を重ねて分厚いサウンドをつくりだす手法は、他に類がない。

 先ごろ新譜をリリースしたばかりのグライムスもエンヤのプロダクションテクニックを称賛してやまない(ゼイン・ロウとの対談で「もっとエンヤのプロダクションは評価されるべき」という趣旨の発言をしているし、自身のキュレーションによるプレイリスト「ETHEREAL is a genre.」にもエンヤがフィーチャーされている)。

 さらに時代を下って、現代的な多重録音のエクストリームは、といえば、なにをおいてもジェイコブ・コリアーということになろう。マルチプレイヤーでありまた卓越したボーカリストであるコリアーは、自身の歌声を多重録音して複雑なハーモニーを操る。『Jazz the New Chapter 6』収録のインタビューによれば、『Djesse vol.2』に収められた「Moon River」のカバーでは「5000を超えるヴォーカルトラックが入っている」という(同書の30頁を参照)。「自分の声ですべて仕上げる」からこそできる、どうかしているレベルの作り込みだ。MVでは、大勢のコリアーがハモって見せているのがファンシーな絵面のなかに異様な迫力を醸し出している。

 よほどのコントロールフリークなのだろうと思うと、同じインタビューでは、「僕は歌うってことは人間を平等にさせてくれるものだと思っている」(同31頁)と、自作に対する完璧主義とは異なる「歌」に対する良い意味で理想主義的なスタンスが伺えてまた興味深い。

 ジャスティン・ビーバーの話をしていたと思ったらいつの間にか「やばい多重録音」の話になっていたが、しかしこと録音芸術としてのポップミュージックを考えるならばそこには質的な連続性がある。その距離の近さ・遠さに気を配りつつ、エアポートポップスとエクストリームなひとりクワイアーを行き来してみてはいかがだろう。(imdkm)

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