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THE YELLOW MONKEYがライブバンドとして成し遂げた偉業 現場スタッフが明かす、90年代の最盛期~解散までの舞台裏

リアルサウンド

19/12/3(火) 20:00

 THE YELLOW MONKEYが「日本が世界に誇る、最高峰のライブバンド」であることは、一度でも彼らのステージを観たことがある者ならご同意いただけるはずだ。90年代に彼らの魅力にハマった人のみならず、2016年の再集結以降に彼らを知った者(そこには、2001年からの“空白の15年”の間にTHE YELLOW MONKEYと出会った後追いリスナーも含まれる)まで、その中毒性の高いライブサウンドとステージパフォーマンスにほんの一瞬でも生で触れたら最後、「また観たい!」とリピーターを増やし続けてきた結果、THE YELLOW MONKEYというライブバンドが持つパブリックイメージが形成されたと言える。

参考:THE YELLOW MONKEY「DANDAN」は、バンドの30年間を振り返る楽曲に? 映像作家・山田健人によるMV&楽曲から考察

 事実、彼らは2016年の再集結以降、いくつもの全国ツアーを行っている。ライブがバンドを作るというごく当たり前の行為を経て、THE YELLOW MONKEYは再集結から3年以上もの歳月を経てニューアルバム『9999』を完成させたのだから、いかにライブやツアーという活動がバンドを成長させるうえで必要不可欠な要素であるかが伺えるだろう。

 THE YELLOW MONKEYは現メンバーでの初ライブから30周年を迎える記念すべき日、2019年12月28日からナゴヤドームを皮切りに全国ドームツアー『THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary DOME TOUR』を開始。年明け2020年4月4日、5日の東京ドーム2DAYS公演をもって、再集結以降の“シーズン2”にひと区切りつける予定だ。リアルサウンドではこのツアーを目前に、90年代から現在に至るまでバンドを内側から支えてきたスタッフ、全国各地でツアーをサポートしてきたイベンタースタッフの証言を交えつつ、「ライブバンドTHE YELLOW MONKEY」の魅力に迫るコラムを計2回にわたり掲載。その第1回目となる今回は、バンドのデビュー前夜から活動休止前最後のライブとなった2001年1月8日の東京ドーム公演までの10数年で、THE YELLOW MONKEYがどのようにして最強のライブバンドへと成長していったのか、その秘密に迫る。

■La.mamaから武道館へ ~セールスが動員に追いつくまで~

 吉井和哉(Vo/Gt)、菊地英昭(Gt/以下、エマ)、廣瀬洋一(Ba/以下、ヒーセ)、菊地英二(Dr/以下、アニー)の4人が勢揃いし、当時のホームグラウンドだった渋谷La.mamaで初ライブを行ったのが1989年12月28日のこと。この日をバンドの誕生日として、これまでもこの日は『メカラ ウロコ』など印象的なライブが行われてきた。

 当時、La.mamaの店長としてTHE YELLOW MONKEY結成前からメンバー4人と接してきた、株式会社BAJの大森常正氏はこの頃を振り返り「当時、元KILLER MAY(エマ、アニー)、元URGH POLICE(吉井)、元MURBAS(ヒーセ)と、すでにおのおの人気があったので、最初からお客さんは多かったけど、ライブで曲を聴くと何がやりたいのかよくわからなかった(笑)」と語る。

「それはテクニック的なところで追いついていないのと、吉井がやりたいことをほかの3人があまり理解できていなかったのも大きくて。目標が見えなくて、なんとなくやっていたんでしょうね。だけど、1991年にインディーズ盤の『BUNCHED BIRTH』を作ったとき、1曲ずつ詰めていくことでメンバーが理解できるようになった。そうすると、お客さんも「ああ、そういうことだったんですね」と理解が追いつく。僕もそうでしたもの。そこから一気に、人気がポンと上がりましたね」(大森氏)

