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川本三郎の『映画のメリーゴーラウンド』

『月は上りぬ』『お嬢さん乾杯』にでてくる、ジョイス、ショパン、万葉集。この映画の若者たちは誰も教養がある。

隔週連載

第61回

20/10/13(火)

 田中絹代が監督した『月は上りぬ』は、安井昌二が北原三枝に言うセリフがひどく乱暴なのは困るが、基本的に、法隆寺や二月堂など奈良の落ち着いた、まさに「まほろばの大和」が描かれていて好きな映画。
 1990年代の終わり、JTBで発刊されていた旅の雑誌『旅』の仕事で、そのロケ地を歩いたことがある(単行本『日本映画を歩く ロケ地を訪ねて』1998年、JTB刊)。
 映画の冒頭、父親の笠智衆が三人の娘たち、山根寿子、杉葉子、北原三枝と能の謡曲のおさらいを、ある寺でする。この寺は、東大寺の塔頭(たっちゅう)、龍松院と分かった。取材で訪れると、いまは亡い住職の筒井寛秀さんが応じてくれた。
 案内していただいた部屋はまさに『月は上りぬ』の撮影に使われた部屋だった。さらに長老は気さくな方で、撮影中の田中絹代を自分のカメラで撮った写真まで見せてくれた。
 老師は戦前、東京の大正大学で学んでいた頃、映画が好きで日劇や新宿の武蔵野館によく映画を見に行ったという。オートバイにも乗った昭和のモダンボーイだった。
 長老に『月は上りぬ』の撮影当時の話を聞けたことは、いい思い出になっている。

 『月は上りぬ』は、次女の杉葉子と、電話技師で東京に住む三島耕との恋愛が描かれる。いまふうにいえば東京と奈良の遠距離恋愛。二人は電話ではなく電報を打ち合う。電文は「三七五五」「六六六」と数字が書いてある。
 家族は何の数字だろうといぶかる。やがて万葉集の歌の番号とわかる。三七五五は「うるはし吾(あ)が思ふ妹(いも)を山川を中に隔(へだた)りて安けくもなし」。六六六は「相見ぬは幾(いくば)く久(ひさ)もあらなくに幾許吾(ここだくあれ)は恋ひつつもあるかし」。「遠くにいる君が恋しい」「久しく会わないわけではないが君が恋しい」といった恋の歌。古い都、奈良を舞台にした映画らしい趣向になっている。

 『月は上りぬ』には、クラシックの名曲が愛のテーマとして使われている。ショパンのピアノ曲『幻想即興曲』。
 ジョイス、万葉集、そしてショパン。この映画の若者たちは誰も教養がある。
 ショパンの『幻想即興曲』が何度も流れた映画がある。木下恵介監督の『お嬢さん乾杯』(49年)。
 銀座裏で自動車修理工場を営む、「金儲けがうまい」と自称する青年、佐野周二が、没落華族のお嬢さん、原節子とお見合いをしてひと目惚れしてしまう。
 といっても育ちが違い過ぎる。相手は学習院出の令嬢。こちらは高知出身の山育ち。その格差に引け目を感じてしまう。
 二人の育ってきた環境の差をあらわす場面がある。お嬢さんは家が没落し、ピアノを売らざるを得なくなる。それを知って佐野周二が新しいピアノを贈る。
 お嬢さんの家でパーティがある。女友達が集まってくる。お嬢さんが新しいピアノを弾くことになる。
 曲はショパンの『幻想即興曲』。もちろん山出しの青年ははじめて聴く曲。お嬢さんの演奏のあと、女性たちにせがまれて青年が歌を歌うことになる。高知出身らしく民謡の『よさこい節』。ショパンと民謡。二人の育ちの違いが出ている。
 そのあと佐野周二が『幻想即興曲』のレコードを買ってきて、行きつけの酒場に行き、店の電蓄で聴くのが微笑ましい。なんとかお嬢さんの世界に近づこうとしている。
 この酒場のマダムを演じているのは新劇出身の村瀬幸子。佐野周二の応援をしていて、お嬢さんの原節子に「男の値打ちは心意気ですからね」と彼女の背中を押す。そして二人は結ばれてゆく。

 お嬢さん、原節子の父親(永田靖)は、経済事件に関わり、小菅の東京拘置所に入れられている。おそらく世間知らずの華族の当主が、戦後の闇市を動かす連中に判を押したか何かしたのだろう。
 没落してピアノまで売らなければならなくなったうえに父親は犯罪者として拘置所に入っている。お嬢さんの大きな引け目になっている。この映画で原節子が終始、暗い表情をしているのはそのためだろう。その暗さが実に美しいのだが。
 ある日、原節子は拘置所に父親を訪ねる。父親に結婚のことを告げる。その日、佐野周二が車でお嬢さんを乗せて荒川放水路を越えた小菅の拘置所に一緒に行く。そして彼女の不幸を知って、いっそう彼女を守らなければと決意する。
 帰り、佐野周二が荒川放水路と綾瀬川のあいだの中土手に原節子と共に立って、「金を儲けるぞ」と誓うように言うのは、まさに「心意気」を感じさせる。
 撮影場所は堀切菖蒲園の近く。遠くに京成電車の鉄橋が見えている。

 

イラストレーション:高松啓二

紹介された映画


『月は上りぬ』
1955年 日活
監督:田中絹代 脚本:斎藤良輔/小津安二郎
出演:笠智衆/佐野周二/山根寿子/杉葉子/北原三枝/安井昌二/増田順二



『お嬢さん乾杯』
1949年 松竹
監督:木下恵介 脚本:新藤兼人
出演:佐野周二/原節子/青山杉作/藤間房子/佐田啓二/坂本武/村瀬幸子
DVD:松竹



プロフィール

川本 三郎(かわもと・さぶろう)

1944年東京生まれ。映画評論家/文芸評論家。東京大学法学部を卒業後、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」「朝日ジャーナル」の記者として活躍後、文芸・映画の評論、翻訳、エッセイなどの執筆活動を続けている。91年『大正幻影』でサントリー学芸賞、97年『荷風と東京』で読売文学賞、2003年『林芙美子の昭和』で毎日出版文化賞、2012年『白秋望景』で伊藤整文学賞を受賞。1970年前後の実体験を描いた著書『マイ・バック・ページ』は、2011年に妻夫木聡と松山ケンイチ主演で映画化もされた。近著は『あの映画に、この鉄道』(キネマ旬報社)。

出版:キネマ旬報社 2,700円(2,500円+税)

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