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色彩とジブリ作品の関係性とは? 三鷹の森ジブリ美術館「映画を塗る仕事」展を小野寺系がレポート

リアルサウンド

18/12/23(日) 12:00

 アニメーションの画面は、全てが色で埋め尽くされている。では、スタジオジブリを代表する高畑勲監督、宮崎駿監督作品では、どのような基準でその色彩を決めていたのだろうか。

参考:『毛虫のボロ』が成し遂げたことの意味とは? 宮崎駿監督による“紛れもない本気の新作”を徹底考察

 三鷹の森ジブリ美術館で、企画展示「映画を塗る仕事」展が開催中だ。スタジオジブリ作品では、大勢のスタッフによる様々な専門技術が駆使されているが、今回の展示は「色」に着目し、アニメーションの作り手がどのように色を選び、どのように画面を彩っていたのか、魔法のようなアニメーションが生み出されてきた秘密の一端が解き明かされる内容になっている。

 「映画を塗る仕事」展では、スタジオジブリ作品で実際に使われたセル画や設定資料、その他様々なものが展示されている。この記事では、そのなかで宮崎駿監督の代表作といえる二つの作品『となりのトトロ』(1988年)、『もののけ姫』(1997年)をとくにピックアップして、実際の作品を振り返りながら、色彩とジブリ作品の関係について考えていきたい。

■『となりのトトロ』(1988年)使用色数:308色

 公開より30周年を迎えた『となりのトトロ』。地上波ではこれまでに16回も放送していることもあり、日本人のかなりの数が複数回視聴し、スタジオジブリの象徴ともなっている作品だ。

 1988年は『火垂るの墓』と『となりのトトロ』、二大監督の代表作が同時上映された年だった。この本当の凄さが広く理解されるのは、その後大ヒットを記録した『魔女の宅急便』(1989年)以降、スタジオジブリ作品が国民的な存在として定着した後年のことになる。『となりのトトロ』は、時間をかけ多くの視聴者の目に触れることにより、その真価が広く浸透していったといえるだろう。

 このような作品は、同様に国民的であり世界でも愛される黒澤明監督作がそうであるように、あまりに有名な存在になってしまったからこそ、新鮮な目で評価しにくい部分がある。だがあらためて『となりのトトロ』を、現在の様々なアニメーション作品と同列に置いて比較検討してみると、その凄まじいほどの完成度はもちろん、自由な感性と思慮深さに圧倒されてしまう。

 『となりのトトロ』の異様ともいえる完成度の高さの理由は、これがかつて高畑、宮崎コンビによる傑作『パンダコパンダ』(1972年)の要素の多くを引き継いでいることで、部分的に説明がつく。明快で楽しい、そしてほろりとさせる娯楽作のベースに、新たに人間と自然の関係という現代的テーマ、男鹿和雄による美術や、豪華な作画スタッフによる、より繊細な職人的技術を加えることによって、『となりのトトロ』は、明快な楽しさを保ったままで、あらゆる部分において奥行きを増した『パンダコパンダ』強化版になっている。

 美しく描き込まれた背景が自然の条件によって変化を見せるのと同じように、キャラクターたちも時刻によって、その色が変貌する。「映画を塗る仕事」展では、日中のノーマルな色指定、黄昏色、夕方色など、微妙な時間の違いによって細かく色が選び直されていることが分かる。暗くなるのに従ってただそのまま色の彩度が落ちていくのでなく、例えば夕方から灯がともる時間に変わると、ネコバスの色に本来なかったグリーンが混じる。こういう工夫によって、キャラクターがそれぞれの場面でより美しく映えるように、観客の感情を揺さぶる効果を与えるのだ。

 よりリアリティを重視して色を選ぶ高畑監督に対して、宮崎監督は現実の色味よりも鮮やかな色彩を好むということも、展示内容で確認できる。それが好対照を成したのが、このときの『火垂るの墓』、『となりのトトロ』同時上映だった。

