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細田守と新海誠は、“国民的作家”として対照的な方向へ 2010年代のアニメ映画を振り返る評論家座談会【前編】

リアルサウンド

20/1/12(日) 12:00

 年が明け2020年に突入。同時に2010年代という時代も終わりを迎えた。リアルサウンド映画部では、この10年間のアニメーション映画を振り返るために、レギュラー執筆陣より、アニメ評論家の藤津亮太氏、映画ライターの杉本穂高氏、批評家・跡見学園女子大学文学部専任講師の渡邉大輔氏を迎えて、座談会を開催。

 前編では、細田守や新海誠など、今や国民的作家となったアニメーション監督に注目。なお、後日公開予定の後編では、「ポスト宮崎駿」をめぐる議論の変容や女性作家の躍進、SNSとアニメーションの関係性について語り合っている。(編集部)

■最初の地殻変動は2012年
ーー2014年に『アナと雪の女王』と2016年に『君の名は。』と、2010年代に入ってから、興行収入が200億を超える作品が出てくるようになりました。変わり目はいつになるのでしょうか?

藤津亮太(以下、藤津):まず、2012年にアニメ映画全体の興行収入が400億円を越えるんです。2012年はスタジオジブリ作品が公開されずに400億円を越えた初めての年で、1つの転換点だったと思います。これ以降は、毎年コンスタントに400億を超えていますね。また、今アニメ映画がすごく多くなっていますが、その理由の1つとしてイベント上映が挙げられます。先行例はありますが、2012年から2014年にかけては『機動戦士ガンダムUC』がOVAのイベント上映で大当たりしており、これを経て人気のあるタイトルがイベント上映でかかるという流れが確立しました。例えば『ガールズ&パンツァー』は、テレビ、劇場版で大ヒットしてから、現在OVAで全6章を展開中ですので、2010年~2012年の間に大まかなビジネス的な枠組みができて、現在があるのではないでしょうか。

杉本穂高(以下、杉本):2012年はTVアニメの『ガルパン』が当たった年でもありますね。

渡邉大輔(以下、渡邉):『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』も2012年ですね。

藤津:映画でいうと、『おおかみこどもの雨と雪』もヒットしていますね。細田守監督自身もあんなにヒットすると思っていなかったのではないでしょうか。『バケモノの子』はより一般層を狙った企画だと思いますが、『おおかみこども』は作品としてすごく小さな映画で。そういう作品が当たったことからも、2012年は2010年を語る上では一つのポイントだと思います。

杉本:細田監督は2010年代を代表する作家と言って良いでしょうね。近作では、少し毀誉褒貶もありましたけど。

藤津:賛否は分かれると思いますが、一般性を持っているアニメですよね。2010年代に入ってから一般性を持つアニメの主流が、スタジオジブリから細田守監督へ、そして新海誠監督へと短いペースで大きく変わっています。

杉本:いわゆるポスト宮崎駿の時代に入ったのが2010年代で、スタジオジブリが支配的だった時期から、複数の作家が乱立している状況へと入っていきました。

藤津:スタジオジブリがブランド力を確立したのはやはり90年代で、その余波が続いた2000年代は、その次を担う人たちが下積みを重ねていたフェーズです。細田監督は2006年の『時をかける少女』、2009年の『サマーウォーズ』と確実に評価を伸ばして、2018年の『未来のミライ』までの12年で大きく変わっていったし、更にはTV放送では2006年に『涼宮ハルヒの憂鬱』、2009年に『けいおん!』と、京都アニメーションや山田尚子監督も着実に準備を進めていて、10年代に入ってから劇場で力を発揮します。

杉本:新海監督も00年代の時に後のヒットに繋がる下準備をしていたと。

藤津:そうですね。『君の名は。』でブレイクしたのは新海監督が14年目の時ですからキャリアは十分にありますよね。

■国民的作家としての細田守監督
渡邉:10年代の細田監督の創作活動は、実なかなり微妙な振る舞いを求められていたように思います。藤津さんがおっしゃったように、『おおかみこども』も2018年の『未来のミライ』もいわゆるプライベートな話がモチーフで、細田さん自身は、小さい作品を作り上げていった感じがあります。でも一方で、『時かけ』と『サマーウォーズ』でポスト宮崎駿という評価を得て以来、興行側の東宝も、また世間的にも細田監督には大きな国民的アニメを作ってほしいという期待が膨らんでいった。しかし、例えば『未来のミライ』は東宝の予算をかけてエドワード・ヤンをやってみようという作品ですから。それでもなお、ポスト宮崎を期待されるという10年代の彼の立ち位置はどのように捉えていますか?

