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ドラマー林立夫が語る、『東京バックビート族』の背景とスタジオミュージシャンに惹かれた理由

リアルサウンド

20/4/4(土) 12:00

 細野晴臣、鈴木茂、高橋幸宏、小原礼などとともに、1970年代から日本のポップミュージックを支えてきた名ドラマー・林立夫。その半生を綴った『東京バックビート族 林立夫自伝』が今年2月に上梓され、音楽ファンを中心に大きな話題を集めている。

 50~60年代の音楽、映画、ファッションをリアルタイムで体験し、70年代からはレコーディングミュージシャンとして活躍。さらにキャラメル・ママ、ティン・パン・アレーのメンバーとして、荒井由実、吉田美奈子、矢野顕子などの作品に参加。『東京バックビート族』には、林のキャリアが日本のポップスのもっとも良質な時期と強く結びついていることが克明に記されている。

 リアルサウンドでは、林自身にインタビューを行い、『東京バックビート族』の背景を中心に、ドラマーとしてのスタンスや音楽観、現在の音楽シーンに対する印象など、幅広いトピックについて語ってもらった。(森朋之)

(関連:細野晴臣が語る、“これからの音楽”への視線「刺激的なだけで深さがないものは飽きちゃう」

■僕らは“新しいことを知っている知り合いがいる”という感じ

ーー『東京バックビート族』、大変興味深く読ませていただきました。せっかくの機会なので、いろいろとお伺いできればと思います。林さんは昭和26年(1951年)生まれ。10代が1960年代にあたりますが、その頃に聴いていた音楽がミュージシャンの原点になっているそうですね。

林:まちがいなくそうでしょうね。子供の頃に聴いたものは、頭ではなく、身体のなかに入っているので。当時は音楽的にもお好み食堂のようだったというか、何でもあったんですよ。ハワイアンの曲がヒットしたかと思えば、カントリーミュージックが流行ったり、ジャズやロックンロールもあって。日本では多くの多才な先輩方が活躍していて、言い方が良くないかもしれないけれど、彼らが活躍していた時代には戦後のどさくさの名残みたいなものがあった。そういうなかで多感な時期を過ごしていたので、当然、影響は受けますよ。

ーー戦後、アメリカの文化が一気に入ってきて、東京の風土と混ざり合い、独自のカルチャーが生まれていきました。林さんもその影響を受けたと。

林:ええ。戦後あたりのことは話でしか聞いてないけれど、抱腹絶倒のエピソードばかりで、僕ら世代の話よりも断然面白い(笑)。テレビが一般的になってきたのは小学校1、2年の頃だったと思いますが、僕らよりも前の人たちは、もっと積極的に情報を取りに行かないと何もわからなかったはずなので。その柔軟さ、逞しさはすごいですよね。米軍基地で演奏していた人たちの影響もあったと思いますし、横浜、神戸、沖縄など、港町がある土地の人たちも新しいものをよく知ってましたね。僕らは“新しいことを知っている知り合いがいる”という感じだったのかな。

ーー当時の日本の文化的な背景もそうですが、林さんが10代の頃から高橋幸宏さん、小原礼さん、細野晴臣さん、鈴木茂さんなどと交流があったことも興味深いです。東京の狭いコミュニティから、優れたミュージシャン、プレイヤーが次々と登場したのはどうしてなのか……。

林:その理由は僕に聞かれても分からない(笑)。ただ、似たようなことは海外でも起きているんですよ。この本を書くにあたって、10代の頃に好きだった音楽を改めてチェックしてみたんです。たとえばロックンロールでいえば、ジーン・ヴィンセントやエルヴィス・プレスリーもそうですが、1930年前後の10年間くらいにニューオリンズ州、ミシシッピ州あたりで生まれたミュージシャンが多い。The Beatlesもそうですよね。彼らが演奏していたリバプールのキャヴァーン・クラブには、面白いバンドがいっぱい出ていて、お互いに影響を与えていたはずなので。当時の僕らはその日本版だったのかもしれないです。今みたいにインターネットもないし、人とのつながりがより重要だったんですよ。キーパーソンが何人かいて、その人たちを介してさらにコミュニティが広がっていく。『東京バックビート族』にも書いてありますが、そういう連中は少なからず、ある程度以上の生活レベルだったということも一つポイントではあるかもしれません。当時は1ドル=360円の時代。アメリカに行こうと思ったら、ちょっとアルバイトするくらいでは無理ですから。

