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実話を基にしたテレンス・マリックの新境地 『名もなき生涯』における「神の沈黙」のテーマを読む

リアルサウンド

20/3/2(月) 12:00

 数々の世界的な賞を受賞した『天国の日々』(1978年)、『シン・レッド・ライン』(1998年)、そして『ツリー・オブ・ライフ』(2011年)など、こだわり抜いた美しい映像と哲学的な内容の監督作品によって、伝説的な巨匠というイメージを持たれている映画監督、テレンス・マリック。彼が初めて実話を基に撮りあげ、3年の月日をかけて編集した力作が、『名もなき生涯』だ。

参考:『名もなき生涯』主演俳優がテレンス・マリックの演出の秘密を明かす 新場面写真も公開

 新作を撮るたびに議論を呼び、熱烈な支持者も現れるマリック作品だが、今回はとくに新境地といえる鮮烈な内容となっている。一体、何が描かれたのだろうか。ここでは、そんな本作、『名もなき生涯』を、できるだけ深く考察していきたい。

 舞台となるのは、第二次世界大戦中のオーストリア。ナチスドイツが軍事力によってヨーロッパを席巻していた当時、隣接していたオーストリアは、ドイツの一部として併合され、ナチスドイツそのものになっていた。

 ナチス政権では市民に服従が求められ、当然のように人々は戦争に駆り出される。ドイツとの国境沿いにある小さな村、ザンクト・ラーデグントで妻ファニや娘たちと一緒に暮らす敬虔な農夫、フランツ・イェーガーシュテッターもまた、軍事訓練に参加することになる。フランツはそこで、破壊や殺戮を英雄的行為だとする軍の考え方に、強い違和感を持つ。

 やがて兵役が課されようとすると、フランツは決然と兵役拒否を表明し、ヒトラーには服従できないと主張する。無論、ナチスはフランツの行動を許さない。彼を罪人だとして収容所に送り、軍事裁判にかけるのだ。

 本作は、収容所にいるフランツと、村で彼の帰りを待つ妻の間でやりとりされた、実際の往復書簡を基に構成されている。看守によって拷問される地獄のような収容所の日々と、美しく静かな山の日々という、まさに対照的な世界が、約3時間の上映時間のなかで交互に映し出されていく。

 兵役を拒否したフランツは、あらゆる苦痛を受け、妻や娘たちは村から除け者にされる。多くの国民が戦いに出るなかで、「自分は行かない」と言うのは、人によっては、わがままに感じられるかもしれない。だがその前に、徴兵制度そのものの是非が問われなければならないだろう。そもそも、戦闘行為とは縁のない、つつましい生活をしている一般の人々が、政府の都合によって突然戦争に参加させられ、人を殺すことを強要される。これは異常なことではないのだろうか。

 そればかりか、軍拡を続けるナチスドイツの戦争は自衛とは程遠く、さらには自他国のユダヤ人を収監し大量殺戮を行うという、人類史に残る犯罪を行ったことで、戦後は世界から責められ、ドイツ政府も、現在まで深い反省を表明し続ける事態となったことは周知の通りだ。

 いまではナチスの思想や戦争犯罪は、あらゆる角度から間違ったものとされている。フランツの兵役拒否は、この考えからいくと、ごく真っ当な行為だったといえるし、周囲の圧力に屈せずに意志を貫いたという意味では、賞賛に値する行為だ。にも関わらず、フランツは国家によって、義務を怠る反逆者だとされるのだ。

 村の人々は次第にナチスの思想に順応していく。その裏には教会による国家への協力もあった。兵隊として人間を殺すことは、本来のキリスト教の教えに反する行為である。しかし宗教は、時代時代で権力とつながり、理念を曲げることがある。戦時の日本においても、もともと政治と関わりの深い神道はもとより、仏教の一部宗派ですら、“戦時教学”を掲げて、仏教徒として戦うことを人々に説いた史実がある。

 異常な側に「異常だ」と責められ、間違った側に「間違っている」と裁かれる。さらには道を説くはずの教会からも歪んだ教えを押しつけられる。自分が善良であるからこそ、悪に染まっていく狂騒の世界のなかで、自分が“悪”だとされていくのである。フランツにとってこれは、おそろしい悪夢である。

 アメリカの巨匠ジョン・フォード監督に『ハリケーン』(1937年)という作品がある。南太平洋の小島に住む、妻子ある先住民の若者が、差別的な白人に絡まれてケンカをしたことで、白人の裁判官に懲役6ヶ月という、理不尽に重い刑を言い渡される。白人たちの話す言葉も常識も法律も知らない若者は、妻子に会うために何度も脱獄を繰り返すが、その度に捕まって刑期が膨れ上がり、16年の刑に処されることになってしまう。何も悪くないのに人生を奪われる……なんという理不尽な物語だろうか。この若者やフランツのように、価値観やルールが違う者全てを、ある価値観を持った者が、権力によって一方的に従わせるという行為は、もはや魂の殺人といってもいい。