杉本:作家として個人的な作品を作りたいのは明白ですが、『おおかみこども』が想定以上に当たってしまったので、そういう位置に行かざるを得なくなってしまったということだと思います。東宝の思惑なのか、本人が意識しているのかはわかりませんが、そのズレが不幸な方に向かっているように見えます。

渡邉:有名な話ですが細田監督自身も「公園のような映画を作りたい」と言っていて、いろんな人に見られる公共的な作品を目指している。しかし、実際には4歳のクンちゃんの悩みを延々と掘り下げるような映画を作ってしまう。こうした彼の10年代における“ねじれ”というか、作家自身の志向と世間的期待のギャップは興味深いところです。一方で、新海監督は00年代にニッチな分野で個人アニメーション作家としてデビューしましたが、『君の名は。』のメガヒットで一気にポスト宮崎的な認知を獲得した。同じくポスト宮崎と呼ばれていても、新海監督と細田監督の指向性の違いが、10年代は対照的な方向に向かっていったように感じます。

藤津:細田監督は1967年生まれで、アニメーションが不自由だった時代を知っている方だと思います。スポンサーを説き伏せて、ある種“騙すこと”で自分の作りたい作品を撮る。そうでもしないと受注作業としてのプログラムピクチャーで終わってしまうという時代を体感している世代でした。だいたい1965年前後から上の世代の監督さんは、自分の思いを作品に込めるなら、自ら動かなきゃいけないという状況を体験していて、だからこそ自分の思っていることを作品に入れることに躊躇がなく、ベタなエンタメから外れてしまうこともあまり恐れない印象です。それもまたアリだと思っている節があると思います。押井守監督や宮崎駿監督は、アニメ産業全体を盛り上げるベタなヒット作があるから、自分たちはその大きな産業の中で、自由に撮れるんだということを80年代に言っています。

 一方でもう少し下の世代、作り手がある程度コントロールできる時代になってから作っている人たちは、エンターテインメントに衒いがありません。自分のやりたいことをやりつつ、ベタなエンタメを外さない大事さを意識している世代だと思います。昔と比べると、アニメーションは子どもだけでなく大人も観るものになったので、その状況の変化を踏まえ、自分がやりたいことをどのレベルで入れるのかというさじ加減の違いが起きている気がします。

渡邉:それは受容側も同じかもしれませんね。これもよく言われることですが、いまの若者たちはアニメを見ることに屈託がなくなり、だからこそアニメにベタなエンタメを求めるようにもなっている。僕も大学で日々学生たちと接していてもアニメ好きなことに衒いがないし、またアイドルアニメや日常系など衒いを感じさせない作品こそ彼らには人気があります。隔世の感ですね(笑)。アニメだけでなくテレビドラマや漫画を含め、価値観や流通回路が多様化した結果、作り手側にも受け手側にも衒いがないという文化になってきたのかもしれません。

杉本:いわゆるオタクカルチャーの一般化が急速に進んだのはこの10年間でしたね。新海監督の『君の名は。』は、やはり震災へのアンサーであり、実は社会を意識して作品を作っている監督だという印象があります。一方で細田監督は社会よりもパーソナルなものへ意識が向いている気がします。

藤津:細田監督は見てなくはないでしょうけど、「今はそこではない」と考えているのかもしれません。「人の作ったことのないものを作ってみたい」という感覚があって、それが顕著に表れたのが『未来のミライ』だと思いました。今まであまり描かれてこなかった「4歳児の自我確立」を描いていて、それが思春期の前に起こる個人の嵐の時期だという発見はすごいと思います。問題は、思春期は観客も覚えているけれど、4歳の頃は忘れてしまっているので共感ができないところ。それゆえに興行的に難しかったのだと思いますが、「だからこそ作るんだ」という気概を感じ、僕は好意的に受け止めました。

