Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第13回:ストリートの成果から向き合うヒップホップの現実/リアル

リアルサウンド

20/10/12(月) 12:00

…今や誰もが口にするB-BOYS この街のKING、愛してるチーム RSC   変えていくシーン 君のはいてるジーンズやプーマ、アディの理由は何? ファッションばかりじゃまだ甘い オンリーワン オリジナル マネじゃなく スニーカーに有り金はたく さらに開拓 未知の可能性 君を誘うぜ…(「B」の定義/RHYMESTER featuring CRAZY-A)

 1970年、ビートニク詩人兼ミュージシャン、もしくは彼自身に倣うなら“ブルージシャン”のギル・スコット・ヘロンが「自分は医者代が払えない、白ん坊は月に/10年後にもまだ支払っているだろう、白ん坊は月に/なぁ、昨晩家賃が上がった、なぜって白ん坊が月に(拙訳)〈I can’t pay no doctor bill./(but Whitey’s on the moon)/Ten years from now I’ll be payin’ still./(while Whitey’s on the moon)〉」とアポロ計画について歌った。その「Whitey on the Moon」という曲がニューヨークやサンフランシスコのマリファナ紫煙の漂うビートニクカフェでお披露目された前年の1969年、アメリカ航空宇宙局(NASA)はニール・アームストロングとバズ・アルドリンを人類初の月面歩行に成功させたのだが、同時期、彼らとアメリカ国防総省、カリフォルニア大学ロサンジェルス校などが既に有名だったJ.C.R.リックライダーの論文を基に官民混成の巨大な軍事プロジェクトの一部としてネットワーク相互の情報シェアの研究を進めていた。

 一方、“TAKI183とペンパルたち“というグラフィティについての記事がニューヨークタイムスに掲載されるのは1970年、見渡すばかりの瓦礫のサウス・ブロンクスにあったプロジェクト(低所得者用巨大集合住宅)の娯楽室でDJ Kool Hercが妹のために慎ましいパーティを開いたのは1973年8月11日で、今ではヒップホップの誕生日として知られる。つけ加えるなら、後に映画『ロード・オブ・ドッグタウン』の基になった“ジェフ・ホー・サーフボード&ゼファー・プロダクション“のショップがサンタモニカで開店したのは1971年である。文字通り“ストリート“、つまり語義からしても“両側に建物の並ぶ道“、それら端的に閉ざされた空間の外部に身体を取り戻し持ち込むことで成立したスケートボーディングやヒップホップというストリートカルチャーは、現在インターネットとして知られるテクノロジーとカルチャーと並んで、公民権運動のある種の行き詰まりと同じ時の裡で宿された。

 1970年代末から80年代初めにそれぞれのカルチャーはニューヨークやワシントンで発達し成果をあげたが、ニューヨークの“ストリート”からの成果への反応についてのみ記すなら、1984年に刊行されたヒップホップに捧げられた2冊の書籍、つまり、後に長きに渡って雑誌『ハイ・タイムス』で編集を務めたスティーヴン・ヘイガーの『ヒップホップ』と左翼的なアーティストからジャーナリズムを手掛け始めたデヴィッド・トゥープ『ラップ・アタック』はグローバルに知られている。そういえば嬉しい驚きは、実はその先駆けになったヒップホップについての世界で最初の書籍は日本語で書かれ日本で出版された、カズ葛井が著し1983年の10月にJICC出版局(現・宝島社)からの『ワイルドスタイルで行こう』ではないかということだ。