ーー生活に余裕のある家の子供たちが海外に行き、東京に新しいカルチャーをもたらしたと。

林:言葉を選ばずに言えば、ろくでもない息子、娘たちですよね(笑)。ただ、親の金で遊んでいたことを全否定するつもりはなくて、そのおかげで良い経験ができたのであれば、それはそれでいいと思っているんです。彼らの容赦ない遊び精神が次につながったわけだし、そのおかげで僕たちもいろいろなことを経験できたので。

ーー林さんはお兄さんの影響でドラムをはじめ、いくつかのバンドを経験した後、70年代の初めからセッションミュージシャンとして活動をはじめました。その後、細野晴臣さん、松任谷正隆さん、鈴木茂さんらとティンパン・アレーを結成し、数多くのアーティストのレコーディングに参加。当時、スタジオミュージシャンの立場はどのようなものだったのでしょうか。

林:僕がスタジオミュージシャンに興味を持ったきっかけは、夢中になって聴いていたレコードのクレジットを調べるようになったことなんです。じつは多くの楽曲をスタジオミュージシャンが演奏していること、ハル・ブレイン、アール・パーマーといったドラマーや、いろいろなミュージシャンのこともわかってきて。いちばん有名なのは、The Wrecking Crew(ロサンゼルスを拠点としたセッションミュージシャンたちによる集合体)ですよね。それ以来、音楽の聴き方、興味の対象が変わっていったんですよ。一方、日本の音楽はといえば、スタジオミュージシャンが活躍するフィールドには芸能界というものが屹然と存在していて。僕らがいた界隈と芸能界には大きな隔たりがあって、橋もかかっていなかった。つまり、カルチャーがまったく違っていたんです。

ーー当時に芸能界がメインストリームだとすれば、林さんたちはオルタナティブな存在だったんでしょうね。

林立夫:結果的にはそういうことでしょうね。僕らは海外のスタジオミュージシャンのあり方に惹かれていたので、当時の芸能界にはまったく興味がなかったんです。実際に話したわけではないけれど、少なくとも僕は、芸能界に行きたいという気持ちはまったくなかった。ただ、だんだんと自分たちの音楽に注目が集まって支持されてくると、歌謡界から橋が架けられたんですよ。少しずつ行き来が始まって、僕らのマインドのまま、歌謡界でもレコーディングができるようになっていきました。その頃ですね、いちばんスタジオの仕事をやっていたのは。

ーーThe Wrecking Crewがアメリカのポップスの黄金時代を作ったように、「自分たちが日本のポップスの質を上げたい」という意識もあったんでしょうか? 実際、林さんたちが参加した70年代の作品が、日本の音楽の源流になったわけですが。

林:当時はそこまでは考えていなかったですね。もっとシンプルに、「まずは自分たちが“いい”と思える作品が出来ればいい」というだけで。音楽的なアイデアはたくさんあったし、レコーディング現場の作業がとにかく好きだった。その先のことは、わかる人がやればいいという感じでした。たとえば村井邦彦(アルファレコードの創立者)さんもそう。ユーミン(荒井由実)をデビューさせるために、僕らをレコーディングに呼んだのは村井さんなので。

ーーたしかにユーミンの登場は日本のポップス史の大きなトピックですよね。

林:いまの日本のポップスが形作られた大きなきっかけの一つだし、今も存在感を放っているのは素晴らしいと思います。歌詞とメロディが素晴らしかったんですよね、最初から。メロディの流れにまったく無理がなくて、歌詞も「こういう場面を描いているのか」という驚きがあって。そういう曲は演奏していても楽しいし、冥利に尽きますね。