■“ジブリじゃない”絵が一般性を獲得
渡邉:ところで、先ほどの藤津さんの「2012年に最初の地殻変動があった」というお話は非常に興味深かったです。ここ最近は、2010年代のアニメ映画は2016年が大きな転換点だったという主張がよくされるので、そうした見取り図を相対化する意味でも目から鱗でした。それは翌年の2013年に宮崎駿の『風立ちぬ』と高畑勲の『かぐや姫の物語』が公開されて、実質的にジブリが退いていく流れとも関係していそうですね。

藤津:そのように考えると見やすいかなと。2016年ももちろん非常に重要で、『君の名は。』はいわゆる“ジブリじゃない”キャラクターデザインが一般性を獲得できるとわかった作品です。それ以前の新海監督の『星を追う子ども』では、キャラデザをテレコム・アニメーション・フィルムや日本アニメーションの絵柄に近い西村貴世さんが手がけています。長年、一般的な作品では“ジブリっぽい絵柄”が参照されていましたが、『新世紀エヴァンゲリオン』の貞本義行さんが細田作品に参加して、オタクと一般層の両方にウケるデザインができる唯一の人という感じが何年かありましたが、田中将賀さんが加わって、少しずつそこの領土が拡大していきましたね。

渡邉:田中将賀さんの絵柄は、本当に2010年代を決定づけましたね。田中さんの絵がこれだけメジャーな支持を獲得できたのは、なぜだったのですか?

杉本:『君の名は。』の前に、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』がヒットしました。数字にはあまり出ませんが、やはり若い人たちは日常的に深夜アニメを目にしていて、年長世代が想像するよりもずっと田中さん的な絵に馴染みのある状態になっていた。田中将賀さんの絵は既に若い世代にとって“違和感のない絵”になっているでしょうね。

藤津:田中将賀さんの絵は確かにアニメ感はあるけれど、一方でもっとコテコテに“アニメっぽい絵”というものがあって、ある意味うまくあく抜きされています。なので体験の描き方にしても、リアリズムを感じるものになっている。特に『君の名は。』は安藤雅司さんが作画監督をされたので、田中さん自身が手がけた作品よりも更にリアリティが強くなっています。いわゆるアニメっぽい絵を目指すのであれば、『空の青さを知る人よ』の主人公は眉毛はあんなに濃くならないと思うんです。

■唯一無二の作家性をもつ湯浅政明
――湯浅政明監督はいかがでしょう。『夜明け告げるルーのうた』のアヌシー国際映画祭グランプリはこの10年間で輝かしい成績の1つかなと思います。

渡邉:湯浅監督は、2004年に『マインド・ゲーム』を発表し、フランスなど海外では熱狂的な支持を獲得していきますが、その後10年以上長編の発表がない状況が続いていました。しかし、2010年のテレビアニメ『四畳半神話大系』を経た2017年公開の映画2作でブレイクした後、コンスタントに意欲作を発表し、まさに2010年代を代表する作家の一人になりましたね。

藤津:湯浅監督は、ものすごい個性がありますよね。その上で、「一般って何だろう」「普通って何だろう」といった問いかけを重ねることで作品を前進させていって、そこに森見登美彦さんの原作と出会ったことで『四畳半神話大系』『夜は短し歩けよ乙女』でのブレイクになった。おそらくそこが第2のスタートだったと思います。それからは映画2本やった後『DEVILMAN crybaby』があり、『きみと、波にのれたら』『映像研には手を出すな!』『SUPER SHIRO』『日本沈没2020』『犬王』と今後も途切れることなく作品が続いていきます。

渡邉:『DEVILMAN crybaby』は、舞台が川崎で、ヒップホップ文化やアンダーグラウンド、下層社会の問題を、人間と悪魔という存在で隠喩しています。また、『夜明け告げるルーのうた』がアヌシーの記者会見で、「これは移民排除の話ですか?」と言われたという話も聞きました。湯浅監督の作品には、社会派の側面がありますよね。

