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樋口尚文 銀幕の個性派たち

志村けん、「最初はグー」ならぬ「両手でグー」で語りき天才

毎月連載

第46回

映画『鉄道員(ぽっぽや)』の撮影風景。左から志村けん、小林稔侍、高倉健 写真:日刊スポーツ/アフロ

トマムのホテルの話が劇中に出てくるので、おそらく占冠(しむかっぷ)方面の、乗降客も数えるほどしかいない「幌舞駅」という架空の駅がある。その雪深い駅のそばに「だるま食堂」という古びた定食屋兼飲み屋があって、吉岡肇というよそ者ふうの男が小さな息子を連れて飲んだくれている。すると、周りの常連の炭坑夫たちが寄ってたかって彼をどつき始める。

男どもの罵りを聞くと、どうやら吉岡は炭坑のスト破りでつるし上げられているらしい。居合わせた国鉄職員が「酔っ払いをこづいても仕方ないからやめよう」と割って入ると、男のひとりが「親方日の丸が口を出すとこじゃない。ひっこんでろ」と言う。それを聞いた吉岡は激昂して、「赤旗が何を言う。きさまら赤旗立てて高見の見物じゃねえか。合理化で最初に首切られるのはわしら臨時工やろ」とたてつく。男どもが「おまえみたいな渡り坑夫がスト破りするから交渉が息切れするんじゃ」と反撃すると、吉岡は「北海道なら死ぬまで炭を掘れると思って筑豊から来たったい。それがまったく働かんうちに閉山てや」と不運を呪う。

坑夫たちはこぞってこんな吉岡をいたぶろうとするが、見かねた国鉄職員が腕っぷしで追い払い、一触即発の空気となったところで、「だるま食堂」の女店主が水をぶっかけて「うちは日の丸も赤旗もごめんだ」と叱り飛ばし、「今夜はおごりだから飲んで胸のつかえを流しなさい」と吉岡と息子をいたわる。

これは1999年の降旗康男監督『鉄道員(ぽっぽや)』のひと幕で、モノトーン気味に色を抜いた回想シーンである。この人物たちを演ずるのは、血気盛んな国鉄職員が小林稔侍、きっぷのいい食堂の女店主が奈良岡朋子、いらだつ坑夫たちが本田博太郎、木下ほうか、田中要次といった最強の面々である。そしてこの騒ぎの渦中にある「スト破りの渡り坑夫」に扮したのが誰あろう志村けんであった。

このいざこざのおさまった後、奈良岡のおごりで安ジャンパーの背中をまるめてコップ酒をあおる坑夫・志村けんは、額をがんがんテーブルに打ちつけ、「痛えなあ」と悲嘆に暮れる。そのありさまを隣の席の小林稔侍と、実はずっとかたわらにいた「幌舞駅」駅長になりたての高倉健が、心配そうに見やっている。この後にわかるのだが、筑豊の坑夫だった志村は、ヤマが閉まってしまっただけではなく、妻に(娘も連れて)逃げられたらしい。不憫に思った高倉と小林は、すっかり酔っぱらった志村をかついで、息子ともどもわびしい住まいに送り届ける(正体を失って小林に担がれながら『圭子の夢は夜ひらく』の替え歌で♪俺は夜ひらく~と唄うところなど、いかにも志村らしい演技で笑わせる)。

実は、志村けんが“俳優”としての演技を本格的に開陳したのは、長い芸歴のなかで、この『鉄道員(ぽっぽや)』のたった5分にも満たないワンシーンだけなのである。そしてこの5分弱の一挿話での志村を観ただけでも、本当にこのたびの急逝が惜しまれてならない。コントひとつとっても慎重に慎重に練り上げてからでないと披露できなかったというストイックな志村ゆえ、“俳優”のオファーを謹んで断り続けていた。ところが『鉄道員(ぽっぽや)』は不意に高倉健から直接電話があって熱烈な誘いを受けたので断れなかったのだという。ちょうど五十歳前後の節目の時期でもあったので、志村も覚悟を決めたのかもしれない。そして今フィルムに刻まれた志村の演技が醸す生活者の哀感は、公開から二十年余りを経てもまるで色褪せない。

この坑夫の志村けんは、わびしい酒に唸りながら、テーブルの上で両手をグーにしている。力なく酒に溺れるはぐれ坑夫ならグーではなくパーではないかと思うのだが、志村はあくまでグーなのだ。ジャンケンの「はじめはグー」を最初にやり出した志村の「両手でグー」はこの吉岡という不運な男のやりきれない憤りを雄弁に物語る。その時、食堂にはピンク・レディーの『サウスポー』が陽気に流れていて『酔いどれ天使』の『カッコウ・ワルツ』のごとくわびしさに拍車をかけるのだが、『サウスポー』のリリースは1978年春だからきっとこの場面はその年の冬だろう。筑豊で最後の炭坑が閉山したのが1976年なので、吉岡は息子を連れておもむろに二年弱をかけて北のこの地に流れ着いたのかもしれない。それを1977年に「幌舞駅」の駅長になったという設定の高倉健が痛ましく見ている、ということである。

志村の「両手でグー」は、こういった紙背のドラマを一挙に観る者に感じさせるものがあった。それから時が経ち、おそらくは七十歳の節目ということで一斉解禁したのであろう2020年の山田洋次監督『キネマの神様』、NHKテレビ小説『エール』への“俳優”としての参加は誰も予期しなかった感染病の災禍で全てふいになってしまった(辛うじて山田耕筰に扮した『エール』のわずかな収録分は放映されるというが)。最も期待された“個性派俳優”の誕生目撃の機会を永遠に奪われたわれわれは、運命の悪意に「両手でグー」しながら哀悼の意を捧げるほかない。


志村けん 出演映画

『鉄道員(ぽっぽや)』

1999年6月5日公開 配給:東映=「鉄道員(ぽっぽや)」製作委員会
監督:降旗康男 原作:浅田次郎
脚本:降旗康男/岩間芳樹
出演:高倉健/大竹しのぶ/広末涼子/安藤政信/吉岡秀隆/奈良岡朋子/小林稔侍/志村けん/田中好子/平田満/中本賢/板東英二/本田博太郎/石橋蓮司

プロフィール

樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)

1962年生まれ。映画評論家/映画監督。著書に『大島渚のすべて』『黒澤明の映画術』『実相寺昭雄 才気の伽藍』『グッドモーニング、ゴジラ 監督本多猪四郎と撮影所の時代』『「砂の器」と「日本沈没」70年代日本の超大作映画』『ロマンポルノと実録やくざ映画』『「昭和」の子役 もうひとつの日本映画史』『有馬稲子 わが愛と残酷の映画史』『映画のキャッチコピー学』ほか。監督作に『インターミッション』。新作『葬式の名人』がDVD・配信リリース。

『葬式の名人』(C)“The Master of Funerals” Film Partners

『葬式の名人』
2019年9月20日公開 配給:ティ・ジョイ
監督:樋口尚文 原作:川端康成
脚本:大野裕之
出演:前田敦子/高良健吾/白洲迅/尾上寛之/中西美帆/奥野瑛太/佐藤都輝子/樋井明日香/中江有里/大島葉子/佐伯日菜子/阿比留照太/桂雀々/堀内正美/和泉ちぬ/福本清三/中島貞夫/栗塚旭/有馬稲子

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