 メジャーデビュー時からライブ制作に携わり、THE YELLOW MONKEYのステージを見守り続けてきた株式会社ソーゴー東京の倉茂得光氏も、メジャーデビュー直前のショーケースライブ(1992年4月14日、渋谷CLUB QUATTRO)で初めて観た彼らのライブの印象を教えてくれた。

「クアトロってステージが高いじゃないですか。で、彼らもタッパがあって、しかも派手で濃いメイクをしていたので『なんやこのバンドは!?』とびっくりして、あっけにとられた事を思い出します。なかなかいそうでいないタイプのバンドだなとも思いました。でも、このライブがきっかけとなってメジャーデビュー後一発目のライブであるON AIR(1992年7月30日、現在のTSUTAYA O-EAST)につながって、僕もイベンターとして正式に彼らのツアーを手がけることになるんです」(倉茂氏)

 1992~1994年頃のTHE YELLOW MONKEYは決してCDセールス面で恵まれていたわけではなかった。しかし、一方でライブバンドとしての彼らは地道なライブ活動が功を奏し、1993年には日本青年館や中野サンプラザ、1994年には渋谷公会堂や大阪厚生年金会館など各地でホール公演を成功させ始める。筆者もこの頃、初めてTHE YELLOW MONKEYのライブを体験するのだが、それがのちに映像作品化もされた1993年6月19日の日本青年館公演『Life Time・SCREEN~追憶の銀幕~』だったことも非常に大きなインパクトを残す結果となった。

「今だったらLEDスクリーンやプロジェクターを使った映像演出は当たり前ですけど、当時はそういうものがなくて。それこそステージ前に紗幕を垂らして、フィルム映写機を使って映像を流していた時代。あの日本青年館はそこから『MORALITY SLAVE』でライブが始まるんですが、幕が開くと袋をかぶったトップレスの女性2名が十字架に張り付けられているという濃い演出で(笑)。案の定、お客さんはドン引きだったんですが、今となっては記憶に残るライブですよね」(倉茂氏)

「のちにMarilyn Mansonが登場したとき、ステージ上で竹馬に乗る演出があったじゃないですか。あれについて吉井と話したとき、本当はこういうこと、やりたかったんだよね。『先にやられちゃったなあ』と言っていたことをよく覚えています。絶対先に思いついているんだけど、お金もなかったしどうにもならなかったから。そういう演出に関するアイデアは、かなり早い段階から吉井の中にあって、それをステージ制作にかけられる予算が増えるにつれ少しずつ実現させていったわけです」(大森氏)

「吉井の頭の中、メンバーの頭の中、マネジメントの大森さんの頭の中にあるものをバンドと話しながら決めていったんでしょう。そういった演出やライブの様子が見事に口コミで広まり、動員拡大につながっていったのかな。特に『jaguar hard pain』の時期は、1枚のアルバムで3ツアーを行っているんですよ。あの作品自体がコンセプトアルバムでしたし、まるでドラマでも観るかのように『次の展開はどうなるの?』と話題になった結果でしょうね」(倉茂氏)

 そんなTHE YELLOW MONKEYにとって大きな転機が訪れる。1995年2月リリースのメジャー4thアルバム『smile』が初のチャートトップ10入りを果たし、『TOUR ’95 “LOVE COMMUNICATION”』の一環として同年4月11日に初の日本武道館公演を敢行。見事ソールドアウトを達成させる。

「『smile』あたりからCDも売れ出したのかな。それまでは、THE YELLOW MONKEYってCDはあんまり売れてないけどライブは入るよねっていうイメージでした。でも、本人とは話したことはないですけど、実はあの頃の吉井は『jaguar hard pain』の決着は武道館でつけたい、という思いもあったんじゃないかな。だけど、こちら側が武道館のスケジュールを出せなかった。メンバーもすごく悔しがってましたよ。『jaguar hard pain』を武道館で日の丸の下でやることは、意味合いとしてはかなり深いものがありましたし。そこから『smile』でセールス的にも合格点に達して、武道館も即日完売。大きな転換期でしたね」(倉茂氏)

