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荒木経惟 写真に生きる 写真人生の出会い

世界のARAKI、世界の美術館との出会い。 30カ国以上の国で個展を開催。

全11回

第9回

19/2/24(日)

初めての海外での展覧会
写真の行為を見せる「恥部屋」を出した

 俺の展覧会、これまでに世界でどれぐらいやったのかなぁ。10年ぐらい前に、俺の個展やったのが25カ国以上って言ってたからね、30カ国を超えるのかな。
 グループ展だけどね、一番最初に展覧会で海外に行ったのがニューヨークなんだよね。初めての海外旅行で、初めてのニューヨーク。もう40年ぐらい前になるのかなあ。コーネル・キャパと山岸章二【註1】さんがやった日本の写真の展覧会だね。(1979年、コーネル・キャパと山岸章二の企画によるグループ展「Japan: A Self-portrait(自写像 日本)」がニューヨークのICP〈国際写真センター〉で開催され、「Pinups(私の恥部屋)」を出品。1971年に電通の仕事で復帰前の沖縄に行ったのを除けば初の海外旅行。)

 俺は「恥部屋(ちべや)」の写真を出したんだ。今、俺が出すとしたら、これだって。神楽坂にあった部屋(事務所)を撮った写真だよ。見せ方がさ、今の時代は、これだと。写真のコトをやっているということを、さらけ出す。それまでの名作を1点1点、この写真がいい、これがいいというのではなくて、見せ方まで、行為までも見せなきゃ。自分の部屋中に写真を展示していたからさ、それも全部、写真の行為であるということをね。それで「恥部屋」を選んだの。恥部屋を撮った写真を何点も出したね。この名作がいい、これがいいと、そういうのじゃないんだよね。
 最初は向こうが、こんな写真を出して欲しいって言ってくるじゃない。でも俺は「恥部屋」を出すって言ったら、あんまりいい顔しなかったけどね。俺は、これを出したいって言ったんだ。

 山岸さんはさ、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の(ジョン・)シャカフスキー(キュレーター)と組んで展覧会もやったりしてね。日本の写真をアメリカに広めたのはのは山岸さんの功績だよ。(1974年にMoMAで開催された「ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィー」展を山岸とジョン・シャカフスキーが企画。当時の日本を代表する写真家の作品を初めて本格的にアメリカに紹介した。) 

1979年、山岸章二と荒木。荒木の初めての海外旅行となったニューヨークのグループ展「Japan: A Self-portrait(自写像 日本)」(コーネル・キャパと山岸章二の企画)の会場にて。
当時、荒木の神楽坂にあった事務所「恥部屋」 。ニューヨークの展覧会には、この写真を含め「恥部屋」を撮影した作品を出品した。1979年撮影。

1992年にオーストリアで初個展
写真集で家宅捜索を受ける

 海外で初めて個展をやったのは「アクト・トーキョー」(「AKT-TOKYO 1971-1991」【註2】だったんだよ。最初がオーストリアで、ヨーロッパ中のいろんな都市を回ったんだ。(1992年、海外での初個展をオーストリアのグラーツ、フォルム・シュタットパルクで開催。以降、95年までにヨーロッパの各都市を巡回。)
 その展覧会のカタログをパルコギャラリーの個展の時に販売していたら、責任者が捕まったんだよね。俺の豪徳寺の家と事務所も家宅捜索されてさ。俺は沖縄にロケに行ってて、いなかったんだけど、電話がかかってきてね。その後、事情聴取で桜田門にも行ったよ。(1993年、写真展「エロトス」〈パルコギャラリー〉の会場で販売されていた「AKT-TOKYO 1971-1991」展のカタログが猥褻図画に当たるとして、ギャラリー責任者が逮捕されるが不起訴処分となる。共謀の疑いで荒木も事情聴取と家宅捜索を受ける。)

 その頃に撮った写真があるよ。『東京人』の取材だったかなぁ、隅田川のほうに行って、帰りに都営新宿線に乗ったらね、『週刊文春』と『週刊新潮』の中吊りが並んでいてさ。すぐに記念撮影したんだよね(笑)。

