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阿部和重『オーガ(ニ)ズム』は2010年代の終幕にふさわしい傑作だーー「擬似ドキュメンタリー的」転回を考察

リアルサウンド

19/11/29(金) 14:00

『Orga(ni)sm』における「語り」の変質

 9月に刊行された『Orga(ni)sm オーガ(ニ)ズム』(文藝春秋)は、阿部和重の最新にして最大の長編小説である。『シンセミア』(2003)、『ピストルズ』(2010)に続く、いわゆる「神町3部作(トリロジー)」の完結篇と位置づけられている。

 物語のおもな舞台は、これまでの作品群の多くと同様、作者自身の故郷である山形県東根市の神町。

 2014年4月末、当時のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマが、日本の首都機能の一部が移転した、この東北の小さな田舎町に来訪する。『シンセミア』で大洪水に呑まれ、『ピストルズ』で特殊能力を使う一族が暗躍する神町は、2011年7月に発生し、永田町の国会議事堂を崩落させた首都直下型地震を受け、いまや首都機能の一部を担っていたのだ。一方、物語は、この大統領訪問に先立つ3月のこと、東京に住む小説家・阿部和重のもとに、突如、血塗れの欧米人男性が転がりこむところから幕を開ける。ラリー・タイテルバウムと名乗るその男は、当初、ジャーナリストと自称していたものの、のちにCIAのケース・オフィサーであることが判明する。ラリーが訪れた目的とは、神町に住む一子相伝の秘術を操る一族・菖蒲家がかかわっているとおぼしい、核テロ計画から大統領を守ることだった。ラリーの説得にほだされた阿部和重は、3歳になる息子の映記をかかえながらラリーとバディを組み、故郷で暗躍する陰謀を阻止するために神町へと向かうことになる……。

 阿部文学の現時点での到達点となった本作は、3部作の過去の2作はもちろん、『ニッポニアニッポン』(2001)や『ミステリアスセッティング』(2006)など、過去作のディテールと周密に結びつき、日米関係から天皇制、ニューエイジから「ポスト3・11」まで、無数のモティーフをはらんだ破格のサスペンス・ノワールとなった。この書評では、さしあたり1点だけに注目して、阿部作品における本作の「語り」の変質の問題について、彼の映像論との関連から考えてみたい。

『Orga(ni)sm』と「擬似ドキュメンタリー」問題

 もちろん、『Orga(ni)sm』をめぐる「語り」の変質については、さまざまな論者によって、さらには作者自身によってもすでに充分に語られてきている。

 60人近くにおよぶ登場人物の多視点的な叙述とフォークナーや中上健次、谷崎潤一郎、大江健三郎といった近現代文学の豊潤な系譜を自覚的に受け継ぐ濃密かつ実験的な文体で綴られる『シンセミア』。それとは対極的に、ほぼひとりの女性の一人称を借りた甘美で静謐な饒舌体に徹した『ピストルズ』に続き、今回の『Orga(ni)sm』では、スラップスティックなコメディタッチをいたるところにちりばめながら、個々のキャラクターと会話劇の応酬を際立たせたスピーディな展開を前面に押しだし、これまでの阿部作品のなかでもひときわ「エンタメ色」が強い文体が特徴的な小説となっている。そして、この語り口が伊坂幸太郎との共作小説『キャプテンサンダーボルト』(2014)での経験で培われたものであることも作者によってはっきりと表明されている。

 とはいえ、私はむしろこれをまた、――現在専門とする映画批評の視点とも絡めて――別のアングルからあらためて照射してみたい。それはたとえば、本作にも如実に窺われる「擬似ドキュメンタリー」的な表現に対する阿部のスタンスの変化である。擬似ドキュメンタリーとは、「フェイクドキュメンタリー」や「モキュメンタリー」とも呼ばれるが、ドキュメンタリーの常套的な手法を駆使して作られたフィクションの映像作品を指す言葉である。阿部は本作をめぐるインタビューでも、この擬似ドキュメンタリーについて、しばしば言及している。曰く、

