Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること

リアルサウンド

20/11/7(土) 10:00

コロナ禍時代の大ヒット作としての『鬼滅の刃』

 この連載では、コロナ禍(New Normal)における映画文化のゆくえについて考えている。目下、世間では、『週刊少年ジャンプ』の人気連載マンガを原作にしたアニメーション映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』(2020年)が、わずか公開10日間という史上最速で興行収入100億円を突破したことが大きな話題となっている。

 本作の歴史的な大ヒットの持つ(無)意味については、ぼくはすでに簡単に私見を述べているけれども(参考:映画『鬼滅の刃』大ヒットの“わからなさ”の理由を考察 21世紀のヒット条件は“フラットさ”にあり?)、それに関わることでいえば、このアニメの大ヒットぶりも、どこか新型コロナウイルスをめぐる状況を的確にかたどっているように見える。ぼくはそこで、本作がはらむある種の「フラットさ」(浅さ)がこのたびの脊髄反射的で投機的(speculative)なメガヒットに関係していると指摘した。作品自体は過去の『ジャンプ』の名作マンガの定型を程よくパッチワークしたものであり、何より本作の原作者である吾峠呼世晴は公式には性別すら明かされていない覆面作家として知られている。

 つまり、作品の示す主題や表象が時代的な意味を担っていると観客に確信させ、なおかつスティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・キャメロン、あるいは宮崎駿といった強烈な個性を放つ固有名と紐付けられていたかつての大ヒット作と比較したとき、それらと『鬼滅』はまったく対極的なのである。そして、その表象のフラットさや匿名性という性質は、誰もいない無人の広場やマスク姿のひとびと、そして丸い形をしたウイルスの画像といったコロナ禍をめぐる特徴的なイメージの群れと驚くほど似通っている。その意味でも、『鬼滅』はまさにコロナ禍時代のヒット作――それはまさに作者の顔を持たない非人称的な作品がひとびとのあいだに「感染」していくという点でも「バイラル」である!――というにふさわしい。

『本気のしるし 劇場版』の「暗い画面」と「密室」

 ところで、『鬼滅』のアニメ映画は、夜の闇を疾走する汽車の車両の内部がおもな舞台となった物語だった。この秋、同じように、薄暗い「密室」が印象的な舞台となる映画をいくつか観た。たとえば、そのなかの1本が、深田晃司監督の『本気のしるし 劇場版』(2020年)である。

 今年の東京国際映画祭でも特集上映が組まれている深田の新作は、2019年の秋に地方局で放送された全10話のテレビドラマを劇場用に再編集した4時間に迫る大作であり、コロナ禍で中止となった今年のカンヌ国際映画祭オフィシャルセレクションにも選出された。

 物語は星里もちるのマンガが原作。職場の先輩(石橋けい)と曖昧な関係を続けつつ後輩OL(福永朱梨)にも好意を向けられている優柔不断な会社員の辻一路(森崎ウィン)が、とある夜にひょんなきっかけで命を助けた葉山浮世(土村芳)という謎めいた女性に次々と人生を翻弄されていくという恋愛サスペンスだ。もともとがテレビドラマとして撮られた作品としては異例なほど、長回しやロングショットが多用されている点は、すでに多くの指摘がある。また、ある夜、浮世をマンションの自室に招き入れた辻がベランダから下を見下ろすと、彼女の夫を名乗る葉山正(宇野祥平)を見つけ、すぐさま地上の駐車場に降りて怒鳴りかかる様子を、ベランダに据えられたカメラが、そのままの位置から静かにまなざす身のすくむような緩慢なズームも忘れ難い。これなどは、深田が意識したというハードボイルドで、どこかシュールなテイストを画面に添えている。

 ただ、ぼくがある意味でそれ以上に気になったのは、(これも通常のテレビドラマ的な画面からは程遠い)物語の全編を通して続く、本作の「画面の暗さ」である。物語のオープニングの、主人公が列車の迫る踏み切りの線路に立ち止まるヒロインを救う夜のシーンから、映画はいずれのショットも照明を抑えた人物のシルエットにグレーがかった影が差す暗い空間で構成されているのだ(実際、その後も本作では夜のシーンが目立つ)。

