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日本が存在しない世界、移民となった女性は旅をする 多和田葉子『星に仄めかされて』が描き出す、越境の物語

リアルサウンド

20/6/16(火) 10:00

 この世界は現実なのか、夢なのか。神話や昔話の世界と地続きではあるが、描かれているのは、恐らく遠い未来の話。国も時代も超越した「言葉」の探求を通して、現実と夢の間を彷徨い、自分自身のことさえよくわからなくなっていく彼らは、ムンンとヴィタが言う「あたしたちは、映画の中に住んでいる(p.20)」という言葉そのままに、本書においてなぜか頻繁に登場するラース・フォン・トリアー監督の映画の中の登場人物なのかもしれない。

関連:【画像】第1作『地球にちりばめられて』書影

 それでいて、性別も国も違う、個性豊かな登場人物たちが、時にコミュニケーションの齟齬に悩み、時に親子間のコンプレックスに悩みながらも、恋や友情を育みつつ、旅を進めていく姿は、その世界が例え「日本が存在しない世界」だったとしても、不変の共感に満ちていて、とても魅力的だ。

 3部作に渡る、Hirukoと愉快な仲間たちの摩訶不思議な「言葉」を巡る流浪の旅に同行できる、この本を手にとった読者は幸運である。

 この本とは、「いま最もノーベル文学賞に近い日本人作家」と目される多和田葉子の最新作、『星に仄めかされて』(講談社)だ。2018年に出版された『地球にちりばめられて』(講談社)に続く三部作のうちの第二部である。超少子高齢化社会と化した鎖国下の日本を描いた『献灯使』(講談社)で全米図書賞を受賞し、芥川賞はじめありとあらゆる賞を受賞しているドイツ在住の多和田が描く、国境を軽々と超越する新たな物語だ。

 ヒロインHirukoは、ヨーロッパ留学中に「母国の島国」が消滅してしまった女性だ。「母国の島国」は、「福井」や「出汁」、「鮨」といった言葉から、日本であると容易に推測できる。だが、「日本」、「Japan」といった言葉は一切登場しない。日本を母国としているHirukoやSusanooの回想によってのみ日本の光景は色鮮やかに示されるが、この物語の世界の人々のほとんどが、「世界地図から消滅してしまった国」である日本と日本語のことを忘れてしまっている。

 帰る場所を失ってしまったHirukoは、移民となって国を渡り歩いて生きるしかなくなり、その状況を生き抜くため、「パンスカ」という独自の言語を作り出した。その「パンスカ」に魅せられ、彼女の「自分と同じ母語を話す人間を探す旅」に同行するクヌート。クヌートに一目惚れした「性の引っ越し中」のインド人・アカッシュ、成り行きで日本人を演じていたエスキモー・ナヌーク、ナヌークの恋人・ノラ、そして、ある時から言葉を喪失する病気になり、歳をとることを忘れてしまった、恐らくHirukoと同郷人と思われるSusanooと、個性溢れる仲間たちが、「旅は道連れ」とばかりに、旅をすればするほど増えていく。

 さらには、クヌートとナヌークが実はクヌートの母親を介して思わぬ縁で結ばれていたり(前作『地球にちりばめられて』にて)、その母親の恋人が思わぬ相手だったりと、国境を越えた「世間狭っ!」と突っ込みたくなる出来事が多々あるのも楽しい。

 登場人物紹介の色が強かった前作よりもより人間関係が濃密になり、「多数の言葉をあびせかけるわりに、話したくないことはまだ何も話していな(p.275)」かった彼らの内面に本作はより迫っている。

 そしてそうさせたのは、喋らない男Susanooである。彼に翻弄されることによって、失われた母国に纏わるあれこれに対する美しい懐古や憧憬、純粋な言語への興味を媒介としたHirukoとクヌートの美しい関係といった「小奇麗なもの」の底にある、各々の「痛いところ」が曝け出されていく。また、人を傷つけまいとするあまり逃げてばかりのナヌークが、傍若無人のベルマー医師と性格を交換することで起こる痛快で滑稽なエピソードも見逃せない。

雨は立派だな。文句も言わずに、人間たちの足跡をぴちゃぴちゃ洗い流してくれる(『星に仄めかされて』第一章「ムンンは語る」,p.9)

 本作において最も魅力的な登場人物は、この物語の始まりと終わり、いや、前述した独白から物語が始まる第二部の骨格を担っている、皿洗いのムンンとヴィタだ。彼らは「ラ」を多用する独自の言語を使い、雨風星を慈しみ、映画とラジオを愛し、気の赴くままに歌い踊る。「純粋」を絵に書いたような存在だ。特にムンンは、障碍者であると共に、誰にも心を許さないSusanooが唯一「ツクヨミ」と呼んで心を許す存在だ。

 「Hiruko・Susanoo・ツクヨミ」と言えば、『古事記』や『日本書紀』に登場するイザナギとイザナミの子供たちである。HirukoがSusanooに誘導されて自分のことを話しているつもりが、海に捨てられた神話上の「ヒルコ」の人生と自分の人生を混同して話してしまったり、『鶴の恩返し』の鶴がイメージの中でHirukoと重なったり、竜宮城に行ったために「社会の時間の枠組みから外れてしまい」、老いることを忘れてしまった『浦島太郎』とSusanoo(Hirukoもまた同じ)が重なったりと、「失われた国」古来の物語は、「失われた」彼らの名前や人生に重層的に重なり、ちゃんと存在している。

 Hirukoが語る「おはよう」の温かく尽きることのない愛おしい記憶は過剰に熱を帯び、読者の心にいつまでも尾を引く。

 欠落してしまった、日本と思しきその島国の姿は、その世界では失われてしまっているからこそ、実に煌きに満ちている。まるで多和田が『雪の練習生』(新潮社)で描いた、ベルリン動物園で実在していたホッキョクグマ・クヌートの生の煌きが、実際には既に失われてしまった存在だからこそ余計際立つように、この物語に描かれている「日本」はどうにも捨て難いのである。それは警鐘であると共に、愛着でもあるように思う。

 彼らは「ためらわずに蛇行し(p.151)」ながら、旅を続けていく。それぞれの星を胸に抱いて、海へと向かう。第三部が楽しみでならない。

(文=藤原奈緒)

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