Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

米津玄師、King Gnu、Official髭男dism……それぞれの楽曲に含まれた“切なさ”とは何なのか 楽曲/メロディ構成を分析

リアルサウンド

20/2/9(日) 8:00

 一応音楽ディレクターの屋号を掲げてポピュラー音楽制作業に従事している身にも関わらず普段全くと言っていいほど「J-POP」(以下、「現在流行しているメジャーな邦ポップス」としてこの語を使っています)を聴かないという体たらくの私に、リアルサウンドの編集部が与えたお題はズバリ「心の琴線に触れる切ないメロディとは何なのか、米津玄師、King Gnu、Official髭男dismそれぞれの楽曲から分析すべし」というものでした。米津玄師も、King Gnuも、Official髭男dismも、それぞれ名前だけは知っている、あるいは街なかに流れる有線放送でなんとなく耳にしているくらいのレベルの私が、そんなだいそれた原稿を書いていいものかどうか逡巡するわけですが、こうした御託を並べるのも、「そんな原稿書きません」と無下に断るのも、ただのインディー・スノッブ的な逃げ仕草のように思われそうだし(というか悪いことに普段の私は実際にそうだと思う……)、ひとつ自分の勉強のためにも、ここは初心に戻って虚心坦懐、いただいたお題通り、3組の音楽とそのメロディに触れ、思ったことを書いてみたいと思います。

(関連:King Gnu「白日」MV

 まず、編集部がお題を掲げる時点で自明のこととして捉えられている「3組のメロディは切ない」という捉え方。本当に「切ない」のかどうか、ほとんど彼らの音楽を初めてきちんと聞く人間として、それぞれのアーティストの代表曲とされる曲「白日」「Lemon」「Pretender」等々の歌メロディを参照しながら考えてみたいと思います。

 初めに特徴的な傾向として観察されたのが、特にサビ(とJ-POP界においていわれる部分)を感情的なピークとして据えるメロディ構成を3組とも完璧に内規化しており、まさに気迫満々という点です。

 たとえば「白日」においては、AメロからBメロ、サビと進行していくにつれ、徐々に譜割りが細分化(あるいは単純化)していく過程を捉えることができるでしょう。コード進行やハーモニー自体の特異さということで言うと、Aメロの巧みさが目立つわけですが、むしろアレンジやダイナミズムも含めた聴感上のクライマックスはギター常田大希のローキーな歌唱とそれに続く井口理が主導するサビ部での合唱に明確な絶頂点が置かれているように思います。その傾向はまた、2:53の(ロング)ハイノートをピークとして大サビ~キーチェンジという構造の中で再生産的にインフレーションしていきます(このメロディの工程を、楽曲自体が個人の独白的性格から集団へ訴求するアンセム的存在へ変遷していくストーリーとして捉えてみることも可能でしょう)。

 「Lemon」の場合はよりわかりやすいと思います。「サビで最高音に到達する」というJ-POP黄金のセオリーがかなり忠実に守られているため、アレンジにおける静から動への変遷(またはその揺り戻し)と相まって、歌詞内で謳われる感情的なストーリーを劇的に演出し、またそれと過不足なく呼応しています。「Pretender」についても、実際のノートを追うとサビ以外にもアクセント的に高音が織り交ぜられていますが、サビ部においては特に際立って高音域を中心としたメロディ構成になっているため、聴き手に情動の爆発ともいえるような印象を与えることになっています。

 また、各小節~バース/コーラスといった単位内での音程起伏の豊かさというのも全ての組に共通する特徴でしょう。かつての歌謡曲のヒットソングとこれらの楽曲をカラオケで続けざまに歌ってみるとよく分かるかと思うのですが、(そもそも高いオリジナルキーを低めに設定したとしても)歌の素人にはなかなか再現の難しい高低差と緩急を孕んだメロディラインであることが納得されるでしょう。私見においては、こうした傾向は過去数十年を通じて進行してきた上、今まさにインフレーションとでもいうべき状況を形作っているように思います。

 これに関連して、先に「白日」の分析で述べたことにも関連し(ややリズム論的な範疇にも近づくことになってしまいますが)、歌メロの譜割りにおける過去の音楽に比べての相対的な微細化というのも3組の特徴として挙げられそうです。J-POP史的には、たとえば「小室サウンド」などからの潜在的影響ということも論じられる可能性がありますが、ここで主題となる「切なさ」という点に引き据えていえば、その矢継ぎ早で性急な聴感から、情動的次元において聴き手に対して焦燥や感情のドライブ状態を喚起することになる要因の一つと捉えることもできるでしょう。

