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『天気の子』が映すエンターテインメント産業の功罪 新海誠監督が選択したラストの意図を考える

リアルサウンド

19/7/28(日) 10:00

 ※本記事は『天気の子』のネタバレを含みます。

 無学なりに本を読んでいると「ハレとケ」という民俗学の言葉にしばしば出会う。柳田國男によって見出された概念で、ハレとは儀式や祭の特別な日、ケとは日常を意味する、らしい。歌舞音曲、芸能は言うまでもなくハレに属するもので、つまり今日、政治や経済を動かすまでに成長したエンターテインメント産業はいわば「ハレ」が産業化された姿であるわけだ。

参考:森七菜、『3年A組』で一躍ブレイク 『東京喰種2』『天気の子』話題作にも出演するその魅力とは

  新海誠監督の最新作劇場アニメ映画『天気の子』では、どんな天気も局地的に「ハレ」に変えることのできる少女、100%の晴れ女がヒロインとして登場する。映画は序盤に地方から家出してきた少年が東京で仕事にありつけず、あっという間に貧困化していく描写の後にヒロインを登場させ、この社会の中で彼女が瞬く間に人々から必要とされ、経済的、社会的に成功していく様子を描く。雨の中で描かれる無力な少年の貧困と、新海誠作品が得意とする、息をのむほど美しい自然描写で描かれる晴天の中の少女の鮮明な対比の中、少女はまるでアイドルがスターダムに駆け上がるように、美しい青空を求めるこの社会から求められ、それに答えていく。それは爽快なサクセスストーリーのように見える。

 しかしこの映画が少女のサクセスストーリーではなく、ある種の悲劇であることはすぐに明かされる。天候を変え、晴天をもたらすたびに、少女の体は蝕まれ、透き通るように概念化され、生身の身体性を失っていく。それはアニメやアイドルをはじめとするエンターテインメント産業のほぼ完璧な比喩に見える。「それは好きの搾取です」というのはドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)のクライマックス前の名台詞だが、ヒロインが“晴天ビジネス”を始める前に、ヤクザによって性風俗的なアルバイトに誘われかけていることを暗に示す描写、そして18歳になると年齢を偽っていたが実は主人公より年下の未成年であったことが明かされる結末など、『天気の子』は明らかに意図してエンターテインメント産業と少女の搾取をそのモチーフに組み込んでいる。

 世界的にとてつもない商業的成功を収めた『君の名は。』は、その規模に比例するかのように多くの批判にさらされた。是枝裕和監督からの批判(参考:邦画大ヒットの年に是枝裕和監督が「日本映画への危機感」を抱く理由)があり、SNSでは作品の男女の性の描き方についての批判が飛び交った。それは『君の名は。』の描写や構造が飛び抜けて問題だったというより、その巨大なヒットによって日本アニメの象徴を背負ったかのような批判に思えた。新海誠監督が村上春樹のファンであることはよく知られているが、10万部クラスの作家であった村上春樹が『ノルウェイの森』で突然300万部という巨大なヒットを記録し、その反動として多くの批判や敵意にさらされるようになった現象にも似ているように感じる(村上春樹はエッセイで『ノルウェイの森』がヒットした時、多くの人に憎まれ嫌われているように感じたと書いている)。

 『天気の子』について新海誠監督は「『君の名は。』で怒った人をもっと怒らせようと思った」という挑発的なコメントをメディア(参考:「『君の名は。』に怒った人をもっと怒らせたい」――新海誠が新作に込めた覚悟)で語っているが、僕にはむしろいくつかの批判に対しては誠実に耳を傾けているように思えた。『君の名は。』でアニメのお約束のように繰り出されたセクシャルなくすぐり描写は控えられているし(僕もいくらなんでもあんなに何回もおっぱいを確認しなくてもよかったと思う)、「東京のラブストーリーのために地方の災害を利用した」という批判についても、『天気の子』で東京を完全に舞台に絞ることで答えているように見える。神道に対して無批判に肯定しているという批判もあったが、今回の『天気の子』では同じく神社や巫女をモチーフにしながら、その『人柱』という人身御供的なあり方に対して少年が抵抗して行く構造になっている。それは過去から現代にも通じる日本批判にもなりえていると思う。

