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大泉洋主演ドラマ『ノーサイド(仮)』も決定 池井戸潤原作の映像化にみる“経済時代劇”的手法

リアルサウンド

19/4/8(月) 10:00

 日本の会社で会議といえば、たいしたことを決めないくせに時間が長いなど、とかく改善すべきものとされることが多い。ところが、会議をモチーフにしながら上質なエンターテインメントになったのが、池井戸潤原作の映画『七つの会議』だった。TBS系で『半沢直樹』、『下町ロケット』、『陸王』といった池井戸原作ドラマを手がけた福澤克雄が監督を務め、これらの作品の出演者を多く起用した『七つの会議』は、総決算的なしあがりになった。 

参考:確立された“経済時代劇”の手法

 池井戸潤の小説は、会社や銀行など組織をめぐる問題に立ち向かう人を描くことが多い。TBS系に限らず、池井戸の小説はドラマや映画で数多く映像化されてきた。7月には今夏刊行予定の新作を原作として、またTBS系で『ノーサイド(仮)』(大泉洋主演)がスタートする。同作でも演出に名を連ねる福澤は、映画『七つの会議』において、池井戸作品を映像化する面白みとはこういうものだと、自ら再確認している趣があった。

 同映画は狂言師の野村萬斎を主役とし、落語家の立川談春と春風亭昇太、歌舞伎界から片岡愛之助、また映像関係でキャリアを積んだ後に歌舞伎へ進出した香川照之も含め、伝統芸能関係者が多かった。また、劇団四季出身の鹿賀丈史、王子様然としたアーティストでもある及川光博など、濃い芸風の人を揃えたのである。舞台経験も豊かな彼らが、順繰りにクローズアップされ、顔芸ともいえる表情の演技を競う。そのなかで芸人の藤森慎吾がコント的なふるまいをみせるから、役柄として要求される軽薄さもうまく引き出される。

 池井戸の『オレたちバブル入行組』と『オレたち花のバブル組』をドラマ化した『半沢直樹』で堺雅人が演じる半沢が「倍返しだ」を決めゼリフとしたのに象徴される通り、福澤演出は時代劇的な誇張が特色だった。高橋英樹の当たり役だった『桃太郎侍』で毎回、「一つ、人の世 生き血を啜り」から始まる決まり文句を述べてからチャンバラを始めたようなものだ。スタッフは違うが、池井戸の『不祥事』を日本テレビ系でドラマ化した『花咲舞が黙ってない』も似た傾向だった。杏の演じる花咲には「お言葉を返すようですが」の決めゼリフが用意されたのである。『半沢直樹』も『花咲舞が黙っていない』も、ドラマは原作と異なるタイトルがつけられた。

 『水戸黄門』、『遠山の金さん』、『大岡越前』、『銭形平次』など、かつて人気を博した時代劇ドラマで悪を懲らしめる主人公の名前、呼び名をタイトルにしたのに通じるテイストだ。善玉の主人公のキャラをいかに引き立てるかが、時代劇的な演出の肝なのだ。

 『七つの会議』の場合、映画も原作と同じタイトルだった。ただ、物語の構成に関しては、けっこうアレンジされている。会議では居眠りしているぐうたら係長が、営業成績抜群の課長を社内委員会にパワハラだと訴えた。会社にとって大切なはずの課長が守られるかと思われたが、なぜかあっさり更迭される。それをきっかけに取引先、親会社も関係するとんでもない事態が、徐々に明らかになっていく。小説ではその騒動を章ごとに視点人物をかえて語っている。映画でも複数の立場から描かれるが、人物ごとのエピソードのわりふりは変更され、野村萬斎の八角係長が主人公としてより際立つストーリーになっている。

 本名は「やすみ」だが社内で「はっかく」と呼ばれる彼が登場する原作の第一話は、「居眠り八角」と題されていた。遊び人の金さんは実は北町奉行だったとか(『遠山の金さん』)、高貴な方が別人のふりで江戸の町に入って悪を退治するとか(『暴れん坊将軍』)、変身ヒーローのごとく正体を隠すのは、時代劇の定番だ。「居眠り八角」もその種のヒーローであり、映画は彼の存在を膨らませて脚色されている。