 僕は映画の勉強もしてきて1990年代から映画評論も書いてきましたが、疑似ドキュメンタリーという手法への批判に集中的に取り組んだ時期があります。90年代初頭から手持ちカメラでニュースフィルムみたいに撮るスタイルが劇映画で流行った。[…中略…]60年代や70年代はスタジオの外で撮るインディペンデントな制作活動や世界的なニューシネマ運動の潮流から自然とそうしたスタイルが採用されてきたわけですが、90年代以降はリアリティの担保としてスタイルを再利用している側面が強いため、意味合いがまったく異なってしまう。その中で見えてくるリアリティは技法でしかない。(阿部和重が語る、『オーガ(ニ)ズム』に自分を登場させた理由 「私が私のことを書いてもリアルが保証されるわけではない」

 ここで阿部が要約しているように、当時の市販の手持ちのデジカメ映像を思わせる手ブレや粒子の粗い映像、あるいは素人俳優の起用、また「事実に基づく」という触れ込みなど、90年代後半ころから低予算の擬似ドキュメンタリー映画が国内外で広く流行した。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)などのヒット作を発端として、『クローバーフィールド/H A K A I S H A』(2008)や『パラノーマル・アクティビティ』シリーズ(2009-2015)、『ヴィジット』(2015)など、その潮流は基本的には現在も続いている(国内作家では松江哲明や白石晃士の作品群が有名)。

 そして、阿部は『ロスト・イン・アメリカ』(2000)での座談会や『映画覚書vol.1』(2004)に収録された批評文などで、早くからこうしたスタイルの作品の多くに批判的に言及してきた。そこでの阿部の擬似ドキュメンタリー批判の要旨を要約すると、以下のようになるだろう。すなわち、つねにすでに「表象」でしかありえない映画というメディアがそのメディア性に自覚的でありつつ、なんらかの「現実」を描きだそうと試みるとき、擬似ドキュメンタリーという手法は、現代のわたしたちの身の回りにすでに溢れているあてがいぶちの「リアル」なイメージのクリシェをなぞっているだけにすぎず、それでは映画がこの世界と批判的に対峙するにあたってあまりに自堕落ではなかろうか、と。

「擬似ドキュメンタリー」批判と「擬似ドキュメンタリー化」する世界

 こうした阿部の擬似ドキュメンタリー批判は、表象の物質性や歴史性(「テクスト的現実」)にこだわり続ける蓮實重彦の映画批評の大きな影響を受け、またセルバンテスからP・K・ディック、大西巨人にいたる無数の先行テクストを縦横に参照しつつ、「書くこと」の自明性を鋭く意識化させたメタフィクション『アメリカの夜』(1994)でデビューしたこの作家のキャリアを考えれば、ごく自然に納得できるだろう。

 ただ、私自身は後続世代の映画批評の書き手として、阿部の小説や批評を愛読しつつも、この擬似ドキュメンタリー批判だけには、かねてからなかばは納得しつつも若干の異論があった。実際に、2008年に『ユリイカ』誌に発表したスピルバーグ論――じつはこれは私にとってはじめての映画評論だったのだが――のなかでも阿部の擬似ドキュメンタリー論に触れ、いささかの違和感を表明している。

 そこでの私の考えは、阿部の擬似ドキュメンタリー批判は、かつてのある時期にはきわめて有効に当てはまるが、それ以降の時代においてはもはや必ずしも的を射ていないのではないかというものだった。ここでいうある時期とは、たとえば具体的には90年代後半から2000年代なかばころまで、つまり、デジカメが社会的に普及していくものの、かたやSNSや動画サイトが登場するまでのあいだの時期、ということだ。