 そして、その理由のひとつはすでに触れたように、この大作が多くのシーンを、主人公の職場や自室、コンビニといったさまざまな室内空間に配置していることに由来している。そして、その室内空間の内部で単独に、あるいは誰かと一緒に閉じ籠る登場人物たちは、互いに切り離された絶対的に孤独な時空に置かれているように見える。たとえばそれは、主人公とヒロインが出会う最初のシークエンスにおいて、彼女が踏み切りで立ち往生するレンタカーのなかに閉じ込められているイメージで、決定的に暗示されていたものでもあるだろう。

孤絶するひとびと

 そしてその後の物語でも、浮世は不思議な魅力で辻を翻弄しつつ、次々と周囲に嘘をつきながら突然目の前から消え去り、ふたたび現れたかと思えば、怪しげな男たちに借金を抱え、子連れの男と暮らす既婚者であり、さらには過去に別の男と心中未遂も起こしていたという、衝撃的な事実が明らかになっていき、辻とぼくたち観客をどこまでも唖然とさせる。まるでフィルム・ノワールのファム・ファタールを体現するかのような浮世の存在は、あたかもすべてのモノを引き寄せ飲み込みながらも、決してその内部が窺えない巨大なブラックホールを思わせる。また、そんな彼女を中心に、辻と関係を持つ先輩社員の細川尚子と後輩社員の藤谷美奈子、浮世の元恋人の峰内大介(忍成修吾)、そして浮世に金を貸したヤクザの脇田(北村有起哉)にいたるまで、『本気のしるし 劇場版』の登場人物たちは、誰も彼もが他人には容易に窺い知れない部分を抱え、あるいは彼ら同士のコミュニケーションは絶えず阻害され、裏切られていく。

 その意味で、『本気のしるし 劇場版』に頻出する薄暗い密室の数々は、彼らの存在の精巧なレプリカであり、そのそれぞれが「窓」を持たない「モナド」(ライプニッツ)なのだ。だからこそというべきだろうか、この映画では、主人公の辻をはじめ、登場人物たちがとにかくよく走る。誰かのもとに追いつこうと、事実を確かめようと、さまざまな理由から全力で疾走する彼らの姿を深田のカメラは縦横に追いかけ続けるが、逆にいえば、それは彼らが絶対的な孤絶の時空に閉じ込められていることの証左だろう。

コミュニケーションの接続と断絶

 いずれにせよ、『本気のしるし 劇場版』における物語世界や登場人物たちのこうしたたたずまいは、これまでの深田作品を振り返ると、総じて異質なようにも思える。というのも、これまでの深田の映画は、物語世界の設定においても、また作品そのものの作られ方においても、どちらかといえば、孤絶よりは連鎖、断絶性よりは連続性(ないしは連帯)に主眼が置かれてきたといえるからだ。

 前作『よこがお』(2019年)は、限定された登場人物たちがいびつな実存的抽象性を感じさせるシルエットを湛えていた点で本作の人物表現を早くも窺わせる要素があったが、他方で、筒井真理子演じるヒロインが甥の犯罪行為によって深刻なメディアスクラムに陥っていく過程は、まさに(ウイルスのように!)彼女をめぐるステレオタイプのイメージが社会全体に波及していく流れを描き出していた。あるいは、インドネシアを舞台に海に流れ着いた正体不明の男(ディーン・フジオカ)が多言語を操りながら島に暮らす日本人や現地人と人種や国籍を越えて関わり、不可思議な出来事を起こしていく『海を駆ける』(2018年)にせよ、また、印刷所を営む家族のもとに訪れたこれまた謎の男(古舘寛治)がきっかけになり、家庭内にさまざまなひとびとが雪崩れ込んでくる混乱を戯画的に描いた初期の傑作『歓待』(2010年)にせよ、これまでの彼の作品群ではおうおうにして「コミュニケーションが不断に連続していくこと」がドラマを駆動する大きな要素になってきた。

