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三宅唱は“いつまでも続かない青春”をどう描いた? 『きみの鳥はうたえる』のただならぬ緊張感

リアルサウンド

18/9/9(日) 12:00

 主人公は、ただ単に「僕」。そしてその「僕」(柄本佑)のルームメイトが静雄(染谷将太)で、ふたりの間に飛び込んでくるのが佐知子(石橋静河)だ。男の子ふたりと、女の子ひとり。現代の「ジュールとジム」であり、微妙な三角関係が織りなす青春映画だ。

 それにしても小説やエッセーじゃあるまいし、映画の主人公が「僕」としか名乗らずに平然としているのは、ずいぶん人を喰っているではないか。佐藤泰志の原作どおりといえばそれまでだが、主人公の第一人称で語られる小説というジャンルと、映画とでは根底から異なるはずなのに、気にするふうもない。この図々しさがこの映画の魅力だ。映画内で熱心に話者の役割を全うしているわけでもない「僕」は、あいまいなうちに静雄とも佐知子ともほぼ同等に存在し、ということは世界の中で彼らは平等にそこに存在して、たがいにたがいを親しみと共に呼び合うことだろう。ところが、「僕」以外の者が「僕」のことを「僕」と呼びかけるわけにはいかない。それではいくらなんでも、映画それじたいが崩壊してしまうことになる。だから「僕」以外の誰も、恋仲になっていく佐知子ですら、「僕」の名前を呼ぶことは禁忌なのだ。映画の最初のほうで名無しの権兵衛たる「僕」は、申し訳程度に話者めいた役割を演じ、次のようなモノローグをオフで語る。

「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした。9月になっても10月になっても、次の季節はやって来ないように思える」

 このモノローグが醸すモラトリアムの匂い。そこでは、何か決定的な変化の到来に前にしての待機の時間を想起せずにはいられないかもしれない。じっさいこの作品の3人組は、無為のうちに朝まで酒を飲んで刹那的な快楽をむさぼっている。しかし、モラトリアムの時間を写した青春の一コマだけだとしたら、この映画がこんなに緊張感をはらんでいることの説明がつかない。主人公「僕」は「この夏がいつまでも続くような気がした」と述べ、「次の季節はやって来ないように思える」という言葉を残して、さっさと語り手の責任を放棄してしまう。「僕」が第一人称「僕」であることの責任をとったのは、タイトルイン直前のこのモノローグと、終盤のモノローグだけなのだ。なぜなのか? 自明の事実を書かせてもらうと、「この夏」は「いつまでも」続かないし、「次の季節」は否が応にもやって来てしまうし、部分的にはすでに来てしまったからだ。

 かんたんに言うなら、「僕」は嘘を言ってみたかったのだろう。本当のところ「僕」は「この夏」の終わりのことばかりを考えているのだし、「次の季節」への不安をつねに感知している。むしろ「僕」はすでに「次の季節」を「この夏」と併行して、いち早く生き始めてさえいるのだとも言える。たとえば佐知子と出会うことによって。「僕」にとって「この夏」というのは、静雄との平和な同棲生活であって、佐知子の闖入以後はじつは「この夏」がそれまでの「この夏」ではなくなっている。

 「僕」がアルバイト先の同僚、佐知子との愛の始まりを意識するシーン。アルバイトをさぼった「僕」は、夜の函館の街をあてどなく歩いてくる。道路の反対側へ渡ろうと画面左側にそれようとする。しかしなぜか「僕」はきびすを返し、そのまま画面右手の商店を覗きこむ。商店はどうやらもうつぶれて、テナント募集中となっているようだ。空白となった空き店舗を覗きこむ「僕」。そこに佐知子が偶然現れ、関係が始まるのだ。

 かつて筆者は当サイトにおける『アメリカン・スリープオーバー』評(参考:『イット・フォローズ』監督、幻の青春映画『アメリカン・スリープオーバー』の放つ無償の輝き)で、次のように書いたことがある。「青春映画とは、時限付きの映画である。時間制限もなくただダラダラと続く青春映画などロクなものではない。青春は時が限られているからこそ、無償の輝きを放つのではないか」。青春が時間制限なく、望むかぎり続いたらどうだろう。「僕」は「この夏がいつまでも続くような気がした」とうそぶくが、制限なしを念じる「僕」の呪文は始めから無効なのだ。進路を不意に変えて見せてまで、空白の商店跡を覗きこもうとする「僕」はすでに、この世界のゼロ記号と化している。そこに佐知子や静雄が来て、プラスやマイナスの痕跡を付け足していく。そのことによって「僕」というゼロ記号の座標が変わっていく。

 ゼロ記号になにがしかの電流を流すのは佐知子だ。空白の商店跡を眺める「僕」のヒジを佐知子は軽くつねってからいったん去って行く。この最初の出会いで「僕」はヒジをつねられ、映画の最後の方でもまたヒジをつねられる。この接触、ゼロ記号への電流に始まり、電流で終わる映画。電流によって入るスイッチは、制限なしの呪文の無効化だ。スイッチオン。カチ、カチ、カチ。人は死に向かってリズムを刻み出す。静雄は母(渡辺真起子)の病状悪化によって、一足早く「次の季節」へと足を踏み入れていった。

 僕(モノローグ)「静雄が母親を見舞って帰ってくれば、こんどは僕が、あいつを通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。すると、僕は率直で気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」

 ここで「僕」自身が白状する「率直で気持ちのいい、空気のような男」というものこそ、ゼロ記号たる「僕」のゼロ宣言なのだろうか? いや、そうとも限るまい。いてもいなくてもどちらでもいいような「空気」などではなく、電流を通し、媒介となり、ノイズとなり、異様な空疎さをたたえた冒頭の空き店舗のように、ただならぬ妖気を漂わせ、座標軸をすべっていく存在。そうしたものこそ「僕」のゼロ性なのだ。そのゼロぶりを気味の悪い空疎の面影として、「僕たち」は「僕」のことを感知しなければならないのではないか。(荻野洋一)

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