■転機となった1995~1999年のツアー

 1995年はTHE YELLOW MONKEYにとって大きなターニングポイントとなった。先のアルバム『smile』のヒットに加えて初の日本武道館公演の実現、「追憶のマーメイド」や「太陽が燃えている」といったヒットシングルの誕生に加え、この年2作目のアルバムとなる『FOUR SEASONS』(1995年11月発売)が初のチャート1位を獲得。音楽面でも初期のグラマラスで若干難解なロックナンバーから、ストレートでわかりやすい作風へとシフトチェンジしており、こうした要因がライブバンドとして武道館まで到達したTHE YELLOW MONKEYをCDセールス面も右肩上がりへと導く、ターニングポイントの1年だった。

 現在バンドのマネジメントを手がける株式会社TYMS PROJECTの青木しん氏が初めてTHE YELLOW MONKEYと関わるようになったのも、この頃のことだ。

「1995年秋、確か群馬での学園祭だったと思いますが、当時ソーゴー東京のスタッフとして現場に付きました。そのときに初めて彼らのライブを観たんですが、映像とかテレビとかのイメージとはだいぶ違うなという印象を受けて。『こんなにシンプルなんだ』というのが第一印象でした。シンプルというかロックなんだなって」(青木氏)

 1996年に入るとシングル「JAM」や「SPARK」のメガヒット、全43公演におよぶ全国ホールツアー『TOUR ’96 FOR SEASON “野性の証明”』、以降恒例行事となる12月28日の『メカラ ウロコ』初開催と大きなトピックが続く。レーベル移籍を経てシングル「楽園」の大ヒットや、1997年にはメジャー6thアルバム『SICKS』のチャート1位獲得、キャリア初となる全国アリーナツアー『ARENA TOUR ’97 “FIX THE SICKS”』(全20公演)や初の野外ツアー『TOUR ’97 ~紫の炎~』(全5公演)と活動規模を広げ、1998年にはシングル『球根』&メジャー7thアルバム『PUNCH DRUNKARD』のチャート1位獲得、今や伝説となった113本におよぶ1年がかりの全国ツアー『PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99』(1998年4月~1999年3月)開催と、ロックバンドとして頂点に達しつつあった。

 この時期のツアーについて各地イベンタースタッフに思い出を聞くと、それぞれ興味深い回答を寄せてくれた。

「『野性の証明』ツアーはとにかく四国全県でやりたかったので実施できて良かったです。前年の松山に次いで高知、徳島、高松は初めて行くところばかりで、こちらの意図も組んでくれたと思います。特に高知は土地柄的にロックバンドには寛容な土地なので、すごい盛り上がりだったのを覚えています。メンバーも各地各地を楽しんでいたように思います」(株式会社デューク 西村氏)

「1996年の『野性の証明』ツアーのとき、旭川公演の翌日が札幌でした。そこでせっかくだから早めに札幌入りして、リハーサルの前に某人気ラーメンを食べに行こうって話になったんです。でも急遽テレビの収録が入り、リハの時間が早まって行けなくなってしまった。仕事だから仕方がないけど、楽しみにしてたメンバーは僕に恨み節ですよ(笑)。そこでなんとかしてあげたいと思い、次のツアーではお店からドンブリや店員さんのユニフォームなどをいろいろと借りてきて、楽屋に暖簾も下げて、スタッフがお土産用の生ラーメンを調理してふるまったんです。それをみんな喜んでくれて、その後のツアーでも楽屋ラーメンは続きました」(株式会社マウントアライブ 山本氏)

「再集結前の制作的な思い出では、1997年3月『FIX THE SICKS』ツアー仙台市体育館での、運んでも終わらない数のテレビモニターと、1997年8月『紫の炎』ツアーのオープニングの保冷車と、ステージセットとして使用された津軽のねぶた絵です。ライブの内容もほんとうに大好きなツアーでしたが、1997年は特に濃い年だったので印象に残っています」(株式会社ジー・アイ・ピー 菅氏)