 1990年代にはネットワーク相互の情報シェアから発展した“ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)”という考えに実際の形が与えられ、一方ストリート・カルチャーにはラップ、特にギャングスター・ラップの隆盛、またグラフィティのグローバルな離散が例えばヨーロッパの灰色の鉄道路線沿いや都市の景観を変えた様子を見ることができた。2000年代以降についてはここでは省くが、いずれにせよ、双方が宿された半世紀後の2020年代においてまで、インターネットはともかくとして、カルチャーとしてヒップホップを真剣に受けとっての討議はそれほど盛んになっていないというのは、ここ数年日本で出版されたヒップホップをめぐる対話を書籍化したタイトルを並べてみることで少し明らかになる――『ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門』(1)、『ラップは何を映しているのか――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』(2)。もしくは、“ポップカルチャーに何が起きたのか”と副題の付けられた『2010s』(3)の第2章“ラップ・ミュージックはどうして世界を制覇したのか”――こうしたいずれの対話も親しみやすい語り口調や適切な読み取りであるばかりでなく、例えば最後の『2010s』ではこのカルチャーの可能性を「すべてが政治化していった2010年代にあって」ラップが「コミュニティの音楽としてのヒップホップの役割」を果たすと同時に「ただラップというアートフォームはそうした地域や国や人種のアイデンティティを越えたところで今も世界中に拡大していて」との宇野維正氏の同章でのやりとりをいったん休止するに相応しい指摘もある。また、2020年代の日本で出版された“ラップ”についてのこうした幾つかの適切な言説は、デヴィッド・トゥープの画期的な『ラップ・アタック』(1984年)の延長線上にあることも間違いない。

 しかし、このささやかな連載読み物ではこうした優れてはいてもポップカルチャー、より正確にはヒットチャートのポップ音楽カルチャーの現況への眼差しからのみヒップホップについて記していくことに与しない。なぜなら、ヒップホップはストリートにて実践されたのであり、それはラップのみならず、DJたちと彼らのプレイするブレイクビーツ、視覚表現と都市空間への介入と行動としてのグラフィティ、そして身体に纏わる表現としてのブレイクダンスという総合芸術であった。これらすべては従来のブルジョワジーの空間に安住する芸術家たらんと指向したカルチャーの担い手の表現とは異なり、実際に生きられた、文字通り社会の制度の外側の遺棄された空間に追いやられた階級からのカルチャーであることを忘れずにいたい。

 さて、2003年、メディア学/英文学のウェンディ・フイ・キョン・チャン教授は彼女の“オリエンタリズムを正しく配置する”(4)という論文で、押井守の『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』とウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を俎上に、自由と管理の欲望を通して性と人種の脆弱性がいかにサイバースペースに向けての物語(オリエンタリズム)と化すかを論じてみせた。この事情はもちろん2020年代も変わっていないので、性や人種にまつわるオリエンタリズムが陰謀論と互いに補強し合うかのように跋扈している。フランスの社会学者/哲学者、ジャン・ボードリヤールが遥か1970年に記した以来、繰り返し引用されたであろう言葉をまたここで引用する。

「現代的モノの主要なカテゴリーの一つとなっているのが、キッチュだ。ふつう、キッチュとは(中略)悪趣味で質の悪いまがいものの総称であって、これらのがらくたはいたるところに氾濫している(中略)、キッチュは談話における『きまり文句』と同じ働きをもち、ガジェットと同様、定義しにくい範疇なのだが、実体を伴って存在するモノと混同してはならない。あるモノの細部にも集合住宅の計画のなかにも、造花にもフォト・ストーリーのなかにも、いたるところにキッチュは存在可能だ」(『消費社会の神話と構造』)(5)

 インターネットとそのカルチャーは、キッチュ(きまり文句)なイメージを斥けることができるのだろうか。もしインターネットがそうしたイメージを斥けえない成り立ちなら、イメージの批判も不可能であり、つまるところ全きは空間でキッチュに拡がるだけだろう。勿論、今ではヒップホップも分解されたキッチュなイメージとしてせり売られている。言うまでもなく、私たち皆がイメージとして流通しすり減っていくことから逃れられないように思える。

