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ヤバい場所に行き、同じ釜の飯を食うことの意味とは? 書籍版『ハイパーハードボイルドグルメリポート』が伝える、撮影の裏側

リアルサウンド

20/4/23(木) 12:00

 『ハイパーハードボイルドグルメリポート』という番組が始まって以来のファンだ。ただ正直に書くと、この番組が始まったときには、興味本位で「ヤバい」場所に行く番組が始まったのかと思ったことも事実だ。今でも、この番組をまだ観ていない人に薦めると、同様のことを言われることもある。

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 しかし、初回の放送を観ただけでも、その偏見は間違っていたと思えた。タイトルの印象とは逆で、単に、我々の知らない刺激的な出来事=「ヤバい」ものを追っているわけではないと分かったからだ。

 これまでの放送の中では、ケニアの青年と出会う回が忘れられなかった。巨大ゴミ処分場の奥に暮らすジョセフという青年は、表情は暗いし、決して愛想がいいわけじゃないけれど、少しずつ、この番組のプロデューサーで、ディレクターを務める上出遼平さんに心を開いていく。

 尖らせた唇は一見不満げで、表情がくるくる変わるわけではないけれど(ほかのケニアのおじさんや青年はもっと笑ったり目を丸くしたりしている)、悲しい思い出を語るときには横を向いたまま口数が少なくなる。尖った唇は、上出さんとの距離が縮まると、あどけなさにも見えてくる。顔の筋肉の動きが少ないのは、じっと考えている証拠だし、それによって、心の動きがより一層見えるから印象に残っていたのだった。

 テレビドキュメンタリーはここ数年、たくさん観てきたつもりだが、ここまで短期間で人と奥深くで関わりあう番組は知らなかった。もっと驚いたのは、このテレビシリーズを観ただけでもたくさんのものが伝わっていたし、衝撃を受けていたというのに、本を読み始めると、文章には、その何倍も情報量があり、また上出さんの思いが詰まっていたということだった。正直、このコンテンツは(と言ってしまうには軽すぎる響きであるが)、映像と本があってこそ完成するものではないかとすら思った。だから、これからも取材が積み重ねられる度に文章も発表されてほしいと思う。

 本の中だけに見えるものには様々なことがあった。例えば、ケニアのイースリーという街に行ったことが書かれている箇所がある。ここは「ナイロビの中でも近年急速に治安が悪化していると言われている場所」だが、実際には商売の上手なソマリア人が多い地域なため、「4階建てから高いもので10階建てにまでなる建物」があり、ショッピングセンターだらけだったのだ。つまりは、日本にやってきている情報と実際の姿とがかけ離れていたのである。

 そして上出さんは、そこで「街が大きく、人が多すぎて誰かの“顔”までが遠かった」から「血の沸き立つ何かを見つけられない」と感じていた。“顔”という言葉に私ははっとする。人にはそれぞれの“顔”があり、それぞれの生活があるのに、それをひとまとめにして個々の“顔”を見ない人がたくさんいると思っていたし、それが支配・被支配の構造や、大衆をネグレクトすることにつながっているなと考えていたからだ。

 実は、この本には、“顔”が見えないことに対してフラストレーションを抱えている箇所がたくさん出てくる。例えば、台湾のマフィアのところに行ったとき、彼らは快く上出さんをもてなすが、それは東京から来たマスコミが喜ぶような「マフィア」を演じているだけで、それ以上のことが出てこないことを、がっかりした気持ちとともにつづっていたし、ロシアのカルト教団の元を訪れた際にも、信者たちの、おもてなしは手厚いのに、どこか何かに遠慮していて、思っていることが語られないことに、毎日悩まされていた。

 そんなフラストレーションや裏話については、番組内では語られなかったが、観ているこちらとしては、何か想像の範疇を超えない“刺激”を見せられているような気持ちになり、物足りないなと思っていた部分であった。台湾マフィアの大物が「大事にしているものは?」と聞かれ「兄弟仁義」と答えていることに、視聴者として「親日家でキャラの面白いマフィアだな」などと喜ぶわけにはいかなかった。

