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押井守の あの映画のアレ、なんだっけ?

“遺作”について、どう考えていますか?

月2回連載

第52回

Q.
押井さんは“遺作”について、どういう考えをお持ちですか? モーツァルトの『レクイエム』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、三島由紀夫の『豊穣の海』、手塚治虫の『ネオ・ファウスト』、テオ・アンゲロプロスの『エレニの帰郷』……それぞれの作品が、作者の人生の総決算として象徴的な意味をもっています。押井さんは自称・職業監督なので、三島のように遺作を仕立てあげ自己神話化はしないでしょうが、遺作、あるいは最後の仕事についての考えをお伺いしたいです。

── 前回は、“最後に観る映画”でしたが、今回は“遺作について”です。コロナ禍のせいで厭世観にとらわれた人が多いのか、はたまたお盆の季節だからなのか、そういう質問が続いてしまいました(笑)。

押井 遺作というのは、生きている人間が言うことであって、死んだ人間にとっては遺作もへちまもありません。最後の仕事、というだけです。

── なるほど!

押井 正直、遺作についてはよく分からない。おそらく、これから年を重ねても分からないと思っている。

遺作は人生を締めくくる1本だと、この質問者は考えているようだけど、そういう考えと“表現者”という職業は一致しないと思うよ。なぜなら、「これを成し遂げたら死んでもいい」というのは“表現”とは言わないから。

私は、表現というのは、もっと日常的で“生”と一致しているものなんだと考えている。「これを成し遂げたら死んでもいい」というのは、社会的行為であっても、表現を集約する行為ではありえない。なぜなら、表現は終わらないから。終わりようのない行為であり、表現は生きている間、続く行為なんです。

とはいえ、職業として、これで終わりというのはある。この本を最後にしますとか、宮さん(宮崎駿)のように「これを引退作にする」とかね。それはあるんですよ。引退したらネコを抱いて過ごすとか、ドン・シーゲルのようにバーで酒を飲んで過ごすとか。そういうのは職業として表現を止めたときです。

でも、職業以上の何かを表現に感じている者がいるとすれば──といっても、私を含めそういう人間の方が多いと思っているけど──そういう人間の場合、この質問者が言っているような“遺作”は成立しない。

私は、今作っているものが最後の作品に値しなくても、まったく後悔はない。最後に作るのが最高傑作なんてことは、ほぼありえないと思っているから。

そもそも、「この監督の最高作」と世間が考えている作品と、監督当人が考えている最高作は必ずしも一致しないからね、何度も言っているけど。私の場合もそうですよ。

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