「1997年の『紫の炎』ツアーが福岡では、今ではアウトレットモールになっている西区のマリノアというところで催されたのですが、圧巻でした。当時では考えられないほどの規模感で、THE YELLOW MONKEYの大きさが青臭い自分には衝撃的でした」(株式会社ビッグイヤーアンツ 尾嶋氏)

「野外ツアーの『紫の炎』では名古屋に適当な会場がなく、ようやく見つけたのが国際展示場の駐車場を使ってライブをするという発想でした。でも、駐車場なんかで興行をするのはサーカスだけだと断られ続けたのですが、それでも頑張ってアピールし続けたら、大森社長が『メンバーはもうその期間はオフにしてあるけど、もう一度説得してみるわ』と言ってくれて、メンバーも僕の熱意と誠意(?)にほだされて、最後は首を縦に振ってくれたと聞いてます。僕のイベンター人生の中の一番のターニングポイントにもなったと思います」(会社名 株式会社サンデーフォークプロモーション 遠藤氏)

 大森氏、倉茂氏、青木氏にとっても、この時期のライブは特に記憶に残るものが多いと話す。

「『FIX THE SICKS』は僕も強く印象に残ったツアーでしたね。『jaguar hard pain』ぐらいまでは楽曲がちょっと複雑なので、あんまり大きいステージで映えないというか、ライブハウスに合ったサウンドだった。それが『smile』を作って武道館を経験して、大きいところでやるべき曲を作れるようになった。だから、『SICKS』のときはすごく大きいところでやるために作ったわけではないんでしょうけど、結果アリーナ映えする曲が揃っていたのかな。ツアー自体もステージにある程度予算をかけられるようになって、バンドがやりたいことが実現するようになったし、100人ぐらいいるツアースタッフ全員で目的が共有できるようになった最初のタイミングですしね」(大森氏)

「『FIX THE SICKS』のときは入社して1、2年目だったので、当初はついていくのが精一杯。なので、ライブがどうこうというよりも目の前で見ていることが当たり前のTHE YELLOW MONKEYの姿でした。だから、『PUNCH DRUNKARD』ツアーについて暗いとか過酷だとかいう声が多いですが、僕は普通にいいライブじゃんという印象がすごく強かった。もちろん裏でいろいろあったのは知っていましたけど、ステージ上ではそれこそシンプルなロックンロールバンドとして、ホールだろうがアリーナだろうがきっちりやれているという印象がありました」(青木氏)

「バンド的には『野性の証明』ツアーから始まって、アリーナツアー『FIX THE SICKS』、その後の『PUNCH DRUNKARD』ツアーがターニングポイントになったんじゃないかな。その間には、初年度のフジロックもありましたしね」(倉茂氏)

■伝説のフジロック、そして東京ドームへ

 90年代後半のTHE YELLOW MONKEYのライブを語る上でどうしても欠かせないのが、1997年7月26日、富士天神山スキー場で初開催された『FUJI ROCK FESTIVAL ’97』でのステージだろう。台風が押し寄せる悪天候の中、ヘッドライナーのRed Hot Chili Peppersと当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったRage Against The Machineに挟まれる形で、セミ・ヘドライナーとしてフェスに参加したTHE YELLOW MONKEYは洋楽ロックファンを前に濃厚なセットリストを展開。しかし、ここでのステージがその後の活動に暗い影を落とす一因となったと、メンバーから語られることも多い。

「いろいろ言われましたけど、僕はあのライブパフォーマンスはカッコいいと思いましたけどね。Rage Against The MachineのあとにやったTHE YELLOW MONKEY。映像で観ると、びっくりするぐらい盛り上がってないですけど(笑)」(青木氏)

