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坂道シリーズにも訪れたドキュメンタリー映画ラッシュの時期 “アイドル”というジャンルを省みる好機となるか

リアルサウンド

20/5/8(金) 6:00

 2020年の春に相次いで公開予定だった欅坂46と日向坂46のドキュメンタリー映画は、新型コロナウイルスの感染が拡大する今般の状況のなかで、公開が延期されたまま現在に至っている。本来ならば3月27日から日向坂46のデビュー1年目に密着した『3年目のデビュー』が、そして4月3日からは欅坂46の来歴を追う『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』が劇場公開されるはずだったが、現在まで公開日の目処は発表されていない。

(関連:「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on」予告

 これら2作品の上映が予定通りに始まっていたと想定するならば、昨夏公開の乃木坂46のドキュメンタリー映画第二作『いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46』と合わせて、この一年たらずの間に3つのグループの劇場用ドキュメンタリーが出揃うはずだった。いわば坂道シリーズは、ドキュメンタリー映画ラッシュの時期を迎えようとしていた。

 こうした連続的な劇場用ドキュメンタリー映画の製作は、今日の坂道シリーズの勢いを伝えるものでもある。同様のドキュメンタリーラッシュは2010年代なかば、AKB48の姉妹グループがやはり立て続けに劇場用ドキュメンタリーを発表していた時期を想起させる。

 高橋栄樹が監督を務めたAKB48のドキュメンタリー映画が2012~2014年に毎年公開されたのち、2015年2月から2016年の初春にかけて生じていたのが、AKB48の姉妹グループのドキュメンタリー映画ラッシュだった。

 2015年2月にはSKE48の『アイドルの涙 DOCUMENTARY of SKE48』(監督:石原真)、同年7月には当時まだAKB48の「公式ライバル」としての色合いも残っていた乃木坂46初のドキュメンタリー『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』(監督:丸山健志)が公開、そして翌2016年初頭にはNMB48の『道頓堀よ、泣かせてくれ! DOCUMENTARY of NMB48』(監督:舩橋淳/以下、『道頓堀よ、泣かせてくれ!』)とHKT48の『尾崎支配人が泣いた夜 DOCUMENTARY of HKT48』(監督:指原莉乃/以下、『尾崎支配人が泣いた夜』)が時期を同じくして公開される。

 すなわち、約1年の間にAKB48の姉妹グループおよび「公式ライバル」のドキュメンタリー4作品が発表されていった。当時、発足したばかりのNGT48と欅坂46を除けば、上記の期間のうちに国内のAKB48派生グループすべてが、次々とドキュメンタリー作品を手にしていたことになる。これは2010年代中盤、AKB48グループの発展・拡大を示す事象のひとつであった。

 ところで、アイドルグループのドキュメンタリー作品はその性質上、第一に既存のファン向けに製作されたコンテンツとして認識される。しかし、上記したような作品群が提供するのは、グループやメンバーへのストレートな愛着や没入を促すだけの景色ではない。ときにグループを突き放すように俯瞰し、ときに内側から腑分けすることで、そのグループあるいはアイドルという表現形式のパブリックイメージを浮き彫りにしたり、このジャンルが抱える困難を特有のかたちで明らかにしてみせたりする。ドキュメンタリー映画の製作は、アイドルグループを受容するとはいかなることであるのか、ポジティブさもネガティブさも含み込んで問い直す契機でもあるのだ。

 2010年代のアイドルドキュメンタリーを代表する高橋栄樹の作品群は、そのつど焦点を当てるポイントや対照との遠近感を少しずつ変えながら、AKB48が体現してきた価値観に単に順応するのではなく、しばしば躊躇いながら対峙するような描写を重ねてきた。高橋による2012年の『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』が従来のファンダムを超えた広がりをみせたのは、アイドルを消費することの意味を省みざるをえないような、一種悲壮なまでのありさまを映し出していたためである。西武ドーム公演などでメンバーたちがあからさまに疲弊、憔悴する姿は、このエンターテインメントを無邪気に享受することを許さない。

