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IT革命、ケータイ小説、ライトノベル……“ゼロ年代”に文学はどう変化した? 文学批評の衰萎と女性作家の台頭

リアルサウンド

20/9/9(水) 10:00

 21世紀の純文学は、IT革命への不安から始まった。とりあえず、そう書きだしてみた。この分野の代表的な小説誌の1つ、「文學界」の2001年4月号では「「IT革命」下の文学と言葉」という特集が組まれ、書家・石川九暢の「〈電子便〉的文体批判」と題した評論が掲載された。目次ではそのタイトルに「文体を欠いた「前言語」が、文のごとき体裁をもって流布されることは言語史上の異常な事態だ」という一文が付されていた。いかにも苦々しい気分が伝わってくる惹句である。

 紙に文字を手書きしたものが活字になって印刷され、本として流通する形で培われてきた文学の伝統が、新登場のメディアに脅かされ変質してしまうのではないか。同種の議論は、ラジオ、映画、テレビ、ビデオに対してもあったし、1980年代の純文学雑誌では普及し始めたワープロで小説の文体は変わるのかと議論があった。文学界隈でその種の危機感がいっそう高まったのが、ゼロ年代とも称される2000年代だ。

 「文學界」は、2008年1月号では「ケータイ小説は『作家』を殺すか」なる特集を組んでいる。文章の書き換えや編集が容易になったワープロ機能を有したうえでインターネットに接続し、不特定多数にむけて一般人が文章を発信できるようになった。しかもケータイのような小型機器でも接続可能であり、素人が投稿サイトに自作小説を気軽にアップできた。しかもそのケータイ小説が書籍化され、美嘉『恋空』(2006年)などベストセラーになるケースが相次いだのである。

 当時のケータイ小説は、性や暴力、恋人の死といったわかりやすいトピックが続く半面、物語全体の整合性がゆるく、描写の薄いものが多かった。でも、売れた。

 大まかにいうと小説の世界は、芥川賞の対象となる純文学、直木賞の対象となるエンタメ小説に分けられる。心理の掘り下げや実験的取組みなど文学性が望まれる前者と、物語の面白さなど大衆性を求められる後者は力点に違いがあっても、明確な差はない。ただ、いずれも、人間が描けているかが評価基準としていわれることが多い。それに対し、整合性を欠き人間を描けているとはいえないケータイ小説は、場面ごとに読者の喜怒哀楽を引き出してカタルシスを覚えさせる、感情のサプリメント的な効果をもたらすものだった。

 また、ゼロ年代半ばには文学周辺でライトノベルを論ずるブームもあった。マンガ、アニメ、ゲームの影響を受けた世界観で書かれ、キャラのイラストが重視されるこのジャンルは、すでに1980年代頃から市場を拡大していたのである。だが、舞城王太郎や佐藤友哉など、その影響を感じさせる作風で出発した作家が一般文芸へ進出する例が続き、あらためてライトノベル論が語られることになった。萌えなどある種の型を有したキャラが設定されるライトノベルも、人間を描くべしとする芥川賞や直木賞の価値観とは差がある。

 それまで直木賞的なエンタメ小説との拮抗で立ち位置を示してきた純文学は、両者の外部にあったインターネット、ケータイ小説、ライトノベルの言葉の隆盛を意識せざるをえなくなった。当時のようなテイストのケータイ小説は一過性のブームにすぎなかったが、ネットの小説投稿サイトはその後もカルチャーとして定着している。

 なぜ純文学が外部を強く意識するようになったのか。売れなくなったからだ。この原稿は、しばらく前に書いたJ文学回顧の続編にあたる(“J文学”とは何だったのか?:https://realsound.jp/book/2020/06/post-567815.html)。日本のCD売上のピークは1998年だったが、そのジャケットデザインに本の表紙を近づけるなど、音楽と関連づけるイメージ戦略がとられたのがJ文学だった。そうすることで停滞する純文学を活性化しようとしたわけだ。だが、J文学の話題は数年で終息し、CD販売も以後は減少して音楽と接する場の中心はネットやライブへ移っていった。

 1990年代はじめのバブル景気の崩壊に遅れて訪れた1990年代後半の音楽バブルも弾け、経済の低迷がいよいよ本格化したゼロ年代には、非正規雇用が増え格差社会が進行した。「文藝」は1998年の別冊「‘90年代J文学マップ」で現代作家をリスト化したが、2008年夏号「特集 作家ファイル1998~2008」、2017年秋号「特集 176人による現代文学地図2000→2020」でも同様の企画を行っている。約10年ごとのこの定点観測を追うと、文学界隈のおおよその推移はつかめる。

 「文藝」2008年夏号の特集で斎藤美奈子と対談した高橋源一郎は、それまで10年間の小説について「戦後文学」だったと述べている。バブル崩壊を経済戦争における敗北とする同時代の論調に乗った形だ。その議論の延長線上で斎藤と高橋は、文学の主題が東京から地方へ移ったと語る。