「フジロックはメンツがメンツだったので、考えに考えた末の選曲でしたけど、そこに台風が加わってアウトになっちゃったという。ただ、あとから映像で観ると別にライブ自体は悪くないし、ステージ袖には海外アーティストがみんな観にきていましたから。ただ、お客さんのダメージがひどすぎて、『この土砂降りでそれかよ!』みたいな。僕も『日本代表なんだから』と散々煽ったのも悪いんですけどね。あとからメンバーにも『勘弁してよ、Rage Against The Machineのあとにやる身になってみろ!』って怒られましたけど(笑)」(大森氏)

 こういった経験に加え、113本におよぶ『PUNCH DRUNKARD TOUR 1998/99』を1999年3月に終えたバンドがツアーを再開するのは、2000年春の『SPRING TOUR』(全10公演)まで待たねばならなかった。この頃になると、THE YELLOW MONKEYは「バラ色の日々」「聖なる海とサンシャイン」「SHOCK HEARTS」といったシングルで初めて外部プロデューサーを迎える実験に挑み始める。また、『SPRING TOUR』においてもこれらの楽曲を演奏する際にはシーケンサーと同期した演奏に取り組むなど、新たな試みが多数見受けられた。

 大森氏、倉茂氏、青木氏は当時バンドが置かれた状況と照らし合わせ、この時期を振り返る。

「やっぱり『PUNCH DRUNKARD』の頃と比べて、ひとつ変わった感じはありました。でも、結局そこで終わってしまったので……。よく覚えているのは、この頃の移動中に吉井から『パール』のデモを聞かされて。あの曲は吉井が自分でプロデュースしましたけど、『これ、売れるかなあ?』って当時イベンターの僕に聞いてきたんです(笑)。メンバー的にもそういう迷いがあった時期だったんでしょうね」(青木氏)

「『SPRING TOUR』はアルバムありきのツアーじゃなかったし、葛藤の時期だったんじゃないかな。その後のTHE YELLOW MONKEYの魅せ方とかライブのあり方を模索したツアーでもあったので」(倉茂氏)

「2000年の3月にはもう活動休止の話は持ち上がっていたんですよ。その中で『SPRING TOUR』をやらなくちゃいけなかったので、バンド活動を続けること自体が容易ではなかった。かつ、7月にはアルバム『8』のリリースも控えていて、4人で一緒の方向を見ることができなくなっていたところもあって。リハーサルやプロモーションなどの現場では緊張感が強すぎて、ちょっと入っていけない雰囲気もありました。ただ、『SPRING TOUR』やその後の『メカラ ウロコ・8』のライブの内容はすごくよかったと記憶しています」(大森氏)

 上記のとおり、2000年7月にメジャー8thアルバム『8』をリリースすると、翌2001年1月に大阪ドームと東京ドームで『メカラ ウロコ・8』と題した初のドームライブを行うことを発表。しかし、ライブを目前とした2000年11月に、東京ドーム公演を最後にバンドは活動休止することが発表された。

「大阪ドームも東京ドームも初、チケットがソールドアウトしてから活動休止を発表したんですよ。普通は活動休止を発表して、ネタとして口コミで広まってから券売することが多いんですが、売り切ってから活動休止を発表したところにバンドの思いが伝わってきました。特に東京ドーム公演はメンバーも緊張していて、そのときのことをよく覚えていないと言いますけど、それは僕も一緒で。そんな中で一番印象的だったのが、最後の吉井のMCと原点である『WELCOME TO MY DOGHOUSE』を演奏したことかな」(倉茂氏)

「メンバーはストイックにやっていたと思います。ファンの間では東京ドームの休止ライブはつらくて観ていられないとか嫌だとかいう声も多かったですけど、僕の中ではライブの完成形を見た気がするんです。暖かみはないのかもしれないですけど、やっと完璧なライブを最後の最後でできてよかったね、みたいな気持ちは強かったですね」(大森氏)

 2001年1月8日を最後に、バンドは長い活動休止期間に突入。2004年7月7日には正式に解散を発表することになるが、メンバー4人が2016年1月8日に再びTHE YELLOW MONKEYとして再集結を宣言するまでに15年もの歳月を要することになる。

(後編へ続く)(西廣智一)

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