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『ばるぼら』と『エール』は二階堂ふみの集大成に “静”と“動”を行き来するヒロイン像を探る

リアルサウンド

20/12/5(土) 6:00

フィルムメーカーズ

 新宿駅の地下で美倉(稲垣吾郎)に発見されるばるぼら(二階堂ふみ)の薄汚れた姿は、この世界から捨てられた妖精のようであり、たがの外れてしまった世界に舞い降りた希望の偶像のようでもあり、あるいは、この世界への復讐のために帰還した天使のようでもある。手塚真監督は、新作『ばるぼら』の中で、男性的視点から語られてきた「ミューズ」という言葉が抱えがちな女性崇拝を、ばるぼら=二階堂ふみに託しつつ、圧巻のラストでその偶像=ミューズそのものを破壊する。手塚治虫の原作にはない、このラストによって、ばるぼらの身体は空洞化される。『ばるぼら』には、これまでの二階堂ふみがスクリーンで披露してきた天真爛漫ともいえる「動」の側面と、沈黙によってその場に亀裂を生み出す「静」の側面が極めて有機的な形で表象されている。

 ばるぼらを演じるより前に、二階堂ふみはこれまでも出自を特定させないヒロインを何度か演じてきた。流氷の海から這い上がってくる少女という、衝撃的な始まり方をする『私の男』(熊切和嘉監督/2014年)で、ヒロイン・花(二階堂ふみ)は震災の孤児だった。あるいは、小説家のイマジナリーなヒロイン、赤子を演じた室生犀星原作の『蜜のあわれ』(石井岳龍監督/2016年)を思い出してもいいだろう。

 特に二階堂ふみの代表作の一本といえる『私の男』は、北海道の積雪と流氷の景色が、少女に対してまったく優しさを与えてくれないどころか、常に肌を突き刺すような厳しさを少女に与えているという点において、二階堂ふみがフェイバリットに挙げるロシア映画『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー監督/1989年)の雪の世界に生きる過酷な登場人物に、どこか自分を寄せているようにさえ思える。

 『私の男』の二階堂ふみは、先行世代がこの年頃の女性を演じた際、監督の演出によって、ほとんど無意識に記録されていたフレームの中の「少女像」を、自分がどのようにフレームに記録されるかを逆算し、意識化した上で、演技に向かっているように思える。たとえば、淳悟(浅野忠信)とお互いの指を舐め合うエロティックなシーンにおいての、二人だけの世界でありがなら、誰かに覗かれていることを意識したような表情。淳悟の元婚約者(河井青葉)を悪意があるのかないのか容易には読み取れない少女的な無邪気さで挑発し、最後に「この世の終わりだよ」と捨て台詞のように言い放つ時の虚無。

 撮影時、二階堂ふみはまだ19歳だが、母親の影響で小さい頃から多くの映画を体験してきた(成瀬巳喜男と高峰秀子の作品など)彼女にとって、撮影とは、台詞や所作の意味や意図を理解した上で、どのように自分がカメラの前で「モデル化」されていくか、という過程自体を意識して楽しんでいく作業であるかようだ。このことは、二階堂ふみが自身のことを、撮影現場を支える一つの役割、女優という肩書きよりも「フィルムメーカーズ」という表現の方が好きだ、と以前に語っていたことの裏付けにもなっている。

サイレントのクローズアップ

 ヴェネチア国際映画祭で染谷将太と共にマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人賞)を受賞した『ヒミズ』(園子温監督/2012年)では、二階堂ふみの「動」の演技が炸裂している。二階堂ふみと染谷将太による壮絶なビンタの応酬、取っ組み合いによって転げ回る身体、傷だらけ泥だらけのラブバトルが繰り広げられる本作では、二階堂ふみの字義通りの体当たり演技と、反射神経の良さ、泣き笑いの表情の豊かさが際立っている。