 数年前に書いた深田晃司論でも論じたことに通じるが(「公共性のゆくえと「無人の世界」の到来」、『文學界』2017年7月号所収)、深田の映画はどれも、何らかの親密圏ないし公共圏に外部からある例外的な「異物」が混入することで、制御不可能な混乱がどんどん悪無限的に増殖=連鎖していくプロセスを悲喜劇として描き出すことにおいて共通しているといえるだろう。それゆえ、新作の『本気のしるし 劇場版』でも、その「異物」的な存在はいうまでもなく浮世というキャラクターに依然として認められるわけなのだが、一方でそこで起こるサスペンスや悲喜劇は、今回はむしろ浮世と周囲の登場人物が決定的に離れ、すれ違ってしまうという局面にこそ起因している。

 そしてまた、連続的なやりとり(コミュニケーション)のプロセスのなかで何かが生み出されていくというモデルは、じつはかつての深田の作品作りのあり方そのものにも当てはまると思う。知られるように、深田は映画監督としての活動初期から劇作家・演出家の平田オリザが主宰する劇団「青年団」に所属しており、劇団に所属する俳優たちを多数起用しながら、とりわけ初期作品では彼らとのインディペンデントなワークショップ的環境のなかでも創作を行ってきた(今回の新作でも青年団の常連俳優が出演している)。こうしたインディペンデントなコミュニケーション(共同作業)のなかで映画を創作するスタイルは、後述するように、じつは深田と同世代の少なくない映画監督たちのキャリアに共通していたものだ。だからこそ、少なくとも作中の物語のレベルで無数の孤独なモナドがタコツボ的に分散した『本気のしるし 劇場版』は、そうした深田の世界から一歩踏み出しているように思われた。

孤独な「暗い密室」の氾濫

 そしてじつをいうと、ここでぼくがまとめたような印象は、ここ最近に公開(配信)されたほかの映画でも多かれ少なかれいくつか見られるものだ。

 わかりやすいところでは、深田ともほぼ同世代といってよい(4歳違い)三宅唱監督のNetflixオリジナルシリーズ『呪怨:呪いの家』(2020年)がそうだった。三宅もまた、民間の映画教育機関「映画美学校」で映画製作を学んだのち、インディペンデント映画で頭角を現してメジャーデビューを果たした俊英であり、若いラッパーたちが狭い部屋(密室!)のなかでヒップホップのトラックを制作するプロセスを記録した短編『THE COCKPIT』(2014年)など、やはり劇団のワークショップのようなスタイルを示す注目作を手がけて
きた経緯がある。そして、人気Jホラーシリーズのスピンオフでもある新作では、やはり物語は薄暗い一軒の家屋(密室)がおもな舞台となるのだ。

 あるいは、同じような「薄暗い密室」と孤絶するひとびとのイメージは海外の作品にも広く認められる。たとえば現在、世界的に軒並みヒットしているクリストファー・ノーランの新作『TENET テネット』(2020年)でもノーランの映画の代表的な符牒となっている「密室」がやはり物語の軸を担う時間逆行装置として主人公たちを闇に閉じ込める役割を果たしていた。そして、これまた数々の「部屋」を撮り続けてきたペドロ・コスタの新作『ヴィタリナ』(2019年)。この映画でもまた、夫を失ったことを遅れて知らされる主人公の女
性ヴィタリナ(ヴィタリナ・ヴァレラ)は、アフリカのカーボ・ヴェルデからリスボン近郊のスラム街フォンタイーニャス地区の夫が借りていた家に移り住み、作中でそこからほぼ出ることがない。映画は、『本気のしるし 劇場版』や『呪怨:呪いの家』のように、深い漆黒の闇に包まれた部屋のなかのヴィタリナの姿を終始、細く差し込む鮮烈な光とともに写し出す。彼女は石造りの窓に嵌められた鉄格子の網目から鋭いまなざしで外を見据える。ここでもまた、周囲から隔絶した密室とその内部の人間がモナドのように硬く凝固しながら、外部から自らの存在を閉ざしているのだ。