 インターネットは巨大な軍事プロジェクトとして企図され発達した。勿論、1960年代半ば以降、後期公民権運動―ポスト公民権運動の時期にインターネットと並行してストリートのカルチャーのみが生まれたわけでもないだろう。しかし、ここでは、同じ時代、軍事プロジェクトの遥か足下の街路から緩やかに浮かび上がり、現代と異なりポップのメインストリームどころか当初見向きもされず“きまり文句”以下でイメージにすらなり得なかった、音響―言語―視覚―身体のアート実践が少なくともどのような動勢であったのか/あるのかを、日本におけるヒップホップの成り立ちと重ね合わせ探っていきたい。

 それは、例えばある理想的なスタイルが現在あるプロパガンダのスタイルに取り替わり、来るべき時代の他を閉め出し許さない帰結になっていくからではない。むしろ、誰もがイメージが乱反射する鏡の部屋に迷い込むことはあるとしても、それが絶対的な黙示録、世界の終わりの始まりなどではさらさらなく、ウータン・クランのRZAが42丁目の映画館の暗闇で啓示を受けたように、ブルース・リーの素早い足蹴の一撃で鏡全体が崩れ落ちる――ヒップホップはまさにそのような動勢としてあった/あるのではないかと思い出すことが出来たらいい。この一撃は、イメージではなくまた象徴でも比喩でもどんな文学表現でもないので、ヒップホップにおいては、まずなによりもB-ボーイズ、B-ガールズ、彼らのアップロッキングからパワームーブまでにおいて現実/リアルだ。

 そして、B-ボーイング、もしくはブレイキングはストリートで起こるため、その範囲を日本全国としてもとても自分が追えるわけがない。またナルシズムをもって時代を制覇するように見える持て囃される個人をスポットし、最高だとか最低だとか評価を与えることだけ即ちストリート/カルチャーを捉えようとすることとも異なるように思える。しかし、ここでは、とりあえず、東京は東側、荒川、江戸川、墨田と呼ばれるような、バブル経済に湧く1980年代の東京のポップ/音楽カルチャーとは縁のなさそうな地域からの少年たち、つまり、自分たちを後にミスティック・ムーヴァーズと呼ぶ、Cake K、サブロー、ハルキャロウェイの3人に登場してもらうところから進めていく。

***
(1)宇多丸、高橋芳明、DJ YANATAKE、渡辺志保著、NHK出版、2018年。
(2)大和田俊之、磯部涼、吉田雅史著、毎日新聞出版、2017年。
(3)田中宗一郎、宇野維正著、新潮社、2020年。
(4)‘‘Orienting Orientalism, or How to Map Cyberspace,’’ Asian American.net, eds. Rachel Lee and Sau-ling Wong (New York: Routledge 2003). 
(5) J・ボードリヤール著、今村仁司他訳、紀伊國屋書店、1995年。

■荏開津広
執筆/DJ/京都精華大学、立教大学非常勤講師。ポンピドゥー・センター発の映像祭オールピスト京都プログラム・ディレクター。90年代初頭より東京の黎明期のクラブ、P.PICASSO、ZOO、MIX、YELLOW、INKSTICKなどでレジデントDJを、以後主にストリート・カルチャーの領域において国内外で活動。共訳書に『サウンド・アート』(フィルムアート社、2010年)。

『東京/ブロンクス/HIPHOP』連載

第1回:ロックの終わりとラップの始まり
第2回:Bボーイとポスト・パンクの接点
第3回:YMOとアフリカ・バンバータの共振
第4回:NYと東京、ストリートカルチャーの共通点
第5回:“踊り場”がダンス・ミュージックに与えた影響
第6回:はっぴいえんど、闘争から辿るヒップホップ史
第7回:M・マクラーレンを魅了した、“スペクタクル社会”という概念
第8回:カルチャーの“空間”からヒップホップの”現場”へ
第9回:ラップ以前にあったポエトリーリーディングの歴史
第10回:ディスコが音楽を変容させた時代
第11回:ディスコで交錯したソウルとロックンロール
第12回:ポップ音楽の主体の転倒とディスコの脱中心化

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む