 もう一つ、これもかねてよりJ-POPの黄金率として語られていることですが、あらためて日本のチャートトッパーたちというのは、トニックからドミナントへの動きにおけるマイナーコード/特定のノートの類例的使用(あえて単純化して言っていますが)を本当に繰り返し愛用してきたのだなということが再確認されるのでした。これは、いわゆるポップスの定形としての循環コード進行から連なる方法論的磁場が(マーケティング的な要請もはらみながら)非常に強固なパラダイムを(ときに無自覚に)形作っている証左でもあると思いますが、3組の楽曲を、そうしたパラダイムをアレンジ面のアイデアを導入しつつ(ときに循環コード的手法をも大胆に超えて)磨き上げた発展変奏版にして決定版として捉えることも難しくはないでしょう。昨今の海外(欧米)のチャートトッパーたちと比較してもらえれば瞭然かと思いますが、ジャンル問わず、これほどまでにいわゆる「楽曲然」とした楽曲が多数を占めているのがJ-POPの特徴かと思いますし、また何をもってその楽曲が「いかにも楽曲っぽい」か決める要素として、先述のような楽曲全体を通した明確な展開付けと並んで、往還的な構造ならびに往還的なメロディ(だからといっていわゆる「ミニマル」というわけではなく、もっと主情的で自己完結的なストーリー性を内包したもの)があることは明らかでしょう(このあたりをつかまえて、J-POPメロディのガラパゴス的性質を論じるのがこの間流行しているのはご存知の通りです)。

 こうして見ていくと、いわゆる「J-POP」というものは、様々な音楽の中でもひときわ目立った形で情動的なストーリー構築をその主眼に置いている様態と見倣すことができるでしょう。またそうした傾向は、現在J-POPの最前線を走っているとされる米津玄師、King Gnu、Official髭男dismにもっとも鮮やかな形で顕現しているとみるべきなのかもしれません。さらに言えば、ここにいう情動的なストーリー構築とはそのまま、一般的な用語としての「切なさ」と言い換えることも可能かもれません。

 サビを感情の表出のピークとして構成するのは、ある種の俗化されたロマン派的鑑賞法が作法へ逆反射しているというべきものですし、音程の極端な起伏や矢継ぎ早な譜割からは、上述のような焦燥とともに、ある一定の心的状況への固着(=ムード)から逃れるように痺れを切らしながら常に心移りしていくという青春期的(?)エモーションの表出と呼応するもののようにも思います。また、それを包摂する往還的語法が、感情の反芻と強化を補完し、「切ない(エモい)ストーリー」を完成させる……。

 ところで、最新の音楽美学の研究分野においては、「ある曲(この問いでは、純粋にメロディにフォーカスし、歌詞の持つ意味性については除くものとします)を聴くと切なくなるのは、その曲が切ないという性質を内在的に持っているからだ」という従来あった素朴な常識が突き崩されつつあるといいます。

 たしかに、まずもって文化論的次元からも、むしろその「切なさ」は、過去折々で繰り返されてきた聴取/受容/理解が育んだ文化的反応(=こういうメロディには悲しいと歌詞が伴いがちだ/こういうメロディの曲は切なさをさそう場面でよく使われている)が、反射的に楽曲の持つ性質として蓄積され投影されているに過ぎないとすることが可能でしょうし、音楽美学的側面においては、「ペルソナ説」=「切ない曲とは、聴取者たる自分とは別の、切なさを抱く架空の存在を想起させる曲であるとする説」や、「類似説」=「切ない曲とは、強い情動を感じているときにある主体が振る舞う特徴(例:過度に情緒的になり矢継早なテンポで話をするとか、身振り手振りを繰り替えるとか)とその曲の構造が類似している曲であるとする説」という、非実在論的解釈がヘゲモニーを握りつつあるようです(たしかに、翻ってみると、そもそも音符の羅列であるメロディに内在的な美的性質があると考えるのはプラトン主義者でも無い限りもはや妥当性があるとは思えないでしょう)。

 そうした視点で改めて米津玄師、King Gnu、Official髭男dismらの楽曲を聴いてみると、まさにそれらが「心の琴線に触れる切ないメロディ」を持つという理解が、まったくもってその通りであると確認されるでしょう。J-POPの伝統を深く受け継ぎながら磨き上げられた文化的構成物として、すでにして「切なさ」を惹き寄せる性質。あるいは、「類似説」的な理解から導かれる擬人的な楽曲/メロディ構成。そしてまた、「ペルソナ説」的理解から導かれる、投影的存在としていくらでも架空的鑑賞者を代入することが可能なような、典型的メロディ展開と、それを下支えする循環的な再生産構造。これらはおそらく別のことを指しているようでいて、もしかすると深く関連し合いながら同圏域に属している事柄なのかもしれません。

 本当に、こうやって考えてくると、米津玄師、King Gnu、Official髭男dismの楽曲は確かに多くの人から共感を得て、爆発的なセールスを挙げているというのも当然という気がします。けれど、そういった「大文字の切なさ」みたいなものがどうしても苦手(スミマセン……)な私としては、自身が普段きょうびのJ-POPをほとんど聴かない理由もこれまで以上にはっきりと見えてきたのでした……。

 おそらくマーケティング/商業上の要請も合流する形で、今後ますますこういった「切ない」音楽が巷を席巻することでしょう。そのたびに虚心坦懐、いろいろと考えていきたいところであります。結句、私に巣食う「普段J-POP聴かないぜ」というような鼻持ちならない「インディー・スノビズム」のようなものにしても、「切ないメロディ」に心動かされる人が多くいるという事実と、美学的な次元では(どちらが文化的に有意な批評対象として優れているかという議論に立ち入るということを保留するなら)極めてパラレルなことなのですから。

参考文献:源河亨(2019)『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』慶應義塾大学出版会

(柴崎祐二)

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む