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明智光秀を“麒麟”に見立てる本意は?  王道に見せかけた『麒麟がくる』に仕掛けられた謎

リアルサウンド

20/1/6(月) 7:30

 最終回を迎えた『いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~』(NHK総合)の熱狂が醒めない昨今だが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK総合)も、じわじわと盛り上がりはじめている。

【写真】向井理ポスタービジュアル

 中でも目を引くのが、キービジュアルとして提示される各登場人物のポスターだ。主人公の明智光秀を演じる長谷川博己を筆頭に、織田信長を演じる染谷将太、斎藤道三を演じる本木雅弘、足利義輝を演じる向井理、松永久秀を演じる吉田鋼太郎等のポスターは光と影のコントラストが強く、それぞれのイメージカラーを強調したもので、まるでゲームのキャラクターのよう。そのままソシャゲ(ソーシャルゲーム)のイラストに使えそうな仕上がりで、全種類コンプリートしたくなる。さながら「インスタ映えする戦国武将」とでも言いたくなるキラキラ感だが、SNS時代に注目を集めるための第一の矢として、うまくハマっていると感じた。

 とは言え、大河ドラマの肝はやはり脚本。どんなにビジュアルや出演俳優が豪華でも、肝心の物語がつまらなければ人はついてこない。

 近年の大河ドラマは2016年に三谷幸喜が脚本を執筆した『真田丸』以降、森下佳子の『おんな城主 直虎』、中園ミホの『西郷どん』、そして宮藤官九郎の『いだてん』と、朝ドラで成功した脚本家3人が執筆するという新しいアプローチが続いていたが、今回、脚本を担当するのは池端俊策。

 70年代から活躍するベテラン脚本家で、近年はNHKで『形成済民の男』や『夏目漱石の妻』といった骨太のドラマを手掛けている。そんな池端が、戦国時代を舞台に明智光秀を主人公にした大河ドラマを手掛けると知った時は“随分、王道に寄せてきたな”という印象だった。

 今年の『いだてん』がオリンピックを題材に近現代を描くという、大河ドラマとしては異色作だったため、『いだてん』で離脱した昔からの大河ドラマ視聴者を取り戻すために、軌道修正したという見方もできなくはない。

 だが、守りに入った企画かというと、そうとも言い切れない。それは主人公が明智光秀だからだ。織田信長に反旗を翻し本能寺の変を起こした後、羽柴秀吉に破れて三日天下と言われた明智光秀は、信長、秀吉、あるいは徳川家康とくらべると、悪役であり敗者で、あまり主役として描かれてこなかった戦国武将ではないかと思う。

 中には現代の高校生・サブローがタイムスリップして織田信長として活躍する『信長協奏曲』(小学館)に登場した明智光秀のようなアクロバティックなアプローチもあったが、主役というよりは悪役。もしくは徳川家康の側近だった天海和尚と光秀が同一人物だったという説があるように、歴史の影で暗躍した謎の人物という扱いになることが多かったのではないかと思う。

 そんな光秀をあえて主人公にして“麒麟”という「平穏な世に現れる霊獣」「穏やかな国にやってくる不思議な生き物」(特報動画〈第二弾〉より)に見立てるとは、どういうことなのか? 信長を殺した逆賊ではなく、乱世を終わらせたテロリストのような位置づけに読み替えるのか?

 信長、秀吉、家康といった戦国武将をサラリーマンの立身出世のロールモデルに見立てて、戦国時代の国盗り合戦を楽しむという作法は、それこそ司馬遼太郎の歴史小説から大河ドラマに至るまで定番の読み方だったもので、だからこそ高度経済成長の時代を生きた昭和のサラリーマンに愛好されていた。

 その意味でも戦後日本の就業形態と非常にリンクした物語だった。しかし平成に入り、年功序列、終身雇用といった昭和型経営が形骸化し、グローバリズムが世界を覆い、雇用が流動化し実力主義の世の中になっていくと、旧来の日本型経営の象徴だった秀吉や家康といった戦国武将の在り方が古びていく。同時に織田信長が体現していた実力があれば誰でも取り立てるが、容赦なく首を切るという合理主義的側面は、今の時代に例えるならば、ITベンチャー企業のワンマン社長のパワハラ的振る舞いに見えてしまう。

 そうなると、信長のパワハラに立ち向かった光秀の方が今の視聴者にとっては親しみやすい存在なのかもしれない。こういった歴史の読み替えは今、いたるところで始まっている。『いだてん』における落語の使い方もそうだし、『忠臣蔵』を経済という観点から再解釈した中村義洋監督の映画『決算!忠臣蔵』もそうだ。

 時代劇の話題になると「昔の価値観が現代人には通じなくなったので寂れた」という話になりがちだが、落語や講談といった古典の強さは、長い年月を経て残った物語の骨格にあり、中に込められる思想は、いくらでも入れ替え可能なものだ。だから新しい価値観さえ持ち込めば何度でも蘇る。

 今回の『麒麟がくる』も光秀を主人公にすることで形骸化した戦国絵巻を現代的な物語に読み替えようという試みなのかもしれない。長谷川博己という一癖も二癖もある俳優が演じることも含め、一見王道に見えるが一筋縄ではいかない怪作となる可能性は、ゼロではないだろう。

(成馬零一)

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