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『ビューティフル・ボーイ』は今こそ観るべき1本 ドラッグ依存症に立ち向かうサポートと愛とは

リアルサウンド

19/4/4(木) 12:00

 日本において、覚醒剤や麻薬、大麻などの所持、使用が問題なのは、何よりもまずそれが法律で禁じられているからだ。では、そもそもなぜ、法律で禁じられているのか。その主な理由は、それらの薬物が持つ、高い依存性にある。摂取を繰り返すうちに、その量や頻度が増え、より強い効果を持つものを欲するようなり……いつしか、自分の意思ではコントロールできない状態になっていく。それが“依存症”の内実であり、それはもうある種の“病気”なのだ。よって、何らかの“治療”を施さない限り、その症状は日々進行し、決して“回復”することはない。そこで誤解してはならないのは、“依存症”とは、“自分の意思ではコントロールできない”からこそ“依存症”なのであり、本人の力だけではどうにもならないということだ。そこには、家族や友人、そしてリハビリ施設や自助グループなど、第三者によるサポートが必須となってくる。

参考:ドラッグ依存症に抗う愛

 映画『ビューティフル・ボーイ』は、13回の依存症再発のため、7つの治療センターを訪れた青年の8年間の軌跡を、その当事者である青年(ニック・シェフ)と、彼を支え続けた父親(デヴィッド・シェフ)がそれぞれの視点から描いた2冊の回顧録をもとにした、いわゆる実話ベースの映画となっている。「ドラッグ中毒を扱った映画でのいちばんの不安は、いつものハリウッドの手法になってしまって、本当に起きたことを描かないんじゃないかということだった。しかし、この脚本は残酷なまでに正直だった。英雄も敵役も存在しない。我々が生きているこの世界を描いていたんだ」。父親デヴィッド役を演じるスティーヴ・カレルが語るように、この映画には親子の危機を救ってくれる“英雄”も、彼らを陥れようとする“敵役”も登場しない。そもそも、ティモシー・シャラメ演じる息子ニックは、いわゆる“不良”とは程遠い、成績優秀、スポーツ万能の青年であり、貧困とも無縁の環境で育ってきた。そして、スティーヴ・カレル演じる父親デヴィッドは、ジョン・レノン生前最期のロング・インタビューを担当したことでも知られる、著名な音楽ライターだ。

 幼い頃から父親デヴィッドにとって“最愛の息子”であったニックは、なぜ薬物依存に陥ってしまったのだろう。「息子の身に何が起こったのか?」、そして「彼を助ける方法は?」。切実な面持ちでカウンセラーに問い掛ける父親デヴィッドの言葉から、この映画はスタートする。事態は何の前触れもなく、ある日突然発覚した。2日間の無断外出を経て帰宅したニックは、デヴィッドが知らないあいだに重度の薬物中毒になっていたのだ。その現実を重く見たデヴィッドは、更生施設にニックを入所させるが、その治療期間中にニックは施設を抜け出し、再び行方をくらませてしまう。そして、ボロボロになった姿でデヴィッドに発見されるのだ。幼き日の記憶や、大学入学時の意気揚々としたニックの晴れやかな姿など、父子の幸福な回想シーンを交えながら、最悪の現実は幾度となく繰り返される。信頼と裏切り、そして謝罪。そう、この映画には、いわゆる“起承転結”のようなわかりやすい物語は存在しないのだ。それがなぜ起こったのか。そして、なぜ繰り返されるのか。それらがわかりやすく説明されることはない。なぜなら、当の本人たちにとっても、なぜこうなってしまったのか、いったいどこでその道が分かれたのか、わからないのだから。そこにあるのは、無残な現実と、その現実の前で途方に暮れる、彼らの苦悩と葛藤の終わりなき日々だ。しかし、本当にそうなのだろうか。

 映画の中に、こんなシーンがある。小さい頃から親子で通っていた思い出のカフェに呼び出され、ニックから金の無心をされるデヴィッド。それを拒否した彼は、ニックにこう言い放たれる。「“自慢の息子”だったから、今の僕が嫌いなんだ」、「これが僕なんだ。こんな僕は嫌い?」。そして、ニックはデヴィッドのもとを去っていく。そう、彼は今の自分を恥じつつも、いまだに父親を愛しているからこそ、そんな自分を受け入れてもらいたいのだ。けれども父は、そんな息子の今を、心のどこかで受け入れることができない。「私のビューティフル・ボーイはどこに? そしてお前は誰だ?」。むしろ、さらに大きな“愛”によって、この“現実”をかき消すことができると思っているのだ。すれ違う2人の“愛”。お互いがお互いのことを愛すれば愛するほど、その“愛”がもう一度、2人を引き裂いていくのだ。その痛切なリアリズムに、涙を禁じることはできない。

 ティモシー・シャラメは、この映画が提起するもののひとつに、「“意志の力”についての誤解」があるという。「(この病から)抜け出そうとしない彼が悪いと決めつける以上に複雑な問題が、そこにはあるんだ。それは、ドラッグ中毒以外の問題についても同様だと思う。だから、人の葛藤を理解してあげること。そして、家族のサポートと愛が、いかに大事なのかということ。最終的には、家族の愛と忍耐力で、その状況を打破することができると思うから」。そう、ときに感情をぶつけ合い、お互いを傷つけ合いながらも、彼ら父子は、あきらめることだけはしなかった。この映画のタイトル・テーマでもある、ジョン・レノンの「ビューティフル・ボーイ」の一節ではないけれど、「人生は長い道のり。あらゆることは、日々少しずつ良くなっていく」ことを、心のどこかで信じて。

 とかく我々は、目の前に起こった現実を短絡的に判断しがちである。とりわけ、最悪な出来事が起こったときは、即刻何らかの判断をくだし、その現実から目を背けようとする。しかし本当に、それでいいのだろうか。それよりもまず、その現実を受け入れ、その内実を理解しようとすること。そして、ある種の忍耐力をもって、その状況を長期的に打破しようとすることが、何よりも肝要なのではないだろうか。それは何も、血の繋がった親子や家族に限った話ではない。「それは犯罪だから」……そう言って、即座に非難し断罪する、あるいは自粛するのは、とても容易いことだ。しかし、薬物依存がニックという人間の一部であってその全部ではないように、犯罪はその人間の一部であり全部ではないのだ。奇しくもこのようなタイミングでの公開となった映画『ビューティフル・ボーイ』ではあるけれど、このようなタイミングだからこそ感じられるものも、きっと多いのではないだろうか。その意味で、今こそ観るべき一本と言えるだろう。 (文=麦倉正樹)

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