 もちろん『天気の子』についても、早くも記録している大きなヒットに比例するように多くの批判はある。今回の焦点はやはりラストの描写だろう。(ネタバレになってしまうが)晴天と引き換えに体を蝕まれて行くヒロインを救った代償として、東京には異常気象が続き、ついにはゆるやかな時間をかけて水没し、首都としての機能を失うことになる。それは『君の名は。』で隕石の衝突による地域社会の消滅を描いて批判を受けたことの裏返しにもみえる結末だが、「無責任だ」「セカイ系的な自意識のために社会を犠牲にしている」という批判はやはり出ている。新海誠監督と川村元気プロデューサー、野田洋次郎氏らの間で激論が交わされたことがツイッターで明かされ(7月19日公開の映画にも関わらず、ストーリーの議論をしていたのは6月末である。川村プロデューサーは生きた心地もしなかっただろう)あまりにも完成が遅れたためメディア向けの試写会も一切行われなかった。

 激論になるのはある意味で当然で、水に沈む東京というのはこの国において決して絵空事ではないからだ。多くの警告が出されているように、関東地方への大きな地震が予測されている。海抜の低い関東平野への水害も。関東だけではない。この映画の公開直前には九州地方を中心に大規模な大雨注意報が出された。最終的にそれは解除されたが、もしそれが過去にあった水害のように多くの死者を出す結果になっていた場合、この映画に対する社会の視線は否応なく今とまったく変わってしまっていただろう。宮崎駿の『崖の上のポニョ』の津波描写を311後に放送すべきかという議論もあったが(2012年になって放送された)、ジブリのような権威を背景にもたない若い新海誠監督はさらに指弾されやすい立場にいる。それでも新海誠監督はこの結末をどうしても選びたかったのではないだろうか。

 『君の名は。』で地方都市の消滅は、まるで美しい音楽と真夏の花火のような隕石の衝突によって祝祭的に描かれ、それが映画的なスペクタクルを生み、同時に批判も受けた。『天気の子』で描かれる東京の水没はそれに比べて梅雨のように憂鬱で、そしてリアルだ。それは経済的地盤沈下と少子化で沈んでいく僕たちの社会を否応なく想起させる。でもその沈む世界の中で生きていこう、という、恐らくは新海誠監督本人が反対を押し切って選んだ結末は、僕はそれほど悪いメッセージではないように思える。

 「『君の名は。』ではエンタメだったのに、『天気の子』ではいつもの新海誠監督に戻ってしまった」という冗談まじりの声もある。確かにそういう面はあると思う。今作の新海誠監督は『君の名は。』のように晴れ上がる青空のような結末を用意していない。物語の中のヒロインがそうであるように、彼もまた、国民的に待望される「100%の青空」、ハレのエンターテインメントを作るために何かを犠牲にすることをやめたのだ。でも僕は、それがかつての、梅雨のようにセンチメンタルな感傷主義に戻ってしまった、退行だとは思わない。少なくともこの映画で彼は、少年も少女も犠牲にすることを拒んだ。

 社会のために少女が死ぬ、あるいは少女の身代わりに少年が死ぬ、そして社会は続き、失った恋人への感傷を抱えた孤独が残る、という結末は選択肢の中にあったはずだし、それはむしろある種の定型的な悲劇として観客に受け入れられたはずだ。難病で恋人が死ぬ映画がどれほど作られているかを思えば、それは東京を水没させるという、何かあればそれこそ人身御供的に社会の怒りを向けられかねない結末より遥かにリスクの低い選択だったと思う。でも『天気の子』で新海誠監督が選んだ結末は、国民的映画として求められた「ハレ」のハッピーエンドとも、セカイ系的にセンチメタルな悲劇とも違う、少しだけタフな少年と少女の未来だった。新海誠監督が公開前からファイティングポーズを取るまでもなく、今回も観客の数に比例してあらゆる批判が降り注ぐだろう。「欺瞞的だ」「社会に意識が向いていない」という声もあるだろう。でも村上春樹がかつてイスラエルで演説した『壁と卵』、「どれほど壁が正しくても、小説家は壊れやすい卵の側に立つ」というあの有名な比喩に似たあのラストは、何度も繰り返されたいつもの梅雨や夏、ハレとケの構造とは違う、まだ僕たちが見たことのない新しい季節の始まりをこの国に呼ぶのではないかなと思う。 (文=CDB)

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