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山口百恵の楽曲が持つ“褪せることのない一瞬の輝き” 時代性を捉えたサウンドと芯の通った歌声の魅力

リアルサウンド

20/6/19(金) 6:00

 1980年に行われた東京・日本武道館での引退コンサートから40年。世代や性別を越えた多くのファンの声に応え、伝説の歌姫・山口百恵の珠玉の楽曲たちがサブスクで解禁された。1973年のデビューシングル曲「としごろ」を始め、「ひと夏の経験」「プレイバック part 2」「いい日旅立ち」「秋桜」「さよならの向う側」といった代表曲から、ラストシングルとなった『一恵』までの全シングルのほか、22枚のアルバムと6枚のライブアルバム、女優として出演した作品のサウンドトラックアルバム8作を加えた600曲以上が一斉配信となった。

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■テクノ、フュージョン、ロック……時代性を反映させる表現力はまるでカメレオン

 山口百恵は、オーディション番組『スター誕生!』(1971年~1983年)を経て、14歳のときに「としごろ」でデビュー。当初は作詞・千家和也、作曲・都倉俊一のコンビによる「青い果実」「禁じられた遊び」「ひと夏の経験」など、清純さをたたえた少女が歌う大胆な歌詞が話題を呼んだ。転機になったのは1976年の楽曲「横須賀ストーリー」で、この曲以降、作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童のコンビで「イミテイション・ゴールド」「プレイバック part 2」「絶対絶命」「ロックンロール・ウィドゥ」など、数々のヒット曲を生み出していく。阿木・宇崎コンビによるロック調の楽曲はどれも当時の歌謡界には画期的なもので、たとえば「美・サイレント」の歌詞に空白箇所を設けるギミックなどは毎回話題を呼んだ。阿木と宇崎の豊かな発想力との出会いが、山口百恵に自由に羽ばたく翼を与えたとも言えるだろう。以降のアルバムや作品では、実にさまざまなトライアルを繰り返している。

 山口百恵は、引退する1980年11月までに32枚のシングルと22枚のアルバムをリリース。平均すると1年にシングル4枚、アルバム3枚という驚異的なハイペースだ。シングル曲のインパクトゆえ、アルバム単位で語られることは少ないが、サブスク解禁を機にアルバムを聴いていくとコンセプチュアルなものも多く、作品ごとにまるでカメレオンのごとく違った表情を見せていることに驚く。

 たとえば1977年の『GOLDEN FLIGHT』は、ロックンロールがテーマのアルバム。本作は初の海外録音作品で、ロンドンでレコーディングしたという。ミュージシャンからエンジニアまで現地のアーティストを採用し、元King Crimsonのゴードン・ハスケルも参加した。爽快なブラスサウンドを取り入れた「Made in U.F.O.」で幕を開け、ファンクやレゲエなどの要素を取り入れた楽曲も収められている。同アルバム収録の「IMITATION GOLD」は、シングルバージョンの「イミテイション・ゴールド」に比べ、ロックで大胆なリアレンジが施されており、より聴き応えのある仕上がりとなっている。

■一瞬の輝きだからこそ魅了される山口百恵の歌声

 1979年のアルバム『L.A.BLUE』は、フュージョンがコンセプト。文字通りロサンゼルスでレコーディングされた作品で、こちらも現地ミュージシャンが参加しており、エルヴィス・プレスリーのバックバンドを務めていたドラマーのロン・タットなどが演奏している。LAの夜景とネオン管風のタイトルロゴによるジャケットも印象的で、本人が写っていないジャケットは当時のアイドルとしては異例だった。なかでも「A GOLD NEEDLE AND SILVER THREAD」では、ゴスペル風コーラスとムーディなサックスが楽曲の世界観をより広げている。

 そんな中、異色作として知られるのは、テクノを取り入れた1980年の『メビウス・ゲーム』だろう。ピコピコ音のシンセが鳴り響く「テクノ・パラダイス」は、まるでスペースオペラのような壮大さ。そこからノンストップで「恋のホットライン」へと繋がっていくという、まるでDJプレイのような演出も施されている。ほかにもスペイシーな「E=MC2」など、当時ロックからディスコへと移行していたQueenからの影響が感じられる曲も収録されている。

 また、名曲「秋桜」を収録した“花”をテーマに日本的な情緒を表現した『花ざかり』(1977年)、浜田省吾が作曲した「宇宙旅行のパンフレット」を収録した宇宙がテーマの『COSMOS(宇宙)』(1987年)、井上陽水が提供した「Crazy Love」を収録したラストアルバム『This is my trial』(1980年)など、どのアルバムもサウンドにはその時々の時代性が反映され、驚きと発見に満ち溢れている。

 山口百恵が活躍した1970年代は、ディスコ、ファンク、ハードロック、テクノポップ、AOR、フュージョンなど多彩な音楽ジャンルが入り乱れた時期。そうした洋楽のトレンドを巧みに取り入れながら、それらをしっかり歌謡曲として成立させた彼女の唯一無二の歌声とアーティスト性の高さには改めて驚かされる。それを支えたのは、彼女の歌と音楽に対する情熱だろう。当時のアイドル歌手の多くは多忙を極め、自分の歌録りだけで精一杯だった。しかし山口百恵は、歌録りが行われないオケ録りにも顔を出し、自分の音楽と向き合っていたという。その上、集中力も桁外れで、どんな曲もわずか数テイクで録り終えたそうだ。多くの編曲を担当した萩田光雄氏は、弱冠20歳の彼女が放つ圧倒的なオーラを前に、声をかけることさえはばかられたと述べていた。今思えば約7年という短い現役時代を、濃密に、風のように駆け抜けた山口百恵。そこにはあるのは、時代を経ても褪せることのない一瞬の輝きだ。(榑林 史章)

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