Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

菊地成孔が『ミセス・ノイズィ』を語る これからのホームドラマにおける時代設定の重要性

リアルサウンド

20/12/14(月) 14:00

 天野千尋監督作『ミセス・ノイズィ』が現在公開中だ。

 本作は、第32回東京国際映画祭の日本映画スプラッシュ部門にて上映され話題となった、天野監督のオリジナル脚本作。ささいなすれ違いから生まれた隣人同士の対立が、マスコミやネット社会を巻き込んで、やがて2人の女の運命を狂わせる大事件へ発展していく。

 公開が始まりふつふつと話題になっている本作。今回、リアルサウンド映画部で映画連載も行っている音楽家/文筆家の菊地成孔に、本作を鑑賞してもらった。「知的にコントロールされたウェルメイドなエンターテインメント作品」と評する菊地は、本作のどこに魅力を感じたのか。長文のインタビューにて語ってもらった。脚本上の避けられない「穴熊」にまで踏み込み、「令和の映画はSNSをどのように扱うべきなのか」という重要なテーマにまで議論が及んだ。(編集部)

※本稿は『ミセス・ノイズィ』のネタバレを含みます。

「最後の最後まで、ちゃんと計算された脚本になっている」

ーーまずはズバリ、菊地さんは本作『ミセス・ノイズィ』を、どんなふうにご覧になられましたか?

菊地成孔(以下、菊地):最近は映画一本に対する事前の情報が少ない時代になってきたというか、僕もこの作品に関しては、ほとんど何の情報もない状態で拝見したのですが、結論から言うと、すごく面白かったです。とにかく、脚本がよく書けていますよね。まずは、隣人トラブルの話であると。で、それを小説家であり主婦業もやっている女性の立場で描こうということで、ややもすると社会派みたいなものに流れていきがちな素材ではあるんですけど、必ずしもそういうふうにはなっていかないわけで。まあ、隣人トラブルっていうのは、素材としては正直新しくはないですけど(笑)。

ーーちょっと懐かしい感じもありますよね。

菊地:うん、ちょっと懐かしさすらある。まあ、それはこの映画のモデルになっているであろう事件の懐かしさとも関係してくるというか、それはこのあと話そうと思っている、映画における時代考証の問題とも関わってくるんだけど、まずはまったく予備知識なく観始めたというか、冒頭から結構ワクワクしながら観ていたところがあって。とにかく、脚本の才気が素晴らしいので、ここからコメディに流れるのか、怖い話に流れるのか、ちょっとわからないところがあるじゃないですか。いろんな可能性を含みながら、物語がスタートしていくので。普通の映画だったら、パッと見て、これはラブコメだなとか、これはホラーだなってわかるけど、この映画は、そういう映画の面構えみたいなものが読めなくて、どういう展開になっていくのか、まったくわからないところがあるんですよね。

ーー確かに。

菊地:しかも、出てくる俳優の方々も、ちょうどいい具合に無名性があるというか、これが普通にテレビや映画で見慣れた俳優さんだったりすると、ある程度先が読めたりするじゃないですか。それがこのリージョンの映画のいちばんいいところなんですけど、どういう俳優さんなのかわからないから、絶対この人がこうなるはずはないっていう予想が立たないんですよね。それが立たないまま、物語が進んでいくという。で、これは若干ネタバレになりますけど、映画のちょうど真ん中あたりで物語が折り返しになっていて、そこで大きなどんでん返しがあると。まあ、それはタランティーノなんかがよくやるスタイルというか、もっと大袈裟に言うと、ヒッチコックの『サイコ』のように、途中から別の話になってしまうという(笑)。その驚きがまずあって、そこでだいぶ心を持っていかれますし、そういう意味でも、脚本がとにかくよく書けていると思うんですよね。

ーーそこまでの展開は、非常に見事ですよね。

菊地:うん、見事だと思います。脚本が周到であるというか、勢いに任せているところがまったくなくて、最後の最後まで、ちゃんと計算された脚本になっていると。で、さらにネタバレになりますけど、映画の真ん中でどんでん返しがあって、そこで多視点になるというか、主人公が2人になるわけで。そこまでの手腕が、すごい上手で感心するんですよね。これはすごい面白いなと。しかも、その主人公2人のどちらにも、移入できるようになっている。というか、そのどっちかだけにすごい移入があったら、この映画は成り立たなかったと思うんですよね。そうやって双方に移入があるからこそ、非常にバランスが良いというか、これは主人公への自己投入によって、エモーションが爆発するような映画ではなく、知的にコントロールされたウェルメイドなエンターテインメント作品であると。それは早い段階で明らかになるというか、その真ん中の地点で「さて、これからどうなるんだろう?」っていうミーティングがあるわけです。一方から見た事実が事実なのではなく、双方から見るとそれぞれ言い分があって、なおかつ双方共に若干常軌を逸したところがあるという(笑)。

ーー(笑)。篠原ゆき子さん演じる小説家も、見方によっては結構エクストリームなところがある人物なんですよね。

菊地:そう、そのあたりが演技で細かくサポートされているんですよね。主観が変われば、相手の演技がキツくなるわけで。もちろん、最初の時点では「布団叩きおばさん」のほうがキツいんだけど、その演じ分けみたいなところが、演出を含めて非常に巧みなんですよね。で、どっちが正しいっていうわけじゃないっていうところに、一回持っていかれるわけです。だから映画の中間地点で、観客も一緒にミーティングをしているような気分になるんですよね。さあ、この映画は、これからどこに向かって進んでいくんでしょうっていう。

