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山内マリコ作品、なぜ次々に実写化? 門脇麦×水原希子『あのこは貴族』への期待

リアルサウンド

20/7/19(日) 8:00

 門脇麦、水原希子のダブル主演で、山内マリコ原作の『あのこは貴族』(集英社文庫)が映画化され、2021年に公開される。『グッド・ストライプス』の岨手由貴子監督が手掛けるという点でも楽しみな一作だ。

参考:門脇麦が箱入り娘、水原希子が自力で生き抜く女性役に 山内マリコ『あのこは貴族』映画化決定

 山内マリコの作品はこれまでも『ここは退屈迎えに来て』が2018年に廣木隆一監督によって映画化(橋本愛、門脇麦、成田凌出演)、『アズミ・ハルコは行方不明』が2016年に松居大悟監督によって映画化(蒼井優、高畑充希出演)されている。

 では、なぜ山内マリコの小説が次々と実写化されるのか。紐解いてみて浮かび上がったのは、「どこかの地方都市の退廃的で物憂げなアラサー女子たちの変遷」であり、『あのこは貴族』が他2作品とは大きく違った魅力のある作品だということだ。

 『ここは退屈迎えに来て』(2012年幻冬舎にて刊行)は、一人の魅力的な男・椎名を軸として、閉塞したある地方都市を生きる女たちを描いた。「上京してみたかった」「東京での生活が懐かしい」「高校時代は楽しかった、人生で一番輝いていた」とぼやきながら今を生きる彼女たちはあまりに停滞していて、車がなければどこにもいけない現状、寂れたゲームセンター、女友達同士で集まるファミレスと、これでもかと詰め込まれた「地方都市あるある」に辟易とする。

 ただ、一つ彼女たちに救いがあるとすれば、男に依存して頑なに免許を取ろうとしなかった門脇麦演じる「私」が、運転免許を取ることを決意する「君がどこにも行けないのは車持ってないから」のエピソードである。自分の足で歩いていくと決めることが、何より自由になるための第一歩なのだ。

 続いて、『アズミ・ハルコは行方不明』(2013年幻冬舎にて刊行)はさらに「地方都市と女性」というテーマを深堀する。28歳のヒロインたちは、気づいたら、男性中心の社会が与えてくる先入観に自分自身が絡めとられ、結婚に固執している。そんな彼女たちが唯一選べる道は、「失踪する」こと。世の中の数多あるルールごとから逸脱するだけで、自由になれる。これも一つの方法だ。

 女たちの過去であり、未来でもある、JKギャング団たちが、鬱屈した日常を抱える女たちの思いを晴らすように、イメージとしての銃を持ち、軽やかに男たちに報復し、失踪した女たちの無数の肖像が空に浮かび上がる。

 これまでの映画2作品は、地方都市を生きる若者たちの鬱屈を描くと共に、終盤の爆発しそうな彼らのエネルギーを堪能するための映画だった。そこに、『アズミ・ハルコは行方不明』の蒼井優や高畑充希、太賀(現・仲野太賀)、葉山奨之や、『ここは退屈迎えに来て』の橋本愛、門脇麦、成田凌たちが、持ち前の演技力を炸裂させ、それぞれの世代の叫びを、輝かしい若さを、スクリーンに焼き付けた。そこに、憂鬱な毎日をやり過ごして生きている同世代の観客は同じようにエモーショナルな何かを見つける。かつて同じような時期を通り過ぎた人には懐かしさや照れくささを感じさせる何かにもなり得るだろう。

 ただ、一点、この若さの集合体のような映画は、誰かにとっては何も残さない映画になってしまう危険性を含んでいることも言及せずにはいられない。方やミュージカルテイスト、方やアニメーションで締めくくられる両映画の終盤は、美しく、カッコイイのであるが、それでどうなのだと思わずにいられないほど空虚だ。なぜなら、そこには彼らの停滞を解決させる糸口がほとんど示されていないからだ。

 その点、『あのこは貴族』(2016年,集英社刊)は違った。東京生まれ東京育ちのお嬢様・華子と、地方出身で上京し、バリバリ働いて生きてきた美紀の邂逅の物語。

 「閉塞した場所」は地方都市に限らないということを示した点で出色の作品であり、失踪することでしか自由を得られなかった彼女たちが、ちゃんと実際的な方法で、自身を解放する手段を獲得しているという点で、前述した2作品と大きく違っている。

 その背景には、2017年初出、今年6月に発行された『メガネと放蕩娘』文庫版あとがきにおいて、「若さを持て余し投げやりな態度で、寂れた地方都市に生きる女の子たちの姿には物憂げな美しさがあります。しかしそれが許されるのはせいぜい20代まで。(中略)年齢や立場が変わったこと、そして地元を「退屈だ」と罵ったつぐないとして、もっと実際的な物語を書かねばと思うようになりました(p.284)。」と清々しいほどあっさりと手のひらを返していることからわかるように、山内マリコ自身の心境の変化があると言えるだろう。

 自分は、彼らの世界からあまりにも遠い、辺鄙な場所に生まれ、ただわけもわからず上京してきた、愚かでなにも持たない、まったくの部外者なのだ。でもそれって、なんて自由なことなんだろう(『あのこは貴族』,集英社文庫,p.252)。

 山内マリコ至上最も清々しく、女性たちの解放を描いたこの物語が映画化されることを嬉しく思う。山内マリコ作品は2度目になる門脇麦が、『ここは退屈迎えにきて』とは全く対照的な超お嬢様を演じるというギャップにも期待である。(藤原奈緒)

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