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大河ドラマ再開が待ちきれない! 今村翔吾『じんかん』で松永久秀を追いかけよう

リアルサウンド

20/7/30(木) 10:00

 タイトルの「じんかん」とは人間のことであり、「人と人が織りなす間。つまりはこの世(p.114)」のことを指す。今村翔吾著『じんかん』(講談社)は、稀代の悪人と呼ばれた男、松永久秀の生涯を、大胆な新解釈で描くと共に、不条理に満ちた乱世を懸命に生きる人々の業と夢を描き切った、509ページにも及ぶ超大作である。

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 まず、509ページという分厚さに怯む人もいるのではないだろうか。そこはまず、『羽州ぼろ鳶組シリーズ』(祥伝社)、『くらまし屋稼業シリーズ』(ハルキ文庫)等人気シリーズを執筆し、『童の神』(角川春樹事務所)に続いて本作も直木賞にノミネートされた、今乗りに乗っている時代小説作家、今村翔吾のエンターテイメント性を信じるべきだ。手を止めることもできずに一息で読んでしまうに違いない。大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)の放送再開が8月30日に決定したが、あと1カ月もある、どうしようかと落ち着かない大河ドラマファンにお薦めしたい一冊でもある。

 松永久秀と言えば、『麒麟がくる』で吉田鋼太郎が怪演している豪傑。主人公・明智光秀を面白がる、ワイルドでキュートなオジサマといった感じで、『麒麟がくる』の世界を登場するたび掻きまわしている吉田・久秀とは一風違った、物静かで凛々しい立ち姿の本書における久秀像は、意外ではある。だが、ドラマでは描かれない久秀の謎に満ちた少年期や、久秀の側から見た同時代の描写が非常に面白い。

 松永弾正少弼久秀は、織田信長に「この男、人がなせぬ大悪を一生の内に三つもやってのけた」と言わしめた男である。世に言う「三悪」だ。三悪とは「主君の暗殺」「将軍の殺害」「東大寺大仏殿の焼き討ち」のこと。この「三悪」の裏に隠された真相を読み解くことで、今まで見たことがない、松永久秀の姿が浮かび上がってくる。

 松永久秀が史実に登場するのは祐筆として三好長慶に仕えた頃からだ。出生には諸説あり、どれも定かではない。本書が史実に追いつくのは、「三悪」の真相に迫る後半部分に過ぎない。だが何より面白いのが、ほとんどが創作である少年期を描いた前半部分である。

 過酷な体験を経て孤児になった久秀が出会う同じ年頃の仲間たち、そして初恋相手である日夏。師事したとされる茶人・武野紹鴎はじめ尊敬すべき個性豊かな大人たちに出会うことで、久秀少年はみるみる知識と教養、リーダーとして必要な素養を身に着けていく。また、「茶釜の中に火薬を入れて爆死した」という逸話の所以でもある伝説の茶釜「平蜘蛛」にまつわる複数のエピソードや、多聞山城の名前の所以など史実に由来する事象が随所に散りばめられ、後半部分に繋がる伏線として見事に活きているのもワクワクする。

 松永久秀が実際はどんな人物だったのかは謎であるが、「稀代の悪人」でありながら茶人でもあるというアンバランスさ、謎の多さにその魅力の大きな部分があり、本書による一つのアンサーには、「本当にそうだったのかもしれない」と思わせるロマンがある。

 戦国時代と現代は似ている。そう感じたのは、『麒麟がくる』と『じんかん』に共通する、閉塞した世の中を変えようとする“一厘”の人々の姿である。『麒麟がくる』における斎藤道三が、明智光秀に「これからを担う男」として織田信長の存在を示唆したように、『じんかん』においても三好元長が果たせなかった夢を、松永久秀が担い、やがて織田信長に託す。『じんかん』における“一厘”の人とは、『麒麟がくる』における、争いのない平らかな世を作れる者のみが連れてくることができる生き物“麒麟”を呼ぶことができる人に他ならない。

 「人は本質的に変革を嫌う(p.341)」。「本当のところ、理想を追い求めようとする者など、この人間(じんかん)には一厘しかおらぬ。残りの九割九分九厘は、ただ変革を恐れて大きな流れに身をゆだねるだけ(p.377)」と久秀が語るように、人々は簡単に流される。

 全ての民にとって「己を善と思い、悪を叩くことは最大の快楽(p.297)」なのだ。「民のための民による自治を」と邁進していた元長は、一向一揆で敵と見做され、皮肉にも民たちによって滅ぼされることになる。だがこれは、戦国時代に限った話ではない。現代にも繋がる。むしろ、SNSによる誹謗中傷で死者まで出てしまう現代そのものである。

 時代の転換期でありながら、人々が生きづらく、先が見えないために閉塞した空気が漂っている戦国時代はまさしく現代のそれだ。だからこそコロナ禍を生きる我々は、大河ドラマ中断直前の第21話次回予告におけるテロップ「本当に麒麟はくるのか?」を見て、切実に麒麟を待とうと思わずにはいられなかったのだ。

 では、一厘に過ぎないカリスマたちにしかできることはないのか。主君・織田信長による気まぐれの長話を恐れながら聞いている小姓・狩野又九郎という人物がいる。面白いことに、この松永久秀一代記は、織田信長を語り部として展開されるのだ。やがて邂逅した久秀は又九郎に投げかける。「夢に大きいも小さいもない。お主だけの夢を追えばいいのだ(p.505)」と。

 これは人間(じんかん)の物語であり、人間たちの物語だ。それぞれの果たせなかった夢を懸命に繋いで次に繋げた人間たちの証の物語なのである。

(文=藤原奈緒)

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