Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

キム・ギドク監督の死から考えなければいけないこと これからの映画界をより良いものにするために

リアルサウンド

20/12/30(水) 10:00

 2020年12月11日、韓国のキム・ギドク監督が新型コロナウイルス感染症によりラトビアの地で急逝した。ヴェネチア、ベルリン、カンヌの世界三大映画祭で、最高賞を含む賞を獲得したほか、世界中の映画祭を席巻した、規格外の映画監督である。

 これほどのキャリアを持つ映画監督の死去である。通常なら国を挙げて、その死を悼んだり、世界の映画界が大々的に弔意を示すはずだが、そのような動きはあまり起こってない。そればかりか、「私は追悼しない」と表明する著名人が複数現れるなど、異例の事態が生まれることになった。ここでは、そんな状況になった理由と、この事態が示す映画業界の問題について、彼の業績を踏まえながら振り返って考えていきたい。

 2020年は、『パラサイト 半地下の家族』が、アカデミー賞作品賞などを受賞した史上初の韓国映画となった年だった。その快挙を達成したのは、いまや韓国映画を代表する存在となったポン・ジュノ監督だが、それ以前から海外の映画賞で最も評価されていた韓国の代表的な映画監督といえば、キム・ギドクだった。とはいえ、彼は韓国映画界の発展とはそれほど関係なく、突発的に現れた異端的な存在だったといえよう。

 その作風はエキセントリックかつ鮮烈。『春夏秋冬そして春』(2003年)に代表されるように、暴力や性衝動という人間の“業”を、痛みとともに包み隠さずに描いた内容は、世界の映画祭で驚きを持って迎え入れられた。もともと画家を志してパリで活動し、映画製作についての知識があまりない状態で映画監督としてのキャリアをスタートさせ、当初はスタッフからバカにされることもあったというが、逆にそれが従来の映画演出の枠に収まらない異様な作風を生み出し、斬新さが衝撃を与えることとなったのだ。その受容のされ方は、日本でいえば北野武に似ている。

 例えば『うつせみ』(2004年)では、リアリティのある演出が続くと思いきや、荒唐無稽かつ魔法のようにファンタジックな映像表現が飛び出す。その突飛ともいえる演出は、映画の常識から外れていると同時に、映画ならではの表現にもなっていたといえる。

 また、街で見かけた女子大学生を暴力的に従わせ、罠にはめて売春宿で働かせる男を主人公とした『悪い男』(2001年)のように、男性の暴力衝動が女性に向かう様子を描くことも多い。だが意外にも、そんな暴力的な内容にもかかわらず、女性の観客にもファンが多かった印象がある。それはおそらく、『サマリア』(2004年)でも描かれたように、社会のなかで女性が受けている暴力というものを、見過ごさずにフォーカスしていたからかもしれない。

 しかし、そんな輝かしいキム・ギドク監督の評価が一変する事態が起こる。ハリウッドの大物映画プロデューサーだったハーヴェイ・ワインスタインの、度重なるセクハラや性的暴行が明らかになったのと同年、キム・ギドク監督も映画製作において、出演者に対する暴力やセクハラ行為で訴えられ、敗訴することになったのだ。

 それだけでは終わらず、さらに他にも2人の女優が性的暴行を受けたことを告発。キム・ギドク監督は、逆に名誉毀損だとして告訴したものの、そこでも敗訴することになった。この後、監督の行状が周囲の映画人によって暴露され、女優や女性スタッフに対して常習的に性的暴行やセクハラ行為をしていた疑いも出ている。

 敗訴した件だけでも致命的だ。監督という立場を利用して無理やりに女性に迫ったり暴行を繰り返すような行為をしていたとなれば、法的な問題はもちろん、道義的にも卑劣きわまりない。その後の映画製作や興行、賞の参加も困難なものとなるのは必定だったといえる。キム・ギドクの死去は、そんな状況が継続していたなかでのことだった。

