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佐野元春を成立させるクリエイティブのかけら

大瀧詠一との出会い、「サムデイ」の大ヒット 佐野元春による革命が始まる

全14回

第4章

音楽ファンのなかには「佐野元春と言えばラジオDJ」ととらえている向きも少なくない。佐野は1981年4月からNHK-FM『サウンドストリート』のDJに抜擢される。坂本龍一、山下達郎、渋谷陽一など錚々たる顔ぶれと共に、彼は1987年3月まで、6年間にわたって毎週月曜日のDJを務めた。いわゆる「元春レイディオショー」である。

サブタイトルを「元春レイディオショー」と名付けて、番組構成も独自のスタイルにした。コンセプトは“レス・トーク、モア・ミュージック”。深夜放送によくある、笑い話の途中で音楽をかけるという調子ではなく、1曲目がこういう理由だから2曲目はこれと、体系的なフローでロックンロールをシームレスにかけまくった。今日で言うプレイリストだね。海外の古本屋でプログラム制作のノウハウ本を読んで、独学で実践したんだ。

この番組が全国津々浦々に流れてくれたおかげで、僕の存在がさらに若い世代に知られた。大人や時代遅れな連中は聴いていない、自分だけが知っている秘密のシンジケートのように感じてくれたファンもいれば、「これぞ待っていた音楽番組の形だ」と言ってくれるファンもいたよ。

「元春レイディオショー」は、その後もたびたびレギュラーや単発など形を変えて復活している。最近では、J-WAVE『RADIO SWITCH』(2020年5月9日放送回)、FM COCOLO『THE MUSIC OF NOTE』(2020年7月 - 9月放送回)が放送されている。

僕はデビュー当時からロックンロールに文化的な価値を見出していた。そうした自分の態度を表明する行為が、自然とラジオDJや『THIS』(83年創刊。佐野が責任編集を務める雑誌)といったメディアに僕を向かわせたのだと思う。

この年の7月、佐野はある人物と出会う。2013年に急逝した大瀧詠一である。「僕にとって、数少ない、信頼のおける年上のミュージシャン。この気持ちは今でも変わらない」。佐野は大瀧についてそう語る。そして82年3月、大瀧と佐野、そして杉真理の3人によるアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』がリリースされる。

大瀧さんからの誘いは運命的な出来事だった。後年、ある雑誌の取材で、杉君と僕と大瀧さんの3人で話す機会があってね。そのとき、大瀧さんも、僕との出会いは偶然ではなく必然のように感じていたと語ってくれて。大瀧さんの発言というのは、そのすべてが彼なりの理屈に基づいているので、お愛想やいい加減なことは言わない。彼はメモを取り出すと、とうとうとこう語り出した。

僕が職業作家としてデビューした佐藤奈々子が日本コロムビアと契約したとき、大瀧さんもそこでナイアガラ・レーベルをやっていた。このとき、なぜコロムビアのディレクターが佐野元春という傑出した才能をナイアガラ・レーベルに紹介しなかったのか。もし紹介されていたら、ナイアガラ・レーベル第1号もしくは2号のアーティストとしてプロデュースしていた。それが悔やまれてならない。また、大瀧さんは70年代にビートルズの「Your Mother Should Know」をモチーフに「空飛ぶくじら」という曲を書いている。佐野元春も16歳のころ、やはり同じ傾向の「Bye Bye C-Boy」を書いている。これはすごい才能だ。そんなことを語ってくれたんだ。

佐野は『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』に先駆けて、81年にリリースされた大瀧のアルバム『A LONG VACATION』のレコーディングを伊藤銀次と共に見学している。そこで繰り広げられていたのはフィル・スペクターに代表される“ウォール・オブ・サウンド”のレコーディングだった。佐野は衝撃を受けた。

六本木のソニースタジオだった。ふたりのプレイヤーがアコースティックピアノ2台を演奏して、アコースティックギターは確か4人が一斉にストロークしていた。パーカッションも複数名が一緒に演奏している。ベースもふたりいて、チェンバロのようなキーボード楽器もエレキギターもいた。名うてのプレイヤーがそれぞれのパートをまとめ、一斉に音を出すことによって、言葉にできないような倍音がスタジオの中に満ち、壮大なスケールのオーケストレイテッドなサウンドが作られていた。

『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』のレコーディングにはいくつかのエピソードがある。

僕が「彼女はデリケート」という曲を大瀧さんに持っていった。僕としては上出来のつもりだったんだけど、それを聴いた大瀧さんは「やり直そう」と言う。僕がマイクの前に立つと、大瀧さんがスタジオのコンソールから、「佐野君、エディ・コクランだ」と言った。僕は「ああ!」と気付いた。僕が仕上げたボーカルテイクは、ピッチもリズムも正確だった。でも大瀧さんは、もっと生(なま)がほしいと僕に伝えたんだ。僕が歌うと、大瀧さんはとても喜んで「それだよ!」と言った。

さらに、僕が持ち込んだ「彼女はデリケート」の終わり方はフェイドアウトだった。でも大瀧さんは「佐野君、ロックンロールはカットアウトだ」って。当日、立ち会っていた伊藤銀次と大瀧さんはすごいアイデアを出してきた。ギターのカットアウトらしい演奏をサンプリングして、ドラムをストップさせた箇所に、エディットで強引に突っ込んで、見事、カットアウトの仕様にしたんだ。適切なプロデュースとしか言いようがなかったね。