 そう、それらのイメージはしいて喩えるなら、グローバルな交通が制限され、ぼくたち一人ひとりが自分たちの空間に閉じ籠ること(stay home!)を強いられたコロナ禍の「新しい日常」を図らずも律儀に反復してしまっているようにも見える。

「プロセスの映像文化」と「ワークショップ映画」の台頭

 個々に分断されモナド化した「密室」に自閉する「暗い画面」の映画たち。この、コロナ禍の映画文化のいたるところに見られるイメージは、ぼくの見立てでは、確かにプレコロナの2010年代の映画にはあまり見られなかった「新しい画面」のように思われる。たとえば、ぼくは現代のデジタル化し、ネットワーク化した映画や映像文化の物語や制作スタイルに特有の秩序を、「プロセスの映像文化」と名づけて論じたことがある。

映画からアニメーション、演劇、ロックバンド、ダンス……ジャンルは違えど、こうしたなんらかの「ものづくりのプロセス」を丹念に描き、しかもその作品のつくり手たち自体もしばしばインディペンデントでアマチュアな状況にある――つまり、「完成」や「成熟」にいたるプロセスにある――という作品が、2010年代以降の映像文化の重要な一角を占め始めているのである。(拙稿「『映像研には手を出すな!』と「プロセス」を描く映像文化」、INSIGHT美術手帖、2020)

 そこでぼくが具体的な例として挙げたのは、濱口竜介の『親密さ』(2012年)や『ハッピーアワー』(2015年)、富田克也の『バンコクナイツ』(2016年)、鈴木卓爾の『ジョギング渡り鳥』(2015年)や『嵐電』(2019年)、そして三宅の『THE COCKPIT』など。さらに、そのもっともメジャーなタイトルとして、社会現象にまでなった上田慎一郎監督の『カメラを止めるな!』(2018年)が挙げられることはいうまでもない。

 ぼくはまた、これらの映画を「ワークショップ映画」とも呼んだ。それは、どれも演劇公演や映画制作プロセスなどのワークショップ的なシチュエーションが作品の重要な核として描かれている点に特徴があり、なおかつ作品そのものが映画学校のワークショップや大学の映画学科の修了制作など、何らかの意味でインディペンデント(アマチュア)なワークショップ的文脈に基づいて制作されてもいるという二重の構造を備えているのである。こうしたワークショップ映画が2010年代に入ってから、明らかに目に見えて映画界の一角で台頭してきた。

 作品であれコミュニティであれ、何らかの「かたち」が生成するプロセスそれ自体をまるごと描くというワークショップ映画の台頭は、やはりまずは現代のデジタルネットワーク環境の浸透が前提に考えられるだろう。かつてニコニコ動画などの動画プラットフォームが「永遠のβ版」と呼ばれたように、物質的な支持体の形状を持たないデジタルデータで作られるコンテンツは、「完成品」としての確固とした輪郭や終着点を原理的に持ちえない。いわばそれらはいつまでも生成の途上=プロセスにあるものである。現代のワークショップ映画は、こうしたデジタル映画の「運命」をモティーフとして的確にかたどっているのである。

2007年の世代

 さらにぼくは、こうしたワークショップ映画のひとつの起源を、かねてから2000年代後半の2007年前後に見出している。

 この時期の前後、日本映画の一角では1970〜80年代生まれの、当時20〜30代だった若手映画監督たちによるインディペンデント映画が大きな盛り上がりを見せ始めていた。このことの詳細はまた別稿に譲るべきだろうが、たとえば、それはすでに触れた濱口や三宅、富田(もしくは映画制作集団としての「空族」)だったり、それから石井裕也、真利子哲也、入江悠、瀬田なつき、横浜聡子……そして、ほかならぬ深田晃司といった新進気鋭の監督たちであった。そして、東京や大阪などの都市部のミニシアターを中心に、「CO2(シネアスト・オーガニゼーション大阪)」、「ガンダーラ映画祭」、「CINEDRIVE」、「MOOSIC LAB」、そしてぼく自身も企画・MCとして関わった「CINEASTE3.0」などのインディペンデント映画関連の上映イベントや助成制度がこの前後に続々と現れ、彼らの初期のキャリアを多かれ少なかれ支えていったのである。