 映画や映像の「ソーシャル化」は批評家としての私の重要な関心ごとであったが、周知のように、YouTubeやInstagram、あるいはTwitterは、いうなればこのわたしたちの「現実」それ自体をそのまま「擬似ドキュメンタリー的なもの」に完全に変えてしまった。擬似ドキュメンタリー的な作品は、そのスタイルや演出を個別にうんぬんされるものにとどまらず、絶えずこの「現実」というプラットフォームそのものとあいまいに紐づけられ、それに「いいね!」やリツイートをつけあってコミュニケーションするひとびとの日常と地続きになっている。その新たな状況のなかでは、かつての阿部の「出来事のリアリティに迫るうえでの困難を取り除いて」「手法化された「リアル」な表現を安易に利用しているだけ」(東浩紀との対談「過視的なものの世界」、『不過視なものの世界』、217-218頁)だというこのスタイルをめぐる評価のほうがどこか耐用年数が切れつつあるように思えたわけだ(『Orga(ni)sm』で作者自身が自らのアイデンティティを絶えずWikipediaの匿名の人物による紹介文に繰り返しなぞらえてみせたように!)。

『Orga(ni)sm』における「擬似ドキュメンタリー的」転回

 ともあれ、その点で、今回非常に興味深く思われたのは、阿部が佐々木敦によるインタビューのなかでつぎのような認識を吐露していることだ。

 そういえば、作中でもツッコミを入れてますけれども、いわゆる純文学の中で日常で馴染みのないCIAなどを出してしまうと、途端に嘘くさくなってしまう。「CIAって(笑)」と読者に思われかねないので、ちゃんと実在性のあるキャラクターとして見せる必要がある。そのため、映画批評を書く上では批判的に扱っていた疑似ドキュメンタリー的手法を今回は全面的に駆使しました。新聞記事を引用しまくり、リアリティーを担保することが必要だったわけです。(「アメリカ・天皇・日本」、『文學界』10月号、23頁)

 阿部のいうのは、もちろん、小説冒頭の『マイ・ドリーム――バラク・オバマ自伝』を筆頭に、実際に配信された新聞社によるウェブニュース記事の文章をカットアップ的に引用する本作の手法のことだ。とはいえ、こうした実在する(ないしは実在するように仮構された)多種多様な文章の断片が小説に動員される仕掛けは、やはりウェブ上に散らばる膨大なトキ関連の文章を挿入した『ニッポニアニッポン』や、初期短編「トライアングルズ」「無情の世界」など、かなり早くから阿部の小説には頻繁に認められるものでもあった。あるいは、神町の若者たちのあいだで露悪的な盗撮グループが結成され、街のいたるところに盗撮まがいの犯罪行為が横行している『シンセミア』の世界は、まさに擬似ドキュメンタリー的な相互監視社会のリアリティを如才なく描きだしてもいた。

 ともあれここで重要なのは、おそらくは『Orga(ni)sm』の阿部が、かつて(2000年前後)の擬似ドキュメンタリー批判のスタンスを自覚的にシフトさせようとしている点だ。たとえば、作中で「阿部和重」が不可視の狙撃手からの銃弾を掻い潜りファミリーマートに避難しようとする場面で、「この種の難局に際しては生活必需品の品ぞろえが充実している小売店こそが一時的な避難場所として最適であることを、偉大なジョージ・A・ロメロが一九七八年にわれわれ人類に教えてくれている」(629-630頁)と書く作者は、ここで不意にゾンビ映画の記憶を物語に召喚するが、それゆえそこには同時にロメロ監督による擬似ドキュメンタリースタイルのゾンビ映画『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2008)のイメージもかすかに反響している。実際、阿部はリアルサウンドブックの円堂都司昭によるインタビューでこうも述べている。

 90年代に映画で流行りだした疑似ドキュメンタリー手法の問題は2010年代の今日にいたるまで続いているどころか規模を拡大させている、というのが僕自身の現状認識です。かつてカメラは一家に1台程度でしたが、スマホ時代の今は1人1台カメラを持って世界のいたる場所を記録しまくっている。[…中略…]その後ネット上に記録したものを発表できる場が次々に設けられていく。発表の機会がもたらすのは、評価を前提とする提示であり、記録の作品化です。作品化というのはほぼ確実に加工をともないますから、当然ながら事実そのものからさらに遠ざかることになる。[…中略…]というわけで、90年代に生まれた疑似ドキュメンタリーやリアリティショー形式の流行が、インターネットと組み合わさって2010年代以降のSNSや動画配信に直結し、ついにはフェイクニュースだのポスト・トゥルースだのといった問題にまで発展してしまった。(前掲「阿部和重が語る、『オーガ(ニ)ズム』に自分を登場させた理由」)