 駅の構内で、親を失った少年が便にまみれながら衰弱死するところを、行き交う大人たちが助けようとせず通り過ぎるという痛ましい『火垂るの墓』のオープニングは、当時駅舎で実際に見られた、浮浪孤児たちが死んでいく光景を、原作や資料などをもとに再現したものだ。その悲惨さを克明に表現するために、色彩を含めて真に迫るリアリズムが不可欠であった。

 対して『となりのトトロ』は、母親が入院して寂しい思いをする姉妹の心情や奇跡を、ファンタジックに描く作品だ。不思議ないきものトトロとの出会いや、魔法のような出来事など、どこまでが現実でどこまでが姉妹の創造したまぼろしなのかが曖昧な位置に置かれた物語は、空想力が人間を助けてくれるというテーマを負っているように感じられる。色彩もそれによって、やはり現実よりも輝いていなければならない。

 宮崎監督は理想化された世界を描くことで子どもたちに仰ぎ見るような希望を与え、高畑監督はより現実的な世界を描いて、子どもたちの足元と地続きな希望を用意する。後年になってその違いはさらに明確化されていくが、その作家性の違いが色彩表現によって、ここで暗示されているところが面白い。

 作品の質にこだわるスタジオジブリでは、監督と色指定のスタッフとは綿密な確認作業や相談が行われるが、色を選ぶということは、ただ好き嫌いや直感的センスだけではなく、さらに職人的な技術の結果だけというわけでもなく、作家の中にある哲学が深いところで息づき、それら全てが渾然となって色彩に反映しているのだ。

■『もののけ姫』(1997年)使用色数:580色

 いまでは、ほとんど全てのスタジオがデジタルによる彩色に移行しているが、アニメーションといえば、かつて「セル」と呼ばれる透明なシートに、仕上げスタッフが筆と塗料で一枚一枚色を塗っていくのが一般的だった。スタジオジブリも、この『もののけ姫』を最後にデジタルへの移行を果たしている。それだけに、このような従来の手法が使用されているこの作品は、これまでのジブリ作品の技術を総動員した、ひとつの集大成となっている。そこでは、色指定や仕上げなど、女性を中心とするスタッフたちが、宮崎監督の意図と、全体の統一感との妥協点を探りながら作品に彩りを加えていった。

 東映動画時代からの「戦友」であり、『となりのトトロ』でも活躍した保田道世は、ここでは色彩設計を務め、既成の色に加え、独自にブレンドして色数を増やしながらひとつひとつをナンバリングし、膨大なカラーサンプルを作成して宮崎監督と議論しながら、重要な色を決定していく。リアリティを目指した配色であっても、現実に近い色を選べば正解というわけではなく、それが作品の中で現実感を持っていることが重要だという。例えば水の表現では、水量が多いと大きな一つの物体として色付けをして、少なければ背景に影響された色を指定するというように、ここでは職人的経験による、アニメ特有の「ものの見方」が必要になる。

 今回の展示におけるハイライトの一つが、実際に使用されたタタリ神のセル画である。一部CGを使用してはいるが、ヘビのようにうねうねと絶えず動き続けるパーツを、さらに部分ごとに色を分け、実際に彩色しているのは、膨大な量の手作業をこなしたスタッフたちである。ここに特殊効果としてエアブラシでムラを作ったり、さらに“かすれた”ニュアンスを入れることで、タタリ神の“まがまがしさ”や人間への強い怒りが強調され、登場時のスペクタクルを醸成しているのだ。

 『もののけ姫』の物語やキャラクターのベースには、宮崎駿本人による絵物語『シュナの旅』(1983年)があり、また原案の一部にはウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』からの影響が見られる。ここでは、人間と自然との関係が変化する転換点となる一大事件のなかで、様々な思惑が絡み合い拮抗するただ中に踏み込んだ、呪われた青年の冒険が描かれる。

