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又吉直樹、小説家としての原点は『東京百景』に 『火花』『劇場』へとつながる随筆集

リアルサウンド

20/4/22(水) 16:00

 2009年6月19日。阿佐ヶ谷ロフト。タイムマシンに乗れるなら、私はまずこの日、この場所を選ぶと思う。又吉直樹主宰「太宰ナイト」が初めて行われた日。ゲストは作家のせきしろを筆頭に南海キャンディーズ山里、しずる村上、ハリセンボン箕輪、そして作家の西加奈子。今をときめく、私が大好きな芸人と作家たち。ああ、でもこれだけのメンツが集まるイベントなら、当日にタイムスリップしたところで当日券はないだろうか。春の夜長にオタク特有の面倒な諸々を考えながら、私の意識はあの日の阿佐ヶ谷に落ちていく。

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〈太宰の百歳の誕生日に太宰を偲ぶライブをやりたいと思った。芸人にとって自ら主宰するライブを行うというのは高い壁だった。期待されているコンビでも単独ライブをやらせてもらえるのに三年はかかる。個人で好きな作家を語るライブなど本当に遠い夢だ。でもやりたい。そのライブを想像すると力が全身に漲るような感覚があった。そして、もしそれが叶わぬなら辞めてしまおう。それまで死に物狂いで準備をするのだ。刀をひたすら研ぎ続けるのだ。井の頭公園を歩きながら自分に誓った。〉

 又吉直樹『東京百景』は大阪から上京してきた著者が笑いを追い、文学を追い、東京という街に翻弄されたり圧倒されたりしながら書き綴った随筆集だ。この本を初めて手に取ったとき、私は東京でひとり暮らしを始めたばかりだった。味方がひとりもいないような気持ちに陥った夜、この本をおもむろに開いて、ここに拡がる東京の風景たちに何度も助けられた。

〈東京は果てしなく残酷で時折楽しく稀に優しい。〉

 私はずっと、孤独が人を蝕んでいくのだと思っていたが、そうではないことに気付かせてくれたのはこの本だった。

〈本当の地獄というのは必ず孤独の中では無く、社会の中にある。人と関わった先にこそ地獄はあると自分は思っている。〉

 自分が今まで感じていた地獄は人と関わったからこそ落ちてしまったものだと、そのとき初めて自分の中で合点がいった。孤独が恐くなくなったのは、この本に出会ったのがきっかけだったかもしれない。

 本書は実際に起きたことと、そうでないことの境目が曖昧だ。東郷神社で突然亀と話し出したり、盆栽に水を呑まそうとベランダに出たら流星とぶつかったり、上野公園でデートしていた相手が消えてしまったり。ありえないことのようだが、読んでいるうちにこれは本当に彼が経験したことなのかもしれないと思えてくるから不思議だ。東京の街を歩くという行為が、途端に僅かな恐怖と少しのドキドキを孕んだ、ちょっとした冒険に思えてくる。

 作中に知っているあの人がひょこっと顔を出すのも楽しい。ファミレスで待ち合わせをしていたら相方の綾部が帽子とサングラスを着用した芸能人然とした姿で現れ、外した瞬間「誰だよ」という空気になったり、テレビの出番前に栗原類と話していたら「似たようなのが話してる」と笑われたり、養成所に入ったらサッカーに誘われて〈ブラジル帰りの日系三世のような雰囲気の髭のおじさん〉が特に凄いなあと思っていたらそれがペナルティのワッキーだったり、嬉しいゲストが随所で登場してくれる。

 そして、本書には至るところに『火花』や『劇場』に成る前の種のようなものが散らばっている。「池尻大橋の小さな部屋」という話は『劇場』の前身のような話だ。一緒にいてくれた彼女に対して身勝手で傲慢な態度を取り続け、いつかできると思っていた恩返しは永遠に叶わなくなってしまった。出会った頃の彼女はオシャレな恰好をしていたが、自分の貧しさに合わせてだんだん質素な生活になっていった。そして、一度だけお金を貯めてプレゼントした財布をボロボロになっても使い続けてくれた。大切な人を大事にできなかった後悔を男はずっと抱え続け、やがて『劇場』という作品にその思いを託す。

 今回文庫化に際して、書き下ろしが一景(一編)収録されている。百景ある中で、相方の綾部が登場するのはほんのいくつかのみ。書き下ろしでは、綾部の登場がなぜ少ないのかについて語られていく。綾部がいなければ、芸人・又吉直樹は今ここにいなかった。ピースとしての活動があったから、『東京百景』を書くことができた。文章を読むのは「領収書が限界」と嘯く彼が、初めて読んだ小説は『火花』だった。ドブの底を這うような日々に射す、一筋の光。綾部の存在は、海を隔てて遠く離れていても、又吉の中で輝き続けている。

(文=ふじこ)

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