 本作では、収容所で満足な食料が与えられず、兵士たちに様々な暴行や辱めを受ける耐え難い日々を送るフランツが、妻へ手紙を送り、妻もまた愛情を込めた返事を返す。そのやりとりが、互いのいる場所の風景とともに、夫妻を演じるアウグスト・ディール、ヴァレリー・パフナーの声によって語られていく。

 テレンス・マリック監督と、彼の作品の撮影に参加してきたイェルク・ヴィトマーが撮影監督を務め、できるだけ照明を使わずに自然光だけで、そしてワイドレンズで捉えた山の風景は、『天国の日々』で描かれたアメリカの大地と同様、荘厳さと静謐さを備えた場所として映し出される。

 ワイドレンズは、広い角度で景色をとらえ、フレームの中に凝縮する。そのことによって、世界がまるごと収まっているように感じられる。さらに、人物を極端な接写でとらえていることも、本作の撮影における大きな特徴だ。凝縮された世界と、存在感が際立った人物。これが示すのは、“世界”と“人間”を並列的に並べてみるという行為だろう。それは、本作の重要なテーマともつながってくる。

 敬虔なカトリック信徒である、フランツや妻ファニは、神の求めているはずの道を歩んでいるはずなのに、神の側は苦痛にあえぐフランツに、何の助けも与えてくれない。だとすれば、全能の神などというものは、もともと存在しないのだろうか。自分たちが祈りを捧げてきた、そして人類の歴史のなかで膨大な数の人々が神に祈りを捧げてきたことは、全くの無駄な、愚かな行為に過ぎなかったのだろうか。このような内面的な葛藤がフランツ夫妻に襲いかかるのである。

 これは、文学や映画などで描かれてきた、「神の沈黙」のテーマだ。スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督は、このテーマでいくつも作品を作り、遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシ監督が映画化した、『沈黙 -サイレンス-』(2016年)も記憶に新しい。“神が存在するのなら、悪が罪なき者を虐げるときに、何故助けてくれないのか?”敬虔な者たちが、そんな疑念を持つことは、とくにキリスト教の信徒が多い西洋では、一つの大きな文学的、哲学的なテーマだといえる。本作では、そんな疑問を描くときに、皮肉にも、豪華な教会の聖堂が映し出される。

 しかし、そんな絶望的な物語のなかで、わずかな希望が描かれていることを見逃してはならない。夫が犯罪者の烙印を押されたことで、村八分になっていたファニに対して、心ある数人の村人が、善意から人知れず小さな親切や心配りをしてくれるのである。

 そして運命の日、いくらかの村人は、自分たちの罪を代わりに引き受けたようなかたちのフランツに対して、静かに祈りを捧げる。それは、まさにキリストが人類全ての罪を背負い苦痛の死を遂げた構図に似ている。このように、フランツの行為が、人々の善意を目覚めさせたのだとしたら、そこにこそ神は存在するのかもしれない。豪華な聖堂ではなく、人と人とのつながりのなかにである。

 ファニは、この犠牲には必ず意味があるはずだと、自分に言い聞かせるように綴っていた。この理不尽な悲劇に、もし意味があるとすれば、後の人々がフランツのように、善意や信念を持ち、紛れもない悪に対して、抵抗することを学ぶということなのではないだろうか。

 ナチスドイツの熱狂は、歴史のなかでは、ほんの一瞬に過ぎない。教会や聖堂もまた、いつかは朽ち果てるものだ。しかし、人々の暮らしや営みは、それらよりもはるかに長く続いている。そして厳かに存在するアルプスの山々は、さらに長く長く存在し続けている。本作は、卑小な悪に対する力強い存在を、最大限の映像美によって示しているように思えるのである。

 カトリック教会は2007年、フランツを聖人に次ぐ存在として認め、信徒としての名誉を回復させることになった。そして現在、ザンクト・ラーデグントの美しい農村の風景のなかには、ひっそりとフランツ・イェーガーシュテッターの記念碑が飾られている。

 ちなみに本作は、ブルーノ・ガンツ(『永遠と一日』、『ヒトラー 最期の12日間』)、ミカエル・ニクヴィスト(『ミレニアム』シリーズ、『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』)最後の出演作でもある。二人の名優の姿も目に焼きつけておきたい。(小野寺系)

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