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中村倫也・オン・ステージ! 『水曜日が消えた』が描く、かけがえのない日常への愛おしさ

リアルサウンド

20/6/30(火) 10:00

 新型コロナウイルスにより生活のルーティン化を余儀なくされた現在の私たちの日常と、映画『水曜日が消えた』の世界で描かれる日常は、どこか重なって見える。いや、「ルーティン化」という点においては、“これまでよりも際立っている”という表現にとどめておくべきか。そもそも日常とは、似たような時間が繰り返されるもの。ここにいま自粛などによる「制限」が加わることによって、私たちは日常から得られる刺激が少なくなったのだ。だから私たちは少しでも刺激を求めている。

【動画】中村倫也演じる日常の1コマが 『水曜日が消えた』予告

 この『水曜日が消えた』の主人公は、キマジメかつ神経質で、多くの人の目には地味な男だと映るだろう。しかし、彼にはヒミツがある。彼は翌日(水曜日)になれば、スポーティーな好男子になる……はずだった。見た目はそのままに、彼は曜日ごとに異なる人格になる人間なのだ。だからこの映画の世界観において彼の身体は、あくまで容れ物でしかない。その主体は、曜日ごとに異なる内面にある。

 この容れ物となる“月曜日くん”~“日曜日くん”までの身体を動かし、それぞれに異なる人格を操るのが、本作の主演を務める中村倫也だ。つまり本作においてこの俳優は、“1人7役”という偉業を成し遂げているのである。

 とはいえ主人公となるのは、キマジメな言動が目立つ“火曜日くん”。少々ダーティな香りのする“月曜日くん”や、アーティスティックな感性を持つ“木曜日くん”らの姿(人格)は、あまり登場することがないのだ。正反対の人格である“月曜日くん”とは対峙する機会があるものの、ほかの人格の存在は物語のラストまで、観客に対して“匂わせる存在”にとどまっている。つまり、私たちは中村倫也の“七変化”をはなから目の当たりにできるのかと思いきや、それは物語のラストまでおあずけなのだ。しかし、もっとも地味な“火曜日くん”がメインとなることで、後々になって登場する個性的なそれぞれの人格は、観客にとってより際立って見えることだろう。物語の流れにあわせて、「Tomoya Nakamura on stage!」が展開していくことになるのである。決してしびれを切らさぬよう、聖火ランナーともいえる“火曜日くん”の日常を見守ろうではないか。

 物語の筋としては、“火曜日くん”は翌日(水曜日)になっても“火曜日くん”のままで、これまで完全にルーティン化していた彼の“日常”が変化していくことになる。ほとんど同じであるはずなのに、彼にとっては違って見える景色、通りゆく人々、聞こえてくる音ーー“火曜日くん”の世界は、大きく変化するのだ。

 そして彼は、新しい世界(≒日常)や、自身のほかの人格も含めた“他者”と出会うことで、あからさまに変わりゆく「自己」を発見していくことになる。“火曜日くん”は“火曜日くん”のまま、彼自身の「自己」というものを確立するのだ。しかしこれだと、7つにバラけているのが平常であった彼の世界の均衡は、崩れてしまうことになる。それはつまり、ただの容れ物であるこの若者の身体のバランスが崩れてしまうことをも意味している。

 先に述べたように、ほかの人格は“自分ではない”。“火曜日くん”は“水曜日くん”のマネはできても、本物の“水曜日くん”になることはできない。やがて“彼ら”は、それぞれに与えられた週に一度の「24時間」だけを受け入れて、それ以外の時間をほかの6つの人格に譲ることになる。“火曜日くん”はかつてのように、火曜日にしか存在することを許されないが、いくつかの経験をしたことで、これまでとは世界の見え方が変わるのだ。

 彼(ら)の姿を追っていると、『水曜日が消えた』は、かけがえのない日常への愛おしさを謳った作品なのだと思える。吉野耕平監督が生み出す美しい映像表現と、演技巧者である中村倫也の表現は高次元で実を結び、やがてラストに彼らが咲かせるものは、いま私たちにそっと訴えかけてくる。はて、今日は何曜日だろうか? 代わり映えしない日々ではあるが、この日常(≒世界)こそを大切にしたい。

(折田侑駿)

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