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ディーン・フジオカとは一体何者なのか? 『海を駆ける』が映し出す、不条理で魅惑的な世界

リアルサウンド

18/11/29(木) 12:00

 画面いっぱいに広がった凪いだ海から、ひとりの男が現れるーー『海を駆ける』は、そんなふうにして幕を開ける。

参考:特典映像の一部

 前作『淵に立つ』で、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の審査員賞を受賞し、今や世界が新作を待ち望む存在である深田晃司監督は、今作では国際的に活躍する俳優ディーン・フジオカを主役に配し、インドネシアでのオールロケショーンを敢行。私たちの過ごす高度に発展した世界とは違う、多様で豊かな世界を温かく映し出している。

 本作の舞台はインドネシア・アチェ。雄大な自然と、2004年に発生したスマトラ島沖地震による爪痕が、いまだ見受けられる土地である。この物語では日本人、インドネシア人、日本人とインドネシア人のハーフといった若者たちが登場し、ちょっとした国際交流を展開。そこへ、海からやってきた謎の男(ディーン・フジオカ)が加わる。

 海から打ち上げられたというこの男は、名前も国籍も不明。しかし恐らく日本人なのだろうということで、日本人の貴子(鶴田真由)に世話役としての白羽の矢が立ったのだ。とはいえ、得体の知れぬこの男、あまりに怪しい。とうぜん、貴子も不安の色を浮かべるのだが、気づけば彼に“ラウ(=海の意)”という安直な呼び名を与え、意外にもあっさりと自宅に迎え入れる。ラウもラウで、彼女らの中に自然と溶け込み、その夜にはすでに、もう長いこと一緒に過ごしてきたかのような穏やかな光景を共に生み出している。あまりのその自然さに、観ているこちらもつい受け入れてしまうが、やはり、ラウが“異物”であることに変わりはない。

 深田監督といえば、ある世界(=関係性)において“異物”とも思える存在を配置することで、それがもたらす変容する関係性(=世界)を絶えず描いてきた。それが顕著であった『淵に立つ』での、ある男の闖入による、ごく平凡な家族の変貌ぶりも記憶に新しいだろう。遡ってみれば、人間世界でアンドロイドが共存する『さようなら』(2015)、モラトリアム期の少女が夏のひとときを海辺の田舎町で過ごす『ほとりの朔子』(2013)、そして『歓待』(2010)では、『淵に立つ』や本作と同様に、なにか得体の知れない存在として男が登場する。いずれの作品にも、“異物”と呼べる存在が配置されているのだ。

 しかし本来そこにあるべきではないもの、あるいは、ないはずのものを、“異物”だと簡単に言い切ってしまうことははばかられる。環境によって、それらの扱われ方はさまざまだ。たとえば旅人はどこへ行ってもよそ者であることに変わりないが、観光地など旅先によっては歓待されることを、誰もが知っている。そして、何者かの存在によって変容する関係性とは、私たちの世界にも往々にして見受けられるもののはずだ。その“何者か”とは、私や、あなたであることもあるだろう。私たちの世界にも溢れる「寛容さ」と「不寛容さ」のせめぎ合いの中で、突き詰めてみれば、これが人間関係のとうぜんの姿だとも言えるのではないだろうか。

 さて、本作でこの異物的ポジションを担ったディーンだが、台湾での活動を経て、逆輸入的に日本デビューを果たした彼自身もまた、かねてより得体の知れない存在であった。この2018年は本作だけでなく、『坂道のアポロン』『空飛ぶタイヤ』といった出演映画の公開があり、『モンテ・クリフト伯 -華麗なる復讐-』(フジテレビ系)ではプライムタイムでの連続ドラマ単独初主演も飾っている。まさに順風満帆な俳優人生のように思えるが、モデル、ミュージシャン、映画監督と、その活動は多岐に渡り、何か特定のジャンルや人物像に彼を当てはめることは不可能だ。

 ディーン・フジオカとは一体何者なのか? そんな問いかけは、このラウという人物にも通じる。その表情からは喜怒哀楽が読み取れず、微笑を浮かべているようにも見えるが、同時に、悲しみを湛えているようにも見える。不思議な力を有する彼のことを、貴子が名付けたとおり、「海」の化身や、あるいは「自然」そのものと見ることは可能だ。しかしその力は、特定の感情から発するものではなく、単に気まぐれとしか言いようのない振る舞いで、ときに人を癒やし、ときに傷つける。掴みどころのない存在であり、さらに言えば、捉えきれない存在なのである。

 “捉えきれない”といえば、ここで冒頭のワンシーンをはじめとする、画面いっぱいに広がった海の姿を思い出してみたい。全ての生命を産み出す「海」、全ての命を奪う「海」、彼は「海」から現れたーー本作のキャッチコピーでも強調されているこの「海」は、フレームに収まらない、まさに捉えきれない存在である。つねにその一部しか見ることは叶わず、全体を把握することなど不可能なのだ。そもそも捉えてしまおうとすることなど、私たちの傲慢さでしかないだろう。同じように、一見して無害な男に思えるこのラウの、私たちは何を知っているのか。ときに理不尽な存在ともなる彼(ラウ=海)を捉え、何か求めることなど、それこそ理不尽というものだろう。ラウの気まぐれな態度は、自然の予測不能さと同じである。またそれは、心の内が見えない隣人とも近いものではないだろうか。そこではなにが起きても不思議ではないのである。ラウの存在への肯定は、他者理解への助けともなるだろう。

 静かな映画ではあるが、描かれる世界には終始笑顔が溢れている。だからといって、ユートピアというわけでもない。いかようにも解釈できる不条理で魅惑的な世界は、ひるがえって私たちの過ごす世界と地続きであることを気づかせてくれるだろう。このたび発売となる『海を駆ける』DVD&Blu-rayでは、インドネシアで製作された短編ドキュメンタリー『8月のアチェでアリさんと話す』や、メイキング、インタビュー映像が収録されている。多様な解釈を受け入れる、懐の深い映画である深田作品の世界の成り立ちの、その一端を垣間見ることができるのではないだろうか。本編とはまた違う、インドネシアでの笑顔溢れる国際交流が収められているのだ。そこには、この映画に感じる温かさの理由も隠されているはずである。(折田侑駿)

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