ーー『東京バックビート族』では「BLIZZARD」(松任谷由実)のレコーディングのエピソードが記されていますが、ドラムのフレーズを当日決めることもあったとか。

林:はい。「こんなグルーヴはどうかな?」と相談しながら、その場でアレンジを決めることもけっこうあったので。「BLIZZARD」はメロディを聴いたときに、映画『白い恋人たち』のイメージが浮かんだんですよね。なので、真っ白な雪のなかをスキーで滑走する映像を思い浮かべながらフレーズを考えて。吉田美奈子のレコーディングでも、キャラメル・ママのメンバーでヘッドアレンジを作ってましたね。松任谷正隆も言ってますけど、その作業がいちばん楽しいんですよ。誰かがアレンジを決めるのではなく、意見を出し合って、「それ、いいね。だったら、こういうのは?」とやり取りしながら演奏するという。そういうニュアンスは、譜面には書けないですからね。

ーー本のなかには「“プレイヤー”というよりも、限りなく“リスナ―”的な脳みそで」音楽を作り、演奏しているときは歌を聴いているというエピソードも。そのスタンスはメンバー同士で共有されていたんですか?

林:「こういうスタンスで」と話し合ったことはないですが、フィーリングで感じていたし、だからこそ仲良くなったんでしょうね。一緒に演奏していれば、「歌を聴いているな」というのはわかりますから。ポップスには必ず歌があるし、メロディラインや歌詞を中心にするのは当然と言いますか。それは日本も海外も同じだと思います。本のなかで対談している3人のドラマー(高橋幸宏、伊藤大地、沼澤尚)も、みんなそういうタイプですね。

ーー歌を解釈して演奏に結びつけるためには、音楽以外の素養も必要ですよね。たとえば映画の知識だったり。

林:映画は観たほうがいいですね。ただ、いまのハリウッド映画を観ても、あまり意味はないかもしれないです。先日、最近のハリウッド映画をまとめて観ましたが、どれもあまり面白くなくて。脚本は演出の意図が見え見えというのかな。昔の映画とは、作品力が違う気がしますね。

ーー同じことが音楽にも言えるのかもしれないですね。

林:可能性はあるでしょうね。YMOのヒット曲じゃないけれど、胸がキュンとするような音楽に出会うことがほとんどなくなってしまいました。過去の音楽には、それがあるんですよね。最近、村井邦彦さんがFacebookで昔のアルバムを何枚か紹介していたんですよ。たとえば、Sergio Mendes And Brasil ’65*の『In Person At El Matador』とか。10代のときに繰り返し聴いたアルバムですが、いま聴いても本当に素晴らしい。胸キュンですね(笑)。

■細野さんが聴かせてくれたマーティン・デニーが自分のなかの大きな要素

ーー本のなかで「地球上でもっとも好きなベーシスト」と紹介されている細野晴臣さんとの関係についても聞かせてください。2015年の矢野顕子さんのライブ(『さとがえるコンサート』)でのお二人の演奏も素晴らしかったですが、林さんにとって細野さんはどんな存在なんでしょうか?

林:付き合いも長いし、演奏のコンビネーションも自ずと出来上がっていますからね。演奏中、「自分がこうしたら、細野さんがこう来る」という感覚もあるし、やはり大きな存在です。いろんな音楽を知っているし、70年代から「こんな音楽があるよ」と教えてもらったことも多くて。本には書いてないんですけど、自分のなかで大きな要素となっているミュージシャンの一人が、細野さんが聴かせてくれたマーティン・デニーなんですよ。それ以前に細野さんが教えてくれた音楽は、自分の理解の範囲だったんです。でも、マーティン・デニーはその範囲から出ていたし、最初は「何だこれは」という感じがあって。(鈴木)茂は僕よりもその感覚が強かったでしょうね。マーティン・デニーの音楽にはエレキギターが入っていなかったから、細野さんに「こんな雰囲気でやりたい」と言われても、何をすればいいか分からなかったんじゃないかな。それをきっかけにして、僕の中で「いいものはいい」という自由度の幅が広がったんですよ。その先に“おっちゃんのリズム”(本書の伊藤大地との対談の中で細野の楽曲「Pom Pom 蒸気」に代表されるリズムについてそう形容している)につながっていくんですけどね。

ーーなるほど。細野さんや鈴木茂さんとは、今もプライベートでも交流があるんですか?