 明らかなように、ここでの阿部の解説は、さきに述べた私の認識ともほぼ重なっている。つまり、現在の阿部はかつて「映画批評を書く上では批判的に扱っていた疑似ドキュメンタリー的手法を今回は全面的に駆使」したのみならず、今日の疑似ドキュメンタリー的な想像力が置かれているパラダイムシフトをじつに鋭敏に察知しているのだ(むろん、阿部自身はさきのインタビューで「90年代も、疑似ドキュメンタリー作品すべてを批判してきたわけではありません」と注意を促している)。私の考えでは、だれもが注目する『Orga(ni)sm』の語り口(ナラティヴ)の刷新は、この地点からも捉え直されるべきである。実際、90年代以降の日本の現代文学において、阿部ほどメディア意識に敏感な小説家もいなかった。つまり、そこには阿部自身の小説や映画をめぐるメディア環境の変化(お望みならば、これを「ポストメディア化」と呼んでもよい)に対する認識が横たわっているのではないか。

 たとえば、「規模を拡大させ」、「世界のいたる場所を記録しまくっている」という2010年代の擬似ドキュメンタリー的環境のイメージは、『Orga(ni)sm』ではさしあたり神町で新作映画を撮影中であるという「阿部和重」の妻で小説家の「川上」のチームが飛ばす30台のドローンのカメラアイに託されているだろう。この非人間的なドローンたちは、『Orga(ni)sm』の物語世界で語り手たちの行動をつねに寡黙に監視していながら(「わたしらドローン飛ばしていつでも見はってるんで」)、自らは匿名的なのっぺらぼうの視線の主としての地位を保ちつつ不気味にあたりに遍在し続ける。いうまでもなく、このドローンは、『シンセミア』で登場したビデオ撮影サークルによる窃視症的描写の数々――というより、それ以上に、第6部に登場する人間ならぬ大鼠(!)の視点による奇抜な叙述に遠く対応している。阿部は今回の新作で、語りのフォーカスを主人公の「阿部和重」と「バラク・オバマ」にほぼ限定しており、多視点的な『シンセミア』のように、ドローンのまなざしからの叙述が登場することはない。しかし、この抑制こそ、ドローン的な非人間的で遍在的な視点がわたしたちの世界においてすっかり自明化している状況(擬似ドキュメンタリー的世界)を逆に浮かびあがらせているともいえる。

擬似ドキュメンタリー的世界と表象=描写=父の脆弱化

 何にせよ、かつてはこの現実世界をあてがいぶちに「表象」するスタイルとして解釈されていた擬似ドキュメンタリーが、この現実そのものが徹頭徹尾擬似ドキュメンタリー化(ポスト・トゥルース化?)し尽くしたことによって、その評価が大きく転回した――『Orga(ni)sm』の世界観と語りは、その転回をクリアに反映させた作品となっている。

 あらためて強調すれば、そこでの擬似ドキュメンタリーの評価の今日的な転回は、もとより映像にせよ活字にせよ、作品を構成する記号は、「この現実」とはさしあたり別物でありながら、その現実を誤差や齟齬を交えつつフィルタリングして映しだすものであるという「表象」をめぐるアナログ的な信憑が機能不全に陥っているという事態が前提となっている。擬似ドキュメンタリー化した世界において、擬似ドキュメンタリーの「映像」と、この「現実」はズレることなく、ぴったりと矛盾なく重なりあっているように見えるからだ。

 つけ加えておくと、この点で興味深いのが、これも佐々木敦のインタビューのなかで、阿部が「神町三部作」を含む自作の世界観を、かねてからハリウッドの「マーベル・シネマティック・ユニバース」(いわゆる「マーベル映画」)のように構築したいと考えていたと述べている点だ。つまり、マーベル映画に代表される最近の「ワールド・ビルディングもの」の映画やドラマは、まさに「この現実と同じように個々の映画の物語を自己完結的に「世界化」してしまう」プロジェクトだといえる。そこでもまた、違った形ではありながら「映像」内の世界と「現実」の世界は過不足なく同一視されることだろう。