藤津:『ルーのうた』は、人間とうまく交われない相手との異種間コミュニケーションという部分が、今の時代と共鳴して移民の話にも見えます。『DEVILMAN』の時は、「最後の9話で、美樹がみんなに対してメッセージを出すところが成立すればこの作品はいけると思った」と言っているんですが、あのシーンはSNSの文字を画面で見せる演出で、テキストベースで進行します。一方の『ルーのうた』には自由奔放なダンスシーンがあったりと、まったく違うことをやっていて、湯浅さんにはまだまだ引き出しがあるんだなと。

渡邉:メディアとの関係でいうと、『ルーのうた』は動画サイトが象徴的に出てきますし、『DEVILMAN』は地上波ではなかなかやれない作品を流す場としてのNetflixというプラットフォームの存在意義も浮かび上がらせたように思います。

藤津:それまでもNetflixには日本産のアニメがありましたが、本格的にアニメをやるというときの最初のタイトルだったので、象徴的な作品になりましたよね。

■山田尚子監督と京都アニメーション
杉本:僕は10年代が実質始まったのは震災以降だと思っているんです。2011年は、『魔法少女まどか☆マギカ』『あの花』『Fate/Zero』『映画けいおん!』と重要な作品が多数出てきた年でした。特に『けいおん!』の山田尚子監督は10年代の作家として外せない人です。渡邉さんは、よく「映画はアニメっぽくなり、アニメは実写映画っぽくなっている」ということを論じておられますが、それが急速に進行したのがこの10年で山田監督は象徴的な人だと思います。山田監督はそういう時代だからこそ出てきた作家ではないでしょうか。山田監督はカメラの使い方が非常に実写的で、『リズと青い鳥』はシネフィルからも評価が高かった。描いてる世界が確立しているし、作家としてわかりやすい個性があるので、評価しやすい存在です。

藤津:京都アニメーションがずっと力を蓄えてきた成果ですね。インタビューで山田監督は「『リズと青い鳥』は、すごく繊細な作品をこれまでも作ってきたスタッフだからできるんだ」と話されており、スタッフに対する信頼が厚い。アニメーションはスタッフの流動性が高いですが、スタジオが持つ力がすごく大きいと思います。

渡邉:杉本さんの「アニメと実写の接近」という話で言うと、2015年~2016年に自分の中でアニメの見方が一気に変わった感覚がありました。そもそも映像は、非常に身体的なメディアです。つまり、映像作品には物語映画のリズム、ドキュメンタリーのリズム、アニメのリズム……というように、異なる複数のリズムがあり、映像の快楽というのはそのリズムに身体を同期させることだと思います。それ以前からも、もちろんアニメも見ていましたが、僕はどちらかというと実写映画のリズムが気持ち良い体質だったのですが、『聲の形』や『この世界の片隅に』で、映画とアニメのリズムがどこか連動し始めたという実感がありました。

杉本:実写映画とアニメのリズムが同期してきたことと、田中将賀さんの絵が人気を獲得し始めたことが時を同じくしているのは興味深い点です。00年代まではオタク的なものとジブリ的なものが分かれていたけれど、10年代からはフラットに融合し始めている時期なのかなと。我々の身体感覚そのものがアニメに近づいているのかもしれません。

藤津:『聲の形』もヒロインの硝子の髪の毛はピンク色でした。アニメらしいキャラクター作りをどこまでやるか吟味されている一方で、ディテールの情報量、何よりお芝居の繊細さとリアリティで、「この人はこの空間に立っている人なんだ」ということを表現しようとしていて。昔は記号的なものは記号的に描かれたほうが気持ち良いと思われていましたが、2016年にそれが越えてきた例がいくつかあるんですよね。『君の名は。』は作画監督がジブリ出身の安藤雅司さん、『天気の子』もジブリ出身の田村篤さんですので、記号的なものと、ジブリがやってきた“もっともらしさ”みたいなものを繋ぎ合わせる感じになってきたのかなと。

渡邉:実写(リアリズム)とアニメ(記号的なもの)の接近は、実写、アニメ双方で岩井俊二や庵野秀明などの作品を象徴におそらく90年代くらいからあったのかもしれません。そして、まさにその岩井俊二監督が2015年に『花とアリス殺人事件』でロトスコープを使ってアニメーションを作り、2016年には庵野監督が『シン・ゴジラ』を作ったように、あの頃からリズムがシンクロしてきたという実感があり、時代が変わってきているように感じました。

(取材・文=安田周平)

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