 その意味で、ぼくは上記の映画作家たちをまとめて、かりに(蓮實重彦の「73年の世代」になぞらえて)「2007年の世代」と呼ぶことにしている。つまり、『カメ止め』の社会現象化という形で結実した2010年代のワークショップ映画ムーブメント=プロセスの映像文化のルーツは、ぼくの考えでは、もともとはこの2007年の世代の登場にあったと捉えたほうがよい。

Web2.0との関わり

 では、これらの若手映画作家たちの台頭というメルクマールが、なぜ2007年という年(時期)だったのか。もちろん、インディペンデント映画関連の文脈では、たとえばまさに上田が『カメ止め』をその修了制作として手がけたENBUゼミナールをはじめとする映画ワークショップや各種映画教育機関の設立もそこには深く関わっているだろう。

 しかし、この連載の論旨からいえば、この時期は何よりも、いわゆる「Web2.0」(ティム・オライリー)というバズワードで喧伝されたICTの広範なパラダイムシフトに重なっていたという事実に注目すべきだろう。ご存知の読者も少なくないはずだが、この2007年の前後には、iPhone(スマートフォン)やKindleといったモバイル端末、Twitter、pixivといったSNS、ニコニコ動画、Ustreamといった動画共有サイトや配信プラットフォーム(YouTubeの登場は2005年)、そして初音ミクなどそれらと紐づいた新世代のソフトウェアが続々と登場し、「ウェブからアプリへ」「一方通行から双方向へ」といった情報環境やユーザの行動様式の構造転換が一挙に進んだ。こうした文化表現を支える下部構造(インフラ)の巨大な地殻変動、とりわけYouTubeやvimeoといった新たな動画プラットフォームの台頭が、若い世代のインディペンデント映画をめぐる文化圏の形成にとって大きな役割を果たしたことは間違いない。

同時代的な並行性と「明るい画面」

 実際、実写映画以外にも眼を向ければ、2007年は、アニメーションの世界では、この連載でものちに中心的に取り上げる予定の新海誠が、のちの歴史的大ヒット作『君の名は。』(2016年)のルーツ的作品のひとつともいえる初期代表作の『秒速5センチメートル』(2007年)を発表した年でもあった。よく知られるように、新海もまた、彼の出世作となった2002年の短編『ほしのこえ』ではデジタルソフトウェアを駆使したインディペンデントアニメーションの文脈で評価を確立したのち、2010年代にメジャー化したという経緯をたどっており、じつはさきほどの「2007年の世代」のキャリアとよく似ている(実際、アニメーション研究の土居伸彰は、この時期の前後、2007年の世代に含まれる実写映画の作家たちとインディペンデントアニメーション作家たちの作品を合わせた上映会を開催しており、過去にぼくとの対談でも両者の並行関係を認めていた)。

 また、さらに興味深いのは、2007年の世代に象徴される、こうしたインディペンデントシーンの潮流が何も日本の映画界にだけ起こっていたのではないようにも思えることだ。たとえば、2000年代初頭からニューヨークの若手インディペンデント映画シーンで台頭した映画運動の動向として知られる「マンブルコアMumblecore」もその代表的な例のひとつとみなせるだろう。ノア・バームバックやグレタ・ガーウィグをはじめとするマンブルコア作品の特徴は、おもに20代の若者を主人公にした日常的な物語を素人俳優と口語的な演技で描くところに特徴があるとされ、現代日本の2007年の世代と連動的な動向とみなすことができる。
さらにいえば、デジタルカメラを駆使して撮られた『ヴァンダの部屋』(2003年)以来、やはり非職業俳優を起用し、彼らとの独特の相互交渉(コミュニケーション)のなかで作品を作り続けてきた先のコスタの映画もまた、どこかこうした流れと共鳴するところがあるだろう。