 思えば、映画出演デビュー作となった、役所広司が監督を務めた『ガマの油』(2009年)で、過剰なほどの笑顔を印象付けるヒロインを演じたときから、二階堂ふみの泣き笑いは、現在のところ最新作に当たるNHKの連続ドラマ『エール』に至るまで、強すぎるぐらいの残像を画面に滲ませている。たとえば、岡崎京子原作の『リバーズ・エッジ』(行定勲監督/2018年)では、ハルナ(二階堂ふみ)が面倒を見ていた子猫の死体を突きつけられたときに涙を流すその涙のこぼし方が、まさしく、あの若草ハルナの泣き方であり、岡崎京子の漫画の一コマ一コマ、涙のしずくのこぼれ方までがパラパラとコマで割ったように思い出せる、特徴的な泣き方をしている。つまり二階堂ふみの泣き笑いは、スローモーションのように、残像を見る者の瞳に残していく。さらに、一つの作品の中で何かにぶつかっていくように泣き、笑うからこそ、ふとした瞬間のまなざしとその沈黙がポエジーのように活きてくる。

 その意味において、二階堂ふみのフィルモグラフィーでこの一本を選ぶとしたら、小泉今日子と共演した『ふきげんな過去』(前田司郎監督/2016年)を、私は選ぶ。二階堂ふみと小泉今日子が爆弾を作るというだけで、すでに興味深い設定を持つ本作は、いつも不機嫌な果子を演じる二階堂ふみの「娘役」としての到達点を記録している。

 河川敷にワニがいるという都市伝説を、信じているのではなく、むしろワニがいないことを確かめに行くことで、自身と現実との繋がりを確認する果子。「この先の人生で普通じゃない男と出会ったからって、空が飛べるようになるわけではない」(果子曰く、「人生のすべては想像の範囲内!」)と言い放つ、やさぐれた少女を演じる二階堂ふみの不機嫌な沈黙のアップから本作は始まる。

 『ふきげんな過去』は、死んだはずの未来子(小泉今日子)の帰還という、ひと夏の体験が、少女の想像の殻に亀裂を加えていく傑作だ。未来子の髪をつかんで取っ組み合いのケンカをする果子の激しさと、文句を言いながらも未来子に魅せられていく引力が、果子の物言わぬクローズアップの情景に亀裂を生み出していく。二階堂ふみのサイレントのクローズアップ。後に二階堂ふみは『ばるぼら』で、その魂を抜き取られ、ただそこにある空洞として身体を提示することになる。そこでは、ばるぼらの沈黙によって画面は支配される。また、『ふきげんな過去』で、持って生まれた独特な声のトーンで演技に色をつけていく小泉今日子の娘役を演じたことは、二階堂ふみが『エール』の後半で母親役を演じた際の、声のトーンや言葉のイントネーションの変化を試みることで、その時代の母親になりきった演技へとイメージが重なっていく。

音楽と沈黙 ~君はるか~

 『エール』で演じた古山音役は、これまでの二階堂ふみの集大成であり、同時にまったく新しい次元へと女優二階堂ふみを導いた。『エール』は、舶来品として日本に届いた西洋の音楽への、新しいおもちゃを手にしたような時代の高揚感と、音楽が戦争に利用されてしまう、音楽が戦争に加担してしまったことへの贖罪を、大正~昭和の時代を生きた一組の夫婦の物語を介して描いている。

 『エール』は、それだけではなく、複数のテーマが見事に絡み合って成立している作品だが、その中で、本作が現代にも通じる独立した一人の女性の生涯を描いている点に注目したい。

 三姉妹の物語、彼女たちの母親を含んだ女性たちの物語としての『エール』は、グレタ・ガーウィグ監督が描いた傑作『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』(2019年)の四姉妹にも通じる現代性を持っている。夫に先立たれ、女手一つで三姉妹を育て上げた母親(薬師丸ひろ子)が男性社会に媚びることなく、自分の幸せを自分で掴む女性だったように、その強い意志は、歌い手を目指す音や小説家を目指す梅(森七菜)、幸せを目指す方向性が二人と違うだけで、同じくその強さを芯に持っている吟(松井怜奈)、そして古山裕一(窪田正孝)と音の娘、華(古川琴音)にも受け継がれている。『エール』は、それぞれの女性が、それぞれの幸せを発見して自ら切り拓いていく女性たちの物語であり、母が辿ってきた物語を反復(ロザリオを前にした結婚の誓い!)することで、次の世代に受け継いでいく物語でもある。