 ともあれ、このことについては、『Orga(ni)sm』の語りのうち、読者に「エンタメ感」を強く感じさせている要因のひとつだろう、キャラクター相互の会話劇の前景化という特徴とも深くかかわっているように思える。本作では、「阿部和重」やラリーら登場人物たち同士のテンポよい会話のシーンが大きな比重を占めているが、それは逆にいえば、過去の『シンセミア』などに比較し、物語世界の記号的再現=「描写」の比重が少なくなっている表れともいえる(実際、『シンセミア』でのぬめるような描写の圧倒的奔流は本作ではほぼ顔を見せない)。

 ここで私は、かつて渡部直己が指摘した今日の日本文学におけるある指標的なパラダイムシフトを想起せずにはいられない。渡部によれば、およそ2000年代なかば以降の日本の小説においては、総じて特異な「人称」の操作(移人称)が顕著化し、その代わりに、かつてあった「描写」の技術が急速に後退しているという(「移人称小説論」、『小説技術論』所収)。いわゆるライトノベル文体が典型的であるように、「二、三十年前に比べると、描写の量がじつに少なく」なり、記号はもはや現実との「表象」の齟齬をかいさずに任意なあいまいさで接するようになるのだ。私の見るところ、『Orga(ni)sm』の文体も、この渡部の見取り図からおそらく無縁ではない。そして、勘のよい読者ならおわかりの通り、記号=映像と現実が齟齬なく重なりあう2010年代的な擬似ドキュメンタリー化した世界こそ、まさにこの渡部のいう小説における「描写」の秩序を衰退させている文化状況と同じものだろう。

 そして、最後にここでテマティズム的な手札を切っておけば、こうした『Orga(ni)sm』における擬似ドキュメンタリー化/描写=表象の後退という語りの兆候は、ひるがえって本作の主要なモティーフとも密接に共振している。それこそ、物語のふたりの主人公、「阿部和重」と「バラク・オバマ」が揃って体現する「父の脆弱化」という主題にほかならない。たとえば、「阿部和重」=「四五歳六ヵ月」の父親は、傍若無人な「三歳児」の息子に物語を通じて終始翻弄され、おたおたとうろたえることしかできない。他方、シリア軍事介入の外交的「失敗」など、数々のジレンマに陥り、もはやかつてのように「世界の警察官」たる任務を放棄し、「「挑発的な弱さ」を脱しえないかもしれないが、無言でいることもできない」(258頁)という立場に置かれている「バラク・オバマ」の姿もまた、「阿部和重」と同様の「惨めな父親」の姿を忠実に反復している。

 この『Orga(ni)sm』が描きだす「弱い父」のイメージは、さしあたり先行する『シンセミア』『ピストルズ』の「大文字の戦後史」や「一子相伝の父娘関係」が象徴する主題を逆転させたものになっているが、それはまた、かつての映像や小説でまさに父のように「大文字の秩序」として振る舞っていた表象=描写の地位の衰退と正確にオーヴァーラップするものにもなっているわけだ(ちなみに、『Orga(ni)sm』でのこの「弱い父」としての「阿部和重」を不気味に監視する妻=「川上」のドローンの視線は、『シンセミア』において数々の女性たちを監視する盗撮グループの男性たちのまなざしをジェンダー的に反転させたものになっていることにも注意すべきだろう)。

 ……以上のように、『Orga(ni)sm』における「語り」の変質は、おそらくは「ポストメディア的」な――メディアを横断した――今日の環境の変化を鮮やかにキャッチアップし、それを文字通り有機的(organic)に叙述やモティーフのレヴェルで組みあげてみせた作者固有の文学的想像力と密接に関係している。2010年代の日本文学の終幕を飾るにふさわしい、今年最高の傑作をぜひさまざまな視点から堪能してほしい。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■書籍情報
『オーガ(ニ)ズム』
著者:阿部和重
発行:文藝春秋
発売日:2019年9月26日
定価:本体2,400円+税
『オーガ(ニ)ズム』特設サイト:https://books.bunshun.jp/sp/organism

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