 ともかく、これらのおもにインディペンデントな制作環境を基盤とし、またそれゆえに同時代のデジタル・ネットワークメディアの社会的浸透を背景として現れた新たな映画文化の潮流は、2007年あたりにその萌芽を見せ始め、2010年代にかけてぼくのいうワークショップ映画やプロセスの映像文化(あるいは映画批評家の三浦哲哉の言葉でいえば、彼が『「ハッピーアワー」論』で提唱している「震災後の映画」)として一挙に台頭してきた。

 そして重要なのは、この連載が注目するフェーズでいう「画面」の様相に関していえば、いわばWeb2.0以降の映画を象徴するこれらの作品のうち、その代表的な作家といえる新海のアニメーションの画面があたかもInstagramの画像のようにキラキラと明るいことだ。思えば、「2007年の世代」からプロセスの映像文化にいたる21世紀の映画やアニメーションの重要な作品群は、この新海にせよ、あるいはJ・J・エイブラムスにせよ、ひとしなみに「明るい画面」を目指してきたといえる。

 ところが、ポストコロナの映画たちは、どこかそれとは対極的な「暗い画面」をぼくたちに見せ始めているのだ。

ポストヒューマニーズの哲学との関係

 「明るい画面」から「暗い画面」へ。コミュニケーション=プロセスの連鎖からモナド的な孤絶へ。あるいは、2010年の『歓待』から2020年の『本気のしるし 劇場版』へ。

 コロナ禍に曝される昨今の映画をざっと眺めるとき、今回はさしあたり以上のような状況の変化に注目してみた。では、こうした変化をぼくたちはどのように捉えればよいのだろうか。次回以降に展開する議論に繋げていくためにも、ここではよりパースペクティヴを広げて2020年代に注目されている一連の「ポストヒューマニティーズの哲学」の問題系を参照しながら最後に考えてみたい。

 ぼくはこれまで、ワークショップ映画やプロセスの映像文化などと概念化してきた2010年代の映画のパラダイムを、近代以降の人間中心主義を脱し、人間以外のモノ(オブジェクト)に注目してそれとの人間の関係性を考える21世紀のポストヒューマニティーズの哲学と関連づけながら考えてきた。たとえば、そこでおもな手掛かりとしてきたのは、ミシェル・セールやカトリーヌ・マラブー、ベルナール・スティグレール、ブルーノ・ラトゥール、エリー・デューリング、そしてジルベール・シモンドン……といった現代フランスの哲学者たちの思想であった(前回触れたアクター・ネットワーク理論もそのひとつだ)。

 彼らについては今後折に触れ言及していく機会があるだろうが、彼らの哲学はいちように、あるひとつの共通点を持っている。それは、複数の競合的に動くアクターたちの相互干渉的なコミュニケーションのネットワークを通じて、とりあえずの「かたち」を目指す何かが組織されるプロセスに注目するという姿勢である。つまり、それはセールやマラブーがキーワードにする「可塑的plastic」な状態と深く関わっている。スティグレールらに影響を与えたシモンドンが、「粘土は単に受動的に形成されうるばかりではない。コロイド状であるがゆえに粘土は能動的に可塑的なのである」(『個体化の哲学――形相と情報の概念を手がかりに』近藤和敬他訳、法政大学出版局、37頁)と述べたように、彼らがしばしば例に持ち出す粘土や煉瓦は外側から圧力を加えられつつ内部にこもる反発力がその力を受け止め、内外の両者がせめぎあうことでグニュグニュと絶え間なく変形を続ける。これが可塑性だ。そして、続けてシモンドンが「粘土を準備することは分子が均等に配置されているこの状態を作りだし、この連鎖上の配列を構築することである」(同前)とするように、この可塑的なプロセスは「個体化(individualisation)」を目指してダイナミックに次々と後続して連鎖していくことになる。