 しかしこれは、インタビューの仕事をしている私にも思い当たることだ。誰が言ってもかわらない定型文や、その立場の人ならば、誰もが思うであろうことをなぞるような会話しかできなかったときは(こういうのをポジショントークというのだろうか)、その人がどんなに親し気でいい人そうであろうが“顔”が見えないと感じるし、せっかく時間を取ってもらって行ったインタビューが不発に終わったようで悲しくなってしまう。もちろんそこには自分の力量や相性があるにしても。

 それを求めることを、「撮れ高」と言ってしまうとドライに聞こえるし、「撮れ高」にこだわることはテレビマン(やライター)の傲慢さにも繋がっているようにも感じてしまうが、それは「撮れ高」の基準をどこに置いているかで違ってくる。

 「これくらい押さえていれば視聴者は満足するんでしょ」とか「ケニアのゴミ山の景色は珍しいでしょ」という態度は傲慢だが、そこに生きている人と、どこまで深いところで会話をするのかという基準の「撮れ高」を求めることは傲慢とは真逆の態度となるはずだ。

 先に書いたジョセフと上出さんのやりとりは、これまで放送された中でも特に濃密であることは画面からも伝わっていた。しかし、本を読むと、そこには画面から伝わる以上のものがあり、一日限りのラブロマンスのようにも思えた。

 その短い時間の中には、ドラマのように二人を分かつ出来事すらあった。ゴミ山の道端で車が横転し、それがちょっとした騒動となり、上出さんが目をとられているうちに、ふたりは離れ離れになってしまうのだ。広いゴミ山の中で、もう二度と会えないのではないかという不安が伝わってきた。その後、なんとか探し出して再会するのだが、こうした箇所は、決してテレビの中には収められていなかった(のはなぜだったのだろうか)。

 その後、ジョセフは米と豆を買ってきて、空き缶を鍋に「赤飯」を炊く。じっと見ている上出さんに「食べる?」「お金があればもっと良いものを作れたんだけど」と言うジョセフの、上出さんへの信頼と誇り高さに放送時も胸をつかまれた(それをことさら「誇り高い」とみる自分に偏見があるのではないかとも思えたのも事実だが)。そして、ジョセフと上出さんが「同じ釜の飯を食う」ことの意味が、大きく感じられた。食べている姿をお互いが撮りあっているということに、お互いの信頼や愛情やいろんなものが詰まっていた。その直前、ジョセフの背後には、信じられないほどに見事な虹もかかっていた。その映像は出来すぎているようにも見えたが、美しい真実だった。

 例えば映画にも、出会った人間同士が何かしらの強いシンパシーを感じ、同じ飯を食うことになり、そして心的に濃密な距離感になったとしても、何らかの問題が二人に立ちはだかることはある。それは、映画の場合は、国の分断であったり、相反する組織に所属している敵同士であったりという理由があるだろう。

 しかし、上出さんとジョセフの間にあるものは、もっと複雑である。先進国が便利を求めて作った化学物質から生まれたゴミは、ジョセフの体を確実にむしばんでいるし、格差社会による貧困が二人を隔てていることはいわずもがなだ。そして取材を通じて出会い、心を通わせたとして、そこからジョセフ「だけ」を救うということは、単なる感動のストーリーにしかならないし、世界に横たわる問題の解決にはならない。だからこそ、こうした番組が必要なのだ。

 私はこの文の最初に、「興味本位で『ヤバい』場所に行く番組が始まったのかと思った」と書いたが、上出さん自身もそんな企画書の旗印については、前書きに「いかにも粗暴、いかにも極悪」と書いている。本当は上出さんこそ、このキャッチ―なパッケージに違和感を持っていたのではないか。そして、それを自問しながら続けてきたのではないだろうかとも思えた。

 番組で訪れたリベリアのことを書いた章で上出さんは、カメラを向けることでお金を払うとはどういうことなのかに触れている。上出さんは「幾度金をせびられても、彼らを『卑しい人たちだ』とは思わない」としながらも、「我々が金を払えば、彼らの要求はどんどん高くなる」「彼らにカメラを向ける者がいなくなるのは、悲劇の始まりだ。彼らの置かれた状況は世の中に知られざるものとなり、いっそう隠され、為政者は意のままに声なき国民を蹂躙できるようになってしまう」と続けていた。

 こんなときだからだろうか。この一文が響いて仕方がなかった。(西森路代)

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