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映画雑誌が日本映画界に果たしてきた役割とは? 展示会『映画雑誌の秘かな愉しみ』を訪ねて

リアルサウンド

19/10/3(木) 12:00

 現在、日本の映画雑誌の歴史をたどった展示会『映画雑誌の秘かな愉しみ』が国立映画アーカイブで開催中だ。

 映画に関するさまざまな資料を保管する国立映画アーカイブだが、映画の本をテーマにした2015年の『シネマブックの秘かな愉しみ』続いて、今回は映画雑誌に焦点を当てた。今年は、現存する日本初の映画雑誌『活動写真界』の創刊(1909年)から110年、現在も続く映画雑誌の草分け的存在『キネマ旬報』の創刊(1919年)から100年のちょうど節目の年で、改めて日本における映画雑誌の歴史を振り返る今回の企画の運びとなった。

●いまは映画雑誌の大きな転換期

 日本で映画が普及し始めたのは明治末期のこと。先ほど触れた日本初の映画雑誌とされる『活動写真界』の創刊は1909年(明治42年)ということから、実は日本における映画史と、映画雑誌の歴史はほぼ並走してきた。密接に結びついてきたといってもいいだろう。

 ただ、今はインターネットの時代。社会と同じように映画を取り巻く環境も大きく様変わりしてきている。それは映画雑誌も例外ではない。映画サイトが大きく成長する一方で、気づけば映画雑誌が次々と消えゆく。もはや映画雑誌自体を手にしたことがない世代がいてもおかしくない。

 そういう意味で、もしかしたら、いまは映画雑誌の大きな転換期。時代の狭間で、いま改めて映画雑誌に注目することは必要なのかもしれない。今回の展示会を担当した国立映画アーカイブの濱田尚孝客員研究員は、こう語る。

「今回、展覧会の開催に至ったのは、やはり『キネマ旬報』の100周年は大きい。国立映画アーカイブが映画と出版物をテーマにした展示をするのは『シネマブックの秘かな愉しみ』に続いてのこと。そのときは、主に映画に関する本をピックアップしました。でも、映画に関する書物と同様に映画雑誌も長い歴史がある。それを証明するように、国立映画アーカイブが所蔵するものだけでも、展覧会を開くに十分な映画雑誌が資料として保存されています。なので、『キネマ旬報』100周年とともに映画雑誌について振り返るのもまた、映画の新たな愉しみを提供できるのではないかと考えました」

●映画雑誌の数だけ映画の見方がある

 展示は、まず導入として『日本の映画雑誌の誕生』というブースで、現存する日本初の映画雑誌『活動写真界』を紹介。創刊者の写真や創刊号の表紙などを展示して、日本における映画雑誌の夜明けが見て取れる。

 そこを経ると、縦一直線の展示スペースで『キネマ旬報の100年』と題し、ここではキネマ旬報のこれまでの歩みを回顧。そこに呼応させるように『戦前の映画雑誌』『戦後の映画雑誌』『映画雑誌と映画史研究』という3つのブースが並び、その時代時代を彩った日本の映画雑誌を紹介し、その軌跡を一気にたどる。

 各エリアに、たとえばキネマ旬報の1919年7月11日の創刊号といった歴史的に貴重な映画雑誌が展示されている。「ぴあ」の1972年創刊8号及び2011年の合併最終号や「シティロード」の1975年の第1号、『ロードショー』の1972年の創刊号を見て、懐かしむ人も多いに違いない。

 そうした近年の映画雑誌になつかしさを覚える一方で、大いに驚かされるのが映画雑誌の創成期といっていい戦前の映画雑誌の数々にほかならない。松竹や日活など特定の映画会社に特化した「スタジオ雑誌」、たとえば阪東妻三郎だけをフューチャーした『阪妻画報』といった特定の映画スターに特化した「スターファン雑誌」、ほかにも業界誌、評論誌、左翼系雑誌、地方誌、映画教育誌など、多様な映画雑誌が存在していたことがわかる。それをみるだけで、映画がどれだけ人々の関心ごとだったのか、映画に多くの人が夢中になっていたかがうかがい知ることができる。濱田氏はこう語る。