 また、こうしたセールやマラブーの可塑性の哲学、シモンドンの個体化の哲学は、現代のデューリングの思想が典型的であるように、デジタルメディアやコンテンツ、またアニメーションととても相性がよい。複数のユーザ(アクター)が既存の動画を可塑的に作り替えてアップするウェブの映像や、殴っても落ちてもゴムのようにかたちが変形するカートゥーンのキャラクターたちの身体は、まさにこうした哲学が打ち出すイメージを具体的になぞっているからだ。したがって、ぼくもこれらの言説を自分の映画批評やアニメ論の議論にしばしば参照してきた。

「プロセスの哲学」としてのホワイトヘッド

 しかし、ここでそれら以外にもうひとつの重要な補助線を持ってくるとすれば、――「プロセスの映像文化」という言葉の選択でなんとなくお気づきの読者もいるかもしれないが――いわゆる「プロセス哲学」や「プロセス神学」という学問の生みの親であり、今日のポストヒューマニティーズの哲学の文脈からその存在がふたたび脚光を浴びている20世紀前半イギリスの数学者・哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの形而上学である。

 後期の主著『過程と実在』で「有機体の哲学」という名称で体系化されたホワイトヘッドの思想は、ひとことでいえば、宇宙全体を含むこの世界を、あらゆる存在が相互に関係しあい、それらが連続的かつダイナミックに繋がりあうプロセスとして捉えるという考え方だ。

 ホワイトヘッドが一貫して主要な論敵とするのは、彼が「実体の哲学」と名づける立場である。実体の哲学とは、デカルトを典型とする近代西洋哲学に主流の考え方で、文字通り存在を実体とみなし、それ以外の存在との関係を必要とせずそれ自体で自立的に捉えられるとするものである。しかしホワイトヘッドは、通常はそのように、それぞれが実体として分断して捉えられてきた人間とモノ、動物、機械、木や石、電子などのあらゆる存在者(ホワイトヘッドの用語では「現実的存在actual entity」)が絶えず流動し、相互に関係しあいながら有機体のように連続的に成り立っていると考える。ホワイトヘッドによれば、宇宙のあらゆる現実的存在たちは、絶えずほかの、または過去の消滅したあらゆる現実的存在を自らの構成要素として連続的に吸収していき、その生成プロセスにおいて固有の存在者となっていく。

現代に甦るホワイトヘッド思想

 いうまでもなく、こうしたホワイトヘッドの世界観は、濱口の『親密さ』から富田の『バンコクナイツ』、三宅の『THE COCKPIT』まで、2010年代のプロセスの映画=ワークショップ映画のモティーフや構成要素とその形式においてきわめて重なるところがある。それは、深田の『歓待』であらゆる人種のいかがわしい闖入者たちが互いに輪になって部屋のなかで踊り狂うシーンで示されたようなフラットな連続体を形成しているのだ。ちなみにいうと、このほかの存在者の働きを後続の存在が自己の基盤として取り込み続ける関係的な作用を、ホワイトヘッドは「掴むこと」を意味するラテン語に由来する「抱握prehension」という用語で定義している。ここで彼が「手」(触覚)の隠喩を用いている点は、前回の大林の「ハンドメイキング」の隠喩やタッチパネルの性質とも通じているようで示唆的である。

 ともあれ、北米の哲学者で映画理論家でもあるスティーヴン・シャヴィロが論じるように(『モノたちの宇宙』)、形而上学批判と言語論的転回が席巻した20世紀の西洋哲学にあって、まったく反対に、形而上学とモノとの関係を強調し、なおかつ実体の哲学を批判し続けたホワイトヘッドは、長らく哲学史ではマイナーな存在だった。しかし、まさに近代以来の人間中心主義や言語中心主義の考え方に強い疑いが差し挟まれ、異常気象とAIの時代に、むしろ人間と人間以外の有象無象のオブジェクト(まさにコロナウイルス)との相互関係の諸相にスポットが当てられる2000年代以降のポストヒューマニーズの哲学――とりわけ新しい実在論やオブジェクト指向の存在論といったモノとの関係をフラットに考えようとする現代思想のなかで、急速に再評価の機運が高まっているのである。