林:たまに会いますよ。まあ、10代の頃の話をすることが多いですけどね(笑)。年中一緒にいたし、「あいつがさ……」で話が通じるからラクですよ。

ーー最近の音楽シーンの印象についても聞かせてください。CDの売上の低下などにより70年代、80年代の日本の音楽にあった豊かさが失われて久しいですが、林さんはこの現状をどう捉えていますか?

林:そもそも音楽は、そんなにビッグビジネスにならないものだと思っているんですよ、僕は。The Beatlesのようないくつかのきっかけによって、音楽にまつわるビジネスがどんどん大きくなって、80年代、90年代には1枚のシングルヒットで王侯貴族のような暮らしができるようになった。でも、それは一時期だけの現象だったんじゃないかなと。時代を遡ってもクラシックの作曲家は音楽だけでは生活できなくて、貴族にパトロンになってもらっていましたよね。

 もう一つの側面は、ヒットを狙って大衆に迎合することで、音楽のレベルが幼稚になってしまったことの影響ですね。それを繰り返すことで、厳しい言い方ではありますが、そのレベルのモノしか作れない人が増えてしまったんじゃないかなと。先日、あるシンガーの録音に参加したんですが、久々にフルオーケストラと一緒のレコーディングだったんです。エンジニアは本にも登場する内沼映二さん。ドラムの音はもちろん、ヴィオラ、バイオリンも音もバッチリで、本当に素晴らしかった。おそらく若いエンジニアだったら、こうはいかないと思うんです。何が言いたいかというと、音楽制作における生産性を上げたことで、作品ごとの質が低下しているのではないかということ。そうすると、リスナーの耳も育たないですよね。それはもちろん、提供する側の責任ですが。

ーー『東京バックビート族』の最後あたりで、若い世代が活躍できる“場”を作りたいという話が出てきます。この先の音楽シーンをより良くするためにも、大事な視点だなと。

林:“場”にもいろいろあると思うんですよ。いまはインターネットがあるから、古今東西、どんな音楽も探すことができる。でも、情報を掘り下げることに気を取られて、音楽にとって一番大事な質感、風合いがないがしろにされている気もして。こちらが「これはいいよ」というガイドライン、ロードマップを作れば、それも一つの“場”になると思うんですよね。「これを聴きなさい」ということではなく、一つの楽しみ方を提供することができないかと考えています。

ーー最後に今後の林さんの活動のビジョンについて教えてもらえますか?

林:僕の知り合いで、知床で雲丹の漁師をしている人がいるんですよ。もともとはスタジオミュージシャンだったんですが、親父の跡を継いで漁師になって。禁漁の時期は、家の隣に建てたライブハウスで演奏してるみたいなんですが、そういう生き方はいいなと思いますね。昔からそうなのですが、音楽を仕事にしたくないという意識がどこかにあって。ムッシュかまやつさんの魅力も、そういうところにあったと思います。いい意味でアマチュアっぽさのある“アマフェッショナル”。リラックスしていないと、感受性は育たないですから。

ーー「いかに自分たちの音楽をマネタイズするか」ということを考えているアーティストとは、全く考え方が違うのですね。

林:そうかもしれないですね。これもムッシュの言葉なんですが、自分がやったことが良かったかどうかは、30年経たないとわからないと思うんです。いまは(新型コロナウイルスの影響で)ライブが出来なくて、ミュージシャンは大変じゃないですか。乱暴な言い方ですけど、こういう時期に音楽との関わり方について考えてみるのもいいんじゃないかなと。そのうえで能動的に行動を起こすことは、いいことだと思うんですよね。

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