この時期、『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』と併走して行われていたのが、佐野のサードアルバム『SOMEDAY』のレコーディングだった。

『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』と『SOMEDAY』は僕が表舞台へ出ていくためのよい共鳴を生んだと思う。僕は大瀧さんがそこまで考えてくれていたのではないかとさえ思っている。

『A LONG VACATION』のレコーディングを見学した僕は、すぐにシングル「サムデイ」のプリレコーディングを行った。バンドメンバーを街の小さなスタジオに集めて、ウォール・オブ・サウンド式のレコーディングでデモテープを作った。このミックスを仕上げてくれるエンジニアは彼しかいないと、僕は吉野金次さんを訪ねた。僕の意図を汲んだ吉野さんはすぐに「やりましょう」と快諾してくれた。

それともうひとつ。『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』で、僕は「彼女はデリケート」、「マンハッタンブリッヂにたたずんで」、「Bye Bye C-Boy」、「週末の恋人たち」という4曲を大瀧さんに渡していた。数日後、どういうわけかレコーディング中だった「サムデイ」を聴いた大瀧さんから「「サムデイ」と「マンハッタンブリッヂにたたずんで」を交換できないか?」と提案された。見事なプロデューサー目線だ。僕は一瞬考えたけれど、「やっぱりそれはできません」と断るほかになかった。

なぜなら、この時点でいまだ商業的な成功を収められていなかった佐野にとって、81年のシングル「サムデイ」は背水の陣とも言える曲だったからだ。

自分にとって運命の1曲だと感じていた。「もしこの曲がヒットしなかったらもうミュージシャンを辞める」とまで公言していた。だから大瀧さんの力を借りず、自分の力で勝利を獲得したいと思った。

この曲は当初セカンドアルバム『Heart Beat』に収録するために制作を進めていた。でも歌詞の一部がどうしても書けなくてね。ついにインスピレーションを得て、〈ステキなことはステキだと 無邪気に笑える心がスキさ〉というラインを埋めることができたときは、「これしかない」と思えた。きっと多くの人が愛してくれる曲になるはずだと確信したよ。

そして佐野の確信は現実のものとなる。82年のアルバム『SOMDEDAY』は大ヒットを記録し、「サムデイ」もまた、今日まで愛される名曲となったのである。

「ついにやったぜ!」と思ったよ。このアルバムのソングライティングでは、過去2枚のアルバムで歌っていた“十代のためのポップ・ロック”という主題に加えて、社会に出て働き出したリスナーも視野に入れた。つまり物語の主人公を成長させたんだ。僕のファンのなかにも、すでに学校を卒業した人たちが多かったからね。僕は、あのころ、THE HEARTLANDと共にしょっちゅう全国をツアーで回っていた。熱狂する彼らの前に立てば、彼らがどんな歌を歌ってほしいのか、僕には直感的に悟ることができたんだ。

この商業的な成功は、当時の音楽シーンの様相にも影響を及ぼした。

僕がデビューした80年は、まだティーンエイジャーのマーケットは目に見えてるようでいて見えてなかった。しかし徐々に都市部から顕在化していった。僕はマーケットという言葉は嫌いだし、これは不遜な言い方かもしれないけど、その後、多くのレコード会社から「これからはこのマーケットで当てていくんだ。佐野元春を手本にしろ」というシンガーやバンドが現れた記憶がある。ある時代の変化に立ち会って、自分はたまたまその最先鋒にいたんだと思う。

「佐野元春 with THE HEARTLAND」は街から街へとライブを続けた。そこに待ち受けていたのは、ファンのさらなる熱狂だった。

僕らはものすごい勢いで、もうステージで死んでもいいと思うくらいのエネルギッシュな演奏を続けていた。伊藤銀次は僕に「革命が始まっている」と言っていた。僕は革命とまでは思わなかったけれど、誰よりも愛するロックンロールが多くの人に届いているという手応えに大きなエキサイトメントを感じていた──ところが、僕は急にそれまでのキャリアを横に置いて、「ニューヨークへ行く」と言い出す。それはもう非難轟々だったね。

取材・文/内田正樹
写真を無断で転載、改変、ネット上で公開することを固く禁じます

当連載は毎週土曜更新。次回は10月10日アップ予定です。

プロフィール

佐野元春(さの もとはる)

日本のロックシーンを牽引するシンガーソングライター、音楽プロデューサー、詩人。ラジオDJ。1980年3月21日、シングル「アンジェリーナ」で歌手デビュー。ストリートから生まれるメッセージを内包した歌詞、ロックンロールを基軸としながら多彩な音楽性を取り入れたサウンド、ラップやスポークンワーズなどの新しい手法、メディアとの緊密かつ自在なコミュニケーションなど、常に第一線で活躍。松田聖子、沢田研二らへの楽曲提供でも知られる。デビュー40周年を記念し、2020年10月7日、ザ・コヨーテバンドのベストアルバム『THE ESSENTIAL TRACKS MOTOHARU SANO & THE COYOTE BAND 2005 - 2020』と、24年間の代表曲・重要曲を3枚組にまとめた特別盤『MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980 - 2004』のリリースが予定されている。

『THE ESSENTIAL TRACKS MOTOHARU SANO & THE COYOTE BAND 2005 - 2020』
『MOTOHARU SANO GREATEST SONGS COLLECTION 1980 - 2004』

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