 ゼネコンの談合を題材にしてNHKでドラマ化もされた『鉄の骨』に関して、池井戸は主人公の名前から当初は「走れ平太」という題名を考えていたという。人物を中心に物語を動かそうという発想をもともと原作者は持っており、それを増幅する形で映像化するのが素直なやりかたといえるだろう。

 様々な会議がポイントとなる『七つの会議』に関し、親会社の幹部の前で子会社の面々が責められる御前会議が山場となるのは、原作と映画で共通している。御前様と呼ばれる親会社社長は北大路欣也、香川照之や野村萬斎を部下に持つ子会社社長は橋爪功だが、二人とも時代劇経験が豊富な役者だ。しかも、映画の御前会議では、片岡愛之助が橋爪功につかみかかろうとして止められる。この場面などは、これまで何度も舞台化、映像化されてきた『忠臣蔵』そのもの。横暴な吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭が「殿中でござる」と戒められ押さえられる場面そっくり。橋爪はかつて、テレビ東京系『忠臣蔵~決断の時』で吉良を演じたことがある。

 映画では、武士が藩に忠誠を誓ったごとく、今では社員が会社に従うといった示唆的なセリフまである。作品のほうから、これは時代劇だと解説してくれているようなものだ。

 『忠臣蔵』の源流である『仮名手本忠臣蔵』もそうだが、身分の上下が固定されていた江戸時代に作られた歌舞伎や人形浄瑠璃では、忠義を題材にした悲劇が多く語られた。自分が属するグループや代々続く家系を守るため、個人を犠牲にすることが正しいとされた。主君が敵に殺されるのを救うため、家来が身替りで死ぬことさえ美談とされた。そうした悲劇のなかの激情が、歌舞伎特有のあの化粧で演じられたわけだ。

 また、歌舞伎では、きちんと敵を仕留めたかどうか首を検める場面では、身分が異なり思惑が違う面々が舞台にずらっと並び、顔芸で心理戦を表現したりする。このように大勢が集まって緊張感が高まるクライマックスは、映画やテレビの時代劇の奉行による裁きの場面などに受け継がれた。江戸時代とは異なり、身分制がなくなった時代の映画やテレビでは、所属するグループの存続より個人の心情に寄り添う物語になった。とはいえ、主人公が徳川家に属することを示す葵の御紋を絶対的権威として描いた『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』など、お上は正しいとする図式は時代劇にも温存されたのだが。

 一方、『七つの会議』の原作小説で父まで三代続いたねじ製造の中小企業を継いだ長男が、妹からサラリーマンよりも「一国一城の主のほうがええんとちゃう?」といわれるように、会社を城に喩えることは珍しくない。お家騒動、外様など時代劇で使われる言葉が、経済界でも使われる例は多い。忠誠心が試され、地位の上下が明示され、敵か味方かが問われ、時には責任を肩代わりさせられても文句をいわず耐えなければならない。一国一城の主でも、下請けの中小企業なら発注元の大企業のいうことを聞かざるをえない。地方の小藩が幕府にたてつくわけにいかないように。

 池井戸の小説は、そうした関係から生じる緊張の高まりを扱ってきたわけだし、映像化ではそれを時代劇的な手法で描いた作品が成功した。身分が固定されているわけではない現代が舞台だから、必ずしも単純な勧善懲悪ではない。敵役には敵役の事情があったりもする。また、経済が題材である以上、帳簿だ利益率だ法令だと難しそうな要素もなくはない。小説には、複雑な絡まりを解いていく面白さもあるが、福澤が確立した映像化の方程式はもっとストレートなテイストを目指す。複雑な問題も顔芸を軸に誇張した演出で痛快に吹き飛ばし、風通しのよさを感じさせる。それが、経済時代劇の池井戸ドラマである。

 『ノーサイド(仮)』以後も池井戸原作の映像化はされるだろうが、このパターン以上の画期的な演出を見出すのは難しそうだ。 (文=円堂都司昭)

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