 J文学の代表とみなされた阿部和重は『インディヴィジュアル・プロジェクション』(1997年)で戦争状態の渋谷を描き、Jポップ先端のムーヴメントだった渋谷系との親近性を連想させた。だが、彼のゼロ年代の代表作『シンセミア』(2003年)は、山形の地方都市で権力を握る一族を中心にした暴力と性と陰謀の大長編だった。

 東京の日比谷公園を舞台にした『パーク・ライフ』で2002年に芥川賞を受賞した吉田修一も、後に『悪人』(2007年)が注目を集める。それは土木作業員の男が出会い系サイトで知りあった女を殺害した地方の事件を扱ったものだった。

 ゼロ年代には、情報の集中や経済の牽引といったキラキラした東京ではなく、地方の閉塞、あるいは都会でもフリーターのような収入が不安定な生活を題材にした作品が増えた。

 また、2001年9月11日にイスラム過激派がアメリカで起こした同時多発テロが世界にインパクトを与えたのである。アメリカを主体とする有志連合は対テロ戦争の名目でアフガニスタン、イラクを攻撃し、日本もその姿勢を支持し自衛隊を派遣したが、世界各地でテロが頻発した。それに対し日本でも、岡田利規「三月の5日間」(2005年)など戦争をテーマにした作品が発表されたのである。

 テロ防止を理由に各国で監視社会化が進んだ。テロ不安に加え、外国人や少年の犯罪が実態以上に報道されたせいもあって日本でも、防犯を理由に街で監視カメラが増加した。先に触れた『シンセミア』には盗撮グループが登場し、監視のモチーフも盛りこんでいた。同作は経済をめぐる戦後文学であり、9.11テロ後の戦時下文学でもあったのだ。この種の問題意識は、2001年の東日本大震災と原発事故、また右傾化や差別といった政治的主題に対峙した3.11後の文学に引き継がれる。

 売れ行き不振という点では、1998年から純文学の存在意義に関し笙野頼子を軸にした論争が展開された。なかでも彼女への反論で書かれた大塚英志「不良債権としての「文学」」(「群像」2002年6月号)は、話題になった。出版社の商品としては売上げがマンガに劣る純文学の地位に触れ、その流通策として文学のフリーマーケットを提案した。実際、大塚が発起人となって2002年に同人誌を販売する第1回文学フリマが開催され、第2回以降も有志の事務局によって継続されている。その規模は次第に拡大してきただけでなく、東京以外の地方でも催されるようになった(今年はコロナ禍の影響を受けているが)。

 小説を書きたい人が大勢いると可視化した点は、ネット投稿小説と響きあう催しかもしれない。また、文学フリマは素人の同人誌が大半だが、それだけではない。ゼロ年代には論壇誌が次々に休刊し、文芸批評に関しても1980年代のポストモダニズム隆盛以降に保っていた影響力は失われた。このため、自前のメディアを立ち上げた批評家が文学フリマに参加したり、プロの小説家が商業的要請から離れて書いた作品を発表する機会ともなった。そうした試みが商業ベースの活動に還流するなど、文学を多少なりとも活性化する場になっている。

 また、出版不況への対策として大きな出来事だったのが、2004年の本屋大賞創設である。作家や評論家が選考する文学賞は多いが、すべてが芥川賞、直木賞のように売上げアップをもたらすわけではない。それに対し、書店員の投票で売りたい本を選ぶのが本屋大賞であり、候補作と受賞作の決定が、店頭の本の並べかたに直接影響する。このイベントは毎年恒例となり、すっかり定着している。

 一方、同賞スタートと同じ2004年の第130回芥川賞では19歳・綿矢りさ『蹴りたい背中』、20歳・金原ひとみ『蛇にピアス』が最年少受賞記録を更新し、大きな反響を呼んだ。2人とも若い女性であったことからアイドル的に扱われ、芥川賞が客寄せ効果のある商業イベントであることをあらためて印象づけた。

 この2人もそうだが、女性作家が多く登場したのもゼロ年代の特徴である。島本理生、本谷有希子、絲山秋子、村田沙耶香、山崎ナオコーラ、津村記久子、藤野可織、川上未映子などがデビューした。第1回本屋大賞を『博士の愛した数式』で受賞した小川洋子のほか、角田光代、川上弘美、多和田葉子など、それ以前から活動する作家の活躍も目立った。

 考えてみれば、2001年に17歳で文藝賞を受賞した綿矢のデビュー作『インストール』は、登校拒否の女子高生が小学生男子と組み、古いコンピュータで風俗チャットのバイトをする話である。この時代の言葉のありかたを象徴するような物語だ。

 文芸批評については近年、男たちのホモソーシャルな世界であることがよく批判される。その影響力が低下した時期と、女性作家の台頭の時期が重なっていたことは興味深い。そして、今ふり返ると、現在の文学をめぐる状況の多くが、ゼロ年代に用意されていたことに気づくのだ。

■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『ディストピア・フィクション論』(作品社)、『意味も知らずにプログレを語るなかれ』(リットーミュージック)、『戦後サブカル年代記』(青土社)など。

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