週刊誌2誌に載った「逮捕」の記事の中吊りと記念撮影。1993年撮影。

1997年、ウィーンのゼセッションの
設立100周記念展に選んでくれた

 前にも話したけど、海外でやった写真展で、親父を一番連れて行きたかったのが、ウィーンのゼセッションなんだよね。ゼセッションの100周年記念に俺を選んでくれて、展覧会をやってくれた。自分とこの作家じゃなくてさ、日本の写真家で、俺まだそんなに知られてなかったと思うけどさ、招いてくれた。すごいよね。嬉しかったね〜。(1997年、オーストリアを代表する画家、グスタフ・クリムト擁するウィーン分離派〈ゼセッション〉の結成100周年の記念事業として、ゼセッション〈分離派会館〉から個展を依頼され、それまでで最大規模の個展「Tokyo Comedy」を開催。荒木はオープニング・レセプションに出席するため16年ぶりに渡欧し、熱狂的に迎えられた。)

1997年、オーストリア、ウィーンのゼセッションの設立100周記念展として、個展「Tokyo Comedy」を開催。オープニング・レセプションに出席し、出席者の拍手に応える荒木。(DVDアラーキー「A LIVE Nobuyoshi Araki Overseas 1997-2000」〔発行:QUEST〕より)

2008年、オーストリアから
最高位の勲章を贈られた

 オーストリアからは勲章をもらったんだよね。本当は向こうに行かなきゃ行けなかったんだけど、行きたくないって言ったら、大使館でやってくれたんだよ。(2008年、世界的に活躍する芸術家、科学者に贈られるオーストリア国最高位の「オーストリア科学・芸術勲章」を日本人として初めて受章。オーストリア大使館で「勲章伝達式」が行われた。)
 大使館のレセプションに招待客を呼ぶっていうんで、普通は偉い人や有名なのを呼ぶらしいけど、俺は有名人やエライ人より、年中一緒にやってるヤツを呼びたいって言って、招待状を出してもらったんだ。そしたら、なんだよ〜、いつもとおんなじメンバーじゃないかって(笑)。鈴木清順さんだけだったよな、著名人って。それと立花隆ね。立花は、(都立)上野高校の同級生でね、どんなにすごい勲章かって、説明してくれたのが立花なの。荒木、これはすごい賞だぞって言ってさ。ワハハ(笑)。

 (ハインツ・フィッシャー)大統領の祝辞っていうのを大使(ユッタ・シュテファン=バストル駐日大使)が読んでくれてね。生涯会員っていうのがあってね(オーストリア科学芸術アカデミー生涯会員)。誓約書があるんだよ。死んだら返せとか。なんだこりゃっていうのがさ。人数が決まっているんだってさ。死んだら入れ替わるらしいんだけどね。俺が外国で賞を獲ったって言ったら、そんな大きい賞だとは誰も思わないじゃない。でもさ、立花が説明してくれたから、やっとわかったんだよね。周りにいるヤツらも、立花さんが説明してくれて、やっとわかったってね(笑)。音楽家でも勲章もらっているのは、みんな前衛のヤツだったからさ。みんな不思議がっているんだよ。あれ、立花さん?って。俺のお友達って思わないもんな。あいつ、やっぱり、説明うまいな(笑)。立花のおかげで男があがったんだよね。

 大使館の後の二次会は六本木のバニーガールがいるところでやったんだよ。そこにカラオケ入れろって言ったら、大使とか向こうから勲章を渡しに来てくれたのとか、喜んじゃってね。もう、大騒ぎしたんだよ(笑)。

2008年9月26日にオーストリア大使館で行われた勲章伝達式。日本人として初めて、オーストリア国最高位の「オーストリア科学・芸術勲章」を荒木が受章。都立上野高校の同級生であるジャーナリストの立花隆が乾杯の音頭をとった。(写真:インタビュアー撮影)

2005年、ロンドンのバービカンで
大規模な個展

 ロンドンのバービカンでやった展覧会もすごかったんだよね。写真集も並べてさ。オープニングにも、向こうじゃものすごいミスなんとかというのを揃えてくれるのよ、歓迎するために。お、イギリスもわかっているなって(笑)。ミック・ジャガーの娘も来てくれたね。

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