「モノのプライバシー」を擁護する現代思想

 そして、そのオブジェクト指向の哲学の代表的な論者であり、ホワイトヘッドの反実在論的な側面を高く評価して自らの哲学に大きな影響を与えたと表明するのが、北米の哲学者グレアム・ハーマンである(“Response to Shaviro”, in The Speculative Turn, p.293)。

 ハーマンは、反実在論的風潮のなかで長らく実体や人間を中心に思考してきた20世紀哲学において、例外的に人間を含むあらゆるモノをフラットに捉えたホワイトヘッドを肯定的に評価する。しかしその一方で、彼はホワイトヘッドの哲学があらゆる存在を連続的に関係づけ、結びつけてしまうパースペクティヴを「関係主義」だとして否定する(ちなみにハーマンは、ホワイトヘッドの描く連続的なプロセスのイメージを映画やアニメーションのコマに喩えている)。むしろハーマンは、ホワイトヘッドとは逆に、個々の存在者を相互に決して関係しあわない断絶的な実体として捉えようとするのだ。

 ハーマンによれば、個々のオブジェクトはほかの存在に対して自らの全容を披瀝することも何かに還元されることもなく、つねに完全に汲み尽くしえない秘められた「余剰」を含んでいる。そうしたあらゆるオブジェクトがほかとの因果関係から隠されている様態を、彼はハイデガー哲学を参照しながら「退隠withdrawal,Entzug」と呼んでいる。つまり、ハーマンの哲学は、「モノたちのプライバシー」を擁護する思想なのだ。

「退隠」する「新しい日常」の「暗い画面」?

 さて、こうして見てくると、新海誠的な「明るい画面」を湛えた2010年代の「プロセスの映画たち」の支えられる秩序が、後期ホワイトヘッドのホーリスティックな有機体の哲学になぞらえられるとしたら、コロナ禍のステイ・ホームのうちに公開された『本気のしるし 劇場版』や『ヴィタリナ』のあの「暗い画面」に映るモナド的な密室の数々とそこに住まう人物たちが、どこかハーマンの描き出す退隠したオブジェクトたちの闇のなかの蠢きに重なって見えてくることに気づかされる。ハーマンは、個体的実体としてのオブジェクトを「空虚な現実態(vacuous actuality)」だと表現しているが(Bells and Whistles, P.224)、たとえば夫のいなくなったあとのフォンタイーニャスの家に幽霊のようになって座るヴィタリナや、教会のなかで腕を細かく振動させながらたたずむヴェントゥーラの姿は、まさに「空虚な現実態」と呼ぶにふさわしいだろう。

 「新しい日常」の映画の「画面」は、もしかするとハーマン的な私秘的なオブジェクトたちが形作る「暗い画面」を召喚しようとしているのではないか。あるいは他方で、最近、ホワイトヘッド哲学にハーマン的な「断絶」の契機を見ようとした『連続と断絶――ホワイトヘッドの哲学』(人文書院)の飯盛元章のように、むしろこの「明るい画面」と「暗い画面」の対比は推移的・相互排他的な関係ではなく、もっと複雑に競合するものなのかもしれない。次回以降では、この関係性をより追求してみよう。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『本気のしるし 劇場版』 
全国公開中
出演:森崎ウィン、土村芳、宇野祥平、石橋けい、福永朱梨、忍成修吾、北村有起哉ほか
監督:深田晃司
脚本:三谷伸太朗、深田晃司
原作:星里もちる『本気のしるし』(小学館ビッグコミックス刊)
制作協力:マウンテンゲート・プロダクション
製作:メ~テレ
配給:ラビットハウス
(c)星里もちる・小学館/メ~テレ
公式サイト:https://www.nagoyatv.com/ honki/

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む