 ここで、キム・ギドク監督作を今後どのようにとらえればよいかという問題が出てくる。作品は作品として、作り手と分けて考えればよいのか。それとも作品も一緒に断罪するべきなのか。そして、このような事態が起こった場合、作品の芸術的価値も失われてしまうのか。その答えは、映画の枠を超えた芸術論の領域に入るため、長い議論や考察が必要になってくるだろう。いま、その議論を始める前に、考えなくてはならないことは無数にある。

 ワインスタインの事件が明るみになったことが大きな契機となった、#MeToo運動の前後の時期には、ベルナルド・ベルトルッチ、ラース・フォン・トリアー、ウディ・アレン、松江哲明など、映画監督の過去の行動も取り沙汰され、強い批判を受ける事態となったように、このような問題はキム・ギドク監督だけの問題ではない。これら以外にも、ケヴィン・スペイシーやアンセル・エルゴートなどの俳優や、アップリンクなどの映画館などなど、映画界だけでさまざまなパワハラ、セクハラ、性暴力行為が存在していることが分かってきている。

 このようなケースを掘り出すと、映画業界、芸能界、ひいては社会全体に上下関係や社会的な立場を利用したハラスメントや暴力が蔓延していることを指摘せざるを得ない。この事実をもって、キム・ギドク監督を擁護する声もあるが、それは筋道が逆転しているのではないだろうか。社会の至るところにそのような暴力が存在するのであれば、それら膨大なケースを一つひとつ時間をかけて検証し、その内容に従って被害者を救済し、加害者に社会的な責任をとらせればよいだけではないか。

 「表現の自由」を盾にした擁護意見もある。暴力的な指導によって、芸術のために出演者の精神を追い込むことが熱意だとされる固定観念は、いまだに存在する。しかし、それは映画製作の役割における一部の人間の“自由”に他ならない。そのような自由を優先させるために、誰かの自由を著しく制限するようなことがあれば、それは「表現の自由」といえるだろうか。そして、そんなことをしてまで映画や芸術を作る権利や意義が、果たしてあるのだろうか。芸術の名を借りたとしても、表現をする人間自体は個人に過ぎないのである。

 私も含め、キム・ギドク作品を追いかけていた多くの観客や映画祭関係者は、このようなことが裏で行われていたことは、事態が明るみに出るまで知ることができなかった。彼の作品で描かれる暴力やエキセントリックな演出は、彼自身の欲望やコンプレックスなどが根底にあることは理解できていても、あえてそれを描くことで芸術として昇華したのだと思っていたところがある。だが実際には、その過程で欲望にまかせた暴力行為に及んでいたことが分かってきたのである。

 たしかにキム・ギドク監督には類まれな表現力があり、いまでも、その作品にはある種の芸術性が存在しているように思える。だが、同時に彼はそんな芸術や映画を利用して、自分の欲望にまかせ暴行をはたらいたのだ。映画を愛する者たちは、そんな彼の“自由”を守るのでなく、この行為が映画や芸術に対する裏切りだと認識するべきなのではないか。

 われわれがまず考えなければならないのは、映画業界を含めた社会のなかで、このような被害者が今後出ないようにすることであるはずだ。そのためには、事なかれ主義に徹して問題を覆い隠すのではなく、業界の問題をつまびらかにして、検証し直すことが必要だ。映画の歴史のなかで断罪すべきケースがあまりにも膨大な数にのぼるというなら、現在の問題を中心に優先されるべきケースから順にじっくりと考えていけばいい。

 キム・ギドク監督という存在を考えるとき、このような問題が発覚した以上、それを無視しながら評価することは、もはや困難である。少なくともいまは、彼の行動をきっかけに、社会を別の方向へ変えていくことが最もポジティブな見方ではないだろうか。死去によって、なあなあに終わらせるのではなく、きっちりと問題を糾弾する姿勢が必要なのではないのか。それが、大きな意味で未来の被害を防ぐことにつながるはずだ。

 キム・ギドク監督が持っていたようなきらめく才能を持った人々が、これからの時代、不当な暴力によって傷つけられず、同時によこしまな行為をすることが難しい状態に変えていくことが、これからの映画界をより良いものにし、良いかたちで存続していく鍵になるのではないだろうか。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む