「今回は『キネマ旬報』といった日本を代表する映画雑誌から、何号発行されたか定かでない地方で発行されていた小さな映画雑誌まで紹介することにしました。発行部数も歴史も読者数も違うこれらの雑誌を同等にとらえていいものかという意見もあると思います。ただ、今回に関してはできるだけ多くの日本の映画雑誌を紹介したいと思いました。それはこれだけ日本には映画雑誌が存在して、さまざまな角度から映画を観て楽しんでいたことを知ってほしかったからです。

 今回いろいろと調べる中でわかったことですけど、とりわけ戦前は、映画雑誌の数だけ映画の見方があるのかなと感じました。スタジオ雑誌やファン雑誌、小型映画の雑誌や教育映画の映画誌など、いろいろな読者がいて、それぞれの角度から映画を観ていた。戦後もアニメーションの立場で映画を観ている人もいれば、SFの見地からで映画を観ている人もいた。映画の関心の数だけ、映画雑誌があった。この多様さを知ってほしいと思いました。ですから、展示数は400点以上、展示スペースいっぱいを使って、できるだけ多くの映画雑誌を取り上げることにしました」

●映画雑誌が日本映画界に果たした役割

 また、映画雑誌の誕生から、戦前、戦中、戦後とたどっていくと、モノクロの小冊子的で文字ばかりだったところからはじまり、次第にカラーになり、写真がふんだんにつかわれはじめ、グラビアが充実したり、レイアウトが凝ったものになったりと、どこかサイレントからトーキー、カラーへとうつりゆく映画の遍歴とも重なる。

 さらに時代の影もまた色濃く出ているとでも言おうか。戦前、多様化して様々な映画雑誌が生まれながら、戦争になると、『キネマ旬報』をはじめほとんどの映画雑誌が休刊。そのころの映画雑誌は紙の質も粗悪でどこか雑誌そのものが単色で味気ない。それが戦争が終わると、何かから解放されたかのようにアメリカ映画一色になり、誌面も自由で華やかな変貌を遂げる。映画は時代を映す鏡とはよく言うが、映画雑誌も同じことがいえるのかもしれない。

「1940年を境にほとんどの映画雑誌が一度姿を消します。当時、すでに映画雑誌の大手となっていた『キネマ旬報』も一度休刊となります。その理由は、「キネマ」というカタカナが使えなくなったから。ただ、『キネマ旬報』は、1941年に『映画旬報』となって引き継がれるんですね。ところが、戦後に『キネマ旬報』として復活したとき、『映画旬報』の時代は『キネマ旬報』ではないという意見に至った。確かに映画雑誌から、「その時代」が見えてくるかもしれません」

 それからもうひとつ、戦前の映画雑誌を見ているとひとりの著名人の存在が浮かび上がる。それは、1930年代、コメディアン、喜劇俳優として国民的人気を得ていた古川ロッパの存在だ。コメディアンとして名をはせる前、彼はいろいろな映画雑誌の編集部を渡り歩いている。濱田氏はこう語る。

「これはあくまで推測に過ぎないんですけど、古川ロッパは自分で映画雑誌をもって、それを大成功させたいとの夢を持っていたんじゃないかと思います。というのも、彼は大学時に『映画世界』を発刊し、自らも執筆。同時に『キネマ旬報』に投稿して、しまいには編集部に入り込む。また菊池寛に文芸春秋社に誘われると、『映画時代』の編集を任される。ほんとうに映画が好きで映画を伝えることも好きだったように映る。ただ、哀しいかな、彼が関わると、どうもその映画雑誌の雲行きが怪しくなるんです。そうこうしているうちにタレントとして大成功して、映画雑誌とは疎遠になっていく。ひとつなにかかみ合えば、映画雑誌編集者としても彼は成功していたかもしれません」