 90年代後半、バブル崩壊後の陰鬱と、災害や凶悪事件など暗い時代の気分が作品に影響し、多くの矛盾と問題が山積する困難な時代に放り込まれる子どもや若者たちの運命を暗示させるような物語は、『となりのトトロ』ほどの完成度には及ばないと感じさせるが、それは、答えが出ない問いを描くことに果敢に挑戦した結果でもある。『となりのトトロ』よりも色数が大幅に増加しているのは、上映時間の長さの影響もあるが、テーマがより複雑になっていることで、表現するものが多くならざるを得ないという事情もあったはずだ。

 『もののけ姫』は、190億円を超える興行収入を記録する特大ヒット作となったが、その主要因が何だったのかは、いまだにはっきりしない。宮崎監督が公開当時、「自分が何を作ったかということを、総括し終わってないんです」と語ったように、そこには得体の知れない何かが潜んでいたように感じられる。

 そしてそれが先鋭化されていくことで、本格的にデジタルへと制作環境が変化した『千と千尋の神隠し』(2001年)、『崖の上のポニョ』(2008年)の持つ“ただならなさ”へと結実していき、短編『毛虫のボロ』(2018年)では、作画にCGをとり入れた制作に挑戦していくこととなる。その意味で『もののけ姫』は、宮崎監督の作家としての第2のスタートとなる作品だったように思える。

■セル画の背後に存在する魂

 「映画を塗る仕事」展では、宮崎監督が影響を受けたという、二つの作品のコピーが展示されている。一つは、高畑監督も参考にした、ロシアのイワン・ヤコヴレーヴィッチ・ビリービンによる、昔話絵本の挿絵だ。限られた色数でも、美しく複雑な世界を表現することに成功しているそのヴィジュアルは、水の表現や農村の風景、高台から見下ろした構図など、まさに宮崎アニメを髣髴とさせる。

 もう一つは宮崎監督がロンドンのテート・ギャラリーで出会った、ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの絵画『シャーロット姫』である。自然が美しく描かれた背景に映える鮮やかな人物と、水の表現のリアリティ。それぞれが理想的に調和した画面は、宮崎監督が理想とするヴィジュアルだったのだという。しかし、これだけのクォリティで細かいニュアンスをアニメーションで表現することは、少なくとも現在までのアニメーションの技術では不可能だといっていいだろう。

 ビリービンの絵本の挿絵は、ある種の制約に縛られることで生まれる美しさが存在し、だからこそ同様の制約が存在するアニメーションに応用されたわけだが、もし可能ならば『シャーロット姫』のような、より詳細な世界を表現する夢を宮崎監督は持ち続けているはずだ。『となりのトトロ』や『もののけ姫』では、詳細に描き込まれた背景美術によって、一部その試みは成功しているが、動画で表現されるキャラクターについては、技術的な問題から、どうしても妥協せざるを得ない。宮崎監督がCGによる制作に興味を持ったのには、そのあたりの理由も大きいのではないだろうか。高畑監督もやはり、『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)や『かぐや姫の物語』(2013年)などによって、いままでの制約から脱却を図ってきた。

 つまり、創造性と職人的技術の結晶であるジブリ作品の数々は、より高い理想を持った高畑監督や宮崎監督にとって、それでもまだ中継地点に過ぎなかったことになる。逆をいえば、その作品ごとの手法が、当時のスタジオジブリにとって、最高の結果を出すことのできる最新形だったということだ。

 もし宮崎監督が、今の時代に若い新人として出現したとしたら、やはり現状で最も優れた表現方法を選ぶはずだ。だいぶ以前から、「ポスト宮崎駿」という話題がささやかれているが、その意味では、表面的にジブリ風の手法を再現するような作品よりも、より新しい手法に挑戦するスタジオの方が、本質的に宮崎駿に近いといえるだろう。真の意味での「ポスト宮崎駿」は、必ずしも日本国内から出てこなければならないわけではない。

 受け継ぐべき魂とは、表面的なヴィジュアルでなく、その背後に存在する高い志にある。そして、今回展示された作品たちには、間違いなくその魂がこもっている。三鷹の森ジブリ美術館に足を運び、実際に使用されたセル画などを直接見ることで、そのことを確かめてほしい。(小野寺系)

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