 本作で二階堂ふみは音の10代~晩年までを演じるが、特に娘が生まれて以降の、完全に母親の顔になっている二階堂ふみには、どうしてこんなことができるのだろうかと、驚き以外の何ものでもない。二階堂ふみの演技を通して、母親とは「母親」を演じるために無理をするものだ、ということを痛いほど思い知らされる。あれだけ若く、動的で体ごとぶつかっていった演技が、物語が終盤に向かっていくにつれて、話し方や声のトーンに落ち着きが加えられ、日本語の響き自体の美しさを備えながら、もはや書かれた台詞がなくとも、すらすらと言葉がでてくるような次元にまで達している。二階堂ふみが、古山音という役を介して、この時代に生きた一人の女性、大切な人に夢を預けるという選択をした一人の女性として生きているということに、驚かされる。

 音は裕一の仕事(作曲)について口をはさまない主義だが、裕一は音の意見が知りたくて何度も相談をする。生活の中に音楽を見出してきた裕一にとって、また何より、音の夢を預かっている裕一にとって、音楽は音のいる風景でしか生まれ得ない。そのことを裕一はよく知っているのだ。音は裕一の音楽に誠実に耳を澄ます。

 『エール』の第9週「東京恋物語」の中で、鉄男(中村蒼)が福島時代の忘れられない女性希穂子(入山法子)を思い描きながら書いた詩「福島行進曲」のレコードを、他でもない希穂子と共に、皆で聴くシーンがある。この曲を作った裕一も、音も、静かに音楽に耳を傾ける。そこに書かれた詩やメロディーに耳の全神経を集中させる。『エール』は、この特別な時間をもって、音楽が沈黙に似ているということを教えてくれる。

 この回がさらに特別なのは、希穂子の引き裂かれるような恋の決断と、音が挑む『椿姫』の最終選考の風景との美しいカットバックに繋がっていくことによって、音の歌い手としての表現力が凄まじい勢いで増していくところだ。「粗削りだけど人の心を揺さぶる何かがあった」と、オペラ歌手双浦環(柴咲コウ)に評された音の歌唱は、最終選考を勝ち取ることになる。二階堂ふみの演技の持つ「静」と「動」の振り幅が、分かちがたく情熱的に結ばれた瞬間だ。音楽は人から人へ繋がり、その心が継承される。

 誰かのために作られたその音楽が、やがて流行歌となり、街に流れ、人々、そして時代を勇気づける。晩年の音楽を作らなくなった裕一が、「僕の中にある音楽は、もう僕だけで楽しみたいんだ」と語るとき、生活の中に溢れてくる音楽を採譜することで音楽を作ってきた裕一にとって、その音楽は愛する妻との二人だけの生活=音楽に帰結する。裕一と音が最後に踏み出した走馬灯のような世界に言葉はなく、音楽だけが溢れていて、そのメロディーには、たった一つの感謝の言葉が乗せられる。人生で最も大切な人を失った裕一にとって、世界で二人だけしか知らないこのメロディーと詩は、遠くにありて、君を思うレクイエムになっていくのだ。君、はるか。

■宮代大嗣(maplecat-eve)
映画批評。ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、キネマ旬報、松本俊夫特集パンフレットに論評を寄稿。Twitterブログ

■公開情報
『ばるぼら』
シネマート新宿、ユーロスペースほか全国公開中
出演:稲垣吾郎、二階堂ふみ、渋川清彦、石橋静河、美波、大谷亮介、ISSAY、片山萌美、渡辺えり
監督・編集:手塚眞
撮影監督:クリストファー・ドイル、蔡高比
原作:手塚治虫
脚本:黒沢久子
プロデュース:古賀俊輔
プロデューサー:アダム・トレル、姫田伸也
美術統括:磯見俊裕
衣装:柘植伊佐夫
制作プロダクション:ザフール
配給:イオンエンターテイメント
2019年/100分/カラー/映倫区分:R15+
(c)2019『ばるぼら』製作委員会
公式サイト:barbara-themovie.com

■放送情報
連続テレビ小説『エール』総集編
NHK総合
12月31日(木)前編 14:00〜15:23
12月31日(木)後編 15:28〜16:56

NHK BSプレミアム
12月29日(火)前編 7:30〜8:53
12月30日(水)後編 7:30〜8:58

NHK BS4K
12月28日(月)前編 9:45〜11:08
12月28日(月)後編 11:08〜12:36

出演:窪田正孝、二階堂ふみほか
写真提供=NHK
公式サイト:https://www.nhk.or.jp/yell/

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