 また、当たり前といえば当たり前だが、映画の魅力を広く多くの人に伝えることで、日本における映画文化の発展させることに、映画雑誌が大きな役割を果たし、寄与していたことにも気づくことになる。

「確実にある時代、映画雑誌が映画ファンと映画の作り手、映画の書き手、そういう人たちの出会いの場、場合によっては論争の場になっていた。そういう場になっていたことが、戦前にも戦後にもあった。

 たとえば戦前の『キネマ旬報』がそうだったと思うんですが、映画好きが同人誌的に始めて、徐々に発行部数を増やしていく。雑誌を読んだ若い映画ファンが投稿を始めて、編集部に出入りするようになる。すると編集部サイドは優秀な者を取り込んで、書き手にする。そして、次にそうした人材を映画ジャーナリズムの世界へ送り込む。このような形で映画ジャーナリズムが形成されていった。そういう意味で、映画雑誌が日本映画界に果たした役割はけっこう大きいのではないかと思います。

 あともうひとつ、映画雑誌は、観る人、作る人、書く人が実は同居できる貴重な場なんだなということを今回いろいろと調べる中で実感しました。それは今も昔もあまり変わっていないような気がします」

●「キネマ旬報」と「映画芸術」
 日本における映画ジャーナリズムとなって、やはり取り上げなければならないのは、「キネマ旬報」と「映画芸術」。今回の展示では「映画芸術」もきちっと紹介されている。濱田氏はこう語る。

「さすがに外せないということで調べましたけど、『映画芸術』は歴史をたどると面白い。1946年に清水光が創刊するんですけど、実は戦前に1度、発行しているんですね。この清水光は翻訳者でもあって、大学で哲学を教えたりもしていた。ちょっと堅物を想像してしまうんですけど、実際『映画芸術』では高度な映画論を展開していた。でも、実際はアメリカ映画が大好きだったそうです。そんな人物が『映画芸術』の原点に存在するのは面白かったですね」

 日本の映画雑誌を代表する『キネマ旬報』と『映画芸術』の関係はどう見たのだろう?

「あくまで個人的見解ですけど、良きライバルである一方で同志といいますか。『キネマ旬報』はベスト10が話題になって、『映画芸術』はワースト10が話題になる。このことが象徴するように、いまとなってはお互いいなくなられては困る存在ではないでしょうか。ともに切磋琢磨してきたから、ここまで続いている。日本の映画雑誌を語る上でともに欠かせない存在ですよね」

 最後に濱田氏はこうメッセージを寄せる。

「映画雑誌を通して、また新たな映画の楽しみをみつけていただければ。あと、これはほかでも言ったことなのですが、映画を観ると、映画についてなにかしたくなる。映画について自分なりの記録を残したくなったり、自分で作ってみたくなったりと。映画をめぐってなにかしたくなる。映画雑誌にも、そんな映画を愛する人の爪痕が残っているんじゃないかなと思うんです。それも感じていただけると、映画雑誌がもっと身近に感じられると思います。まだまだ、続いていってほしいメディアです」

 最後の最後に、これは個人的な見解にほかならないが、「映画雑誌」という言葉から「映画」を抜いて、「雑誌」という観点からも楽しめるのが本展示会かもしれない。映画雑誌に限定しているが、これだけ、110年にわたる「雑誌」の歴史を、戦前から戦後まで一気に見ることができる展示会というのはありそうでめったにない。実際、「雑誌」が成熟していく過程を全体から見て取れることができる。

 そういう意味で、映画ファンに限らず、たとえば「本」や「装丁」といったことに関心がある人でもなにか発見があるはずだ。ぜひ、多くの人に足を運んでほしい。

(取材・文=水上賢治)

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