 もっとも、同作の監督である高橋自身はその光景に関して、決して拙速な批判あるいは擁護をすることはない。しかし、半ば戸惑いの中に身を置いたまま、対象に丁寧に寄り添い肉薄したことで、グループへの尊重と批評性を同等にたたえた豊かな映像を生み出していた。

 先に列記した派生グループのドキュメンタリーもまた、それぞれのスタイルでアイドルグループに接近しつつ、しかし単純な没入や熱狂に留まらない映像を世に残している。

 たとえばNMB48の『道頓堀よ、泣かせてくれ!』を監督した舩橋淳は、高橋らが従前からグループの関連作品を多く手掛けてきたのとは対照的に、上述したドキュメンタリー群の監督のなかでも最も被写体との関わりが薄い、「外部」に位置する人物である。その舩橋が切り取るNMB48像は、「世間」から見た48グループのパブリックイメージをごく自然になぞるような趣をもつ。

 同作は他の姉妹グループの作品と比しても、とりわけ「選別」や「握手」といった要素に収斂して構成されている。『選抜総選挙』に象徴される競争的な価値観や、握手会を中心とした対面型イベントの拡大は、特にこの時期のAKB48グループの世間的イメージの代表といっていい。「勝ち負け」「序列」「アイドルの階級社会」といったフレーズが要所に登場するこの映画は、そうした世の中からの見え方を写し取ったようなバランスを有している。競争や選別が強くフォーカスされるだけに、作中に乾いたタッチで映し出される回転寿司店や廃棄物処理場に積まれた廃棄物の山もまた、それら競争的な世界観の暗喩のように、不穏な存在感をもって立ち現れる。

 舩橋はNMB48に対して否定的な姿勢をもって臨んでいるわけではなく、きわめて丁寧に個々人の生を捉えようとしている。それでもなお、「外部」からアイドルシーンを観察するような距離感の同作は、アイドルなるものの世間的イメージを端的に、あるいはドライに浮かび上がらせている。

 一方、グループにとってこれ以上ないほどのインサイダーが監督を務めた作品もまた、舩橋とは異なる仕方で、アイドルグループという営為の複雑さを解体してみせる。HKT48の『尾崎支配人が泣いた夜』は、48グループ全体でも際立った存在であった指原莉乃が「監督」にクレジットされている。必然的に指原自身も被写体となる同作だが、当時HKT48内で特権的な立場にあった彼女は、単にグループの来歴やバックステージを追うだけでなく、メンバーでありながら同時に「監督」として本作自体を構成する己の姿さえも俯瞰して映し、アイドルドキュメンタリーにおいて「何を見せ、何を見せないか」を思案するさままでを解体して見せている。

 そこで交わされるやりとりからは、アイドルグループの一員として生きる者たちばかりでなく、すでにグループから離れ、「アイドル」以後の人生を送る者たちのスタンスをいかに尊重するかについての、彼女特有の平衡感覚がうかがえる。「監督:指原莉乃」は、このような自身の模索までをあえて開示することで、各メンバー・元メンバーの人生における「アイドル」期の意義をより長期的な観点から見通すような視野を提供する。それは、受け手を刹那的な熱狂から一歩引いた場所に置き、消費のありようについてごく自然に再考する機会をもたらすものだった。

 こうした奥行きをもつドキュメンタリー映画群は、必ずしも全方位にわたって受け手を心地よくさせるわけではない。しばしばその手触りはうしろめたく、ときに熱狂に水を差し、あるいは観る者の居心地を悪くさせる。しかし、その居心地の悪さへの対峙はおそらく、アイドルというカルチャーを享受するうえで忘れてはならないものだろう。パーソナリティの消費を不可避に背負い込むジャンルであるだけに、一見してファン向けのコンテンツとしてある公式ドキュメンタリー映画が、このジャンルそのものを省みるための好機を提供していることは重要である。
(香月孝史)

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