“狂言回し”と化すSNS

ーーそこから先は、いかようにも転がすことができるというか。

菊地:だから、そのあとの展開については、いろんなアイデアがあったと思うんですよね。ビリー・ワイルダーの映画とか、ああいう古典的でウェルメイドなところに落とし込んでいくこともできるし、あるいはタランティーノの脱ドラマみたいなものというか、ギリギリまで持っていって、最後の最後にとんでもないオチがくるとか(笑)。まあ、今の映画史の中では、いろんなことができるはずなので、僕もそのあたりを楽しみにしながら観ていて。この映画がウェルメイドでツイステッドなコメディであるっていうのは途中で明らかになったわけで、あとはどこに落とし込んでいくのかっていう。でもまあ、油断はできないわけです。日本にはJホラーもあるし、それこそハサミムシが出てくるじゃないですか。ああいう感覚を監督がお持ちだということは、どんな可能性も考えられるというか、一歩間違えたら、すごい血生臭い凄惨な話になることだってあるだろうし。

ーー確かに、ハサミムシには、ちょっとギョッとしました。ひょっとすると、これは相当ヤバい映画なのかもしれないって(笑)。

菊地:ギョッとしますよね(笑)。あと、これもミスリーディングですけど、布団叩きおばさんの旦那さんが、子どもと一緒にお風呂に入ったとか言って、相当ヤバいところまで引っ張るじゃないですか(笑)。だけど、それを逆側から見たら……っていう。そこまでしつらえた上で、果たしてどういう物語になっていくのかっていうのは、やっぱり気になりますよね。でまあ、結論としては、ああいう感じで落ちていくわけですけど。まあ、端的に言って、非常にいい話で終わりますよね。

ーーそうですね。いわゆる「笑って泣ける」ような話に落ちていくという。

菊地:だから、系譜としては、周防正行監督の『Shall we ダンス?』みたいな感じというか、俺には関係ないけど、まあいい話だねっていうふうな終わり方だと思うんですよね(笑)。すげえわかるわとか、まったく理解できないとかじゃなくて、お話としてはよくわかるし、良かったねっていう。そこに直接的な影響関係はないと思いますけど、『カメラを止めるな!』みたいな感じで、全然違うような話から入っていって、その最後に待っているのは、めちゃめちゃいい話であるという(笑)。最初はドキドキするようなサスペンスだけど……というか、だからこそ、この最後のオチが効くのだっていう。そうやって図式的に言ってしまうと万々歳というか、成功していると言えば、すごく成功している映画なんですよね。俳優も見事、演出も脚本も見事で、真ん中の折り返し地点を過ぎてから、結末に向かってちゃんと進んでいくという。そういう意味では非常によくできた、今様の作品であると手放しで褒めてしまってもいいんだけど……個人的には、1、2点、引っ掛かるところがあって。まあ、ウェルメイドの笑って泣ける人間ドラマにケチをつけてもしょうがないんだけど、ウェルメイドな作品だからこそ、どうしても無理があるところがいくつかあって。

ーーそこは是非、お聞きしたいところですね。

菊地:ええと……まずひとつ目は、布団叩きおばさんの旦那さんの顛末ですよね。なかなか言い方が難しいですけど、あの人が最後、ピンピンした状態で出てくるのは、ちょっと引っ掛かりますよね。彼がとった行動によって、小説家である彼女に対するマスコミの風向きが逆転するわけで。だから、脚本上、ある程度の悲劇性が必要なんですけど、それが最後、普通にピンピンした状態で出てくると。まあ、そこで彼がピンピンしてなかったら、最後ハッピーエンドにならないわけで。だからあそこはもう、脚本上の「穴熊」なんですよね。いかんともし難いっていう(笑)。

ーーなるほど。

菊地:まあ、それ以上はネタバレになるので、ここでは言いませんけど、僕はちょっと違和感を持ちました。でもやっぱり、いちばん引っ掛かったのは、SNSの描写ですよね。あの旦那さんを追い込んだのは、小説家の彼女ではなく、ネットの書き込みなわけじゃないですか。そう、この映画は、SNSは怖いというか、SNSというのは人を追い込むメディアあるっていうことも描いているわけですよね。もちろん、SNSに先行するテレビのワイドショー的なものとか、それに先導される世論の恐ろしさもあるわけで。それはこの映画にとって、比較的に重要なテーマだと思うんですよね。というか、そこはあらゆる観客が移入できるところだと思うんです。ほとんどの人は、小説家であり子育てもしている彼女に移入するよりも遥かに高い度合いで、「SNSって、おっかないよね」っていうところに移入するわけじゃないですか。

ーーそうですね。そこは他人事ではないというか、ある日突然、自分がそういう目に遭う可能性もあるわけで。

菊地:そう。何も悪くない人がSNSで叩かれて大変なことになったりしているのを、我々は散々見てきているわけだし、SNSというのが相当厄介なメディアであって、なかなか簡単に禊をさせてもらえないってことも知っているわけですよね。それこそ、芸能人が何かしたあと、ネットで過剰に反応されて追放になっちゃったりとか。そこは、みんなが共感できる要所だと思うんです。だけど、この映画の中では、SNSがある種「狂言回し」になってしまっていて、SNSのリアルな恐ろしさっていうものに、全然肉薄していかないんですよね。そもそも、あそこまでワイドショーが盛り上がって、SNSでも大炎上した事件が、たった1年で簡単にひっくり返るのかなっていう。

スマホを持ってないことで守られている布団叩きおばさん

ーー確かに、現実的に考えると、この映画の最後は、ちょっとしたファンタジーのように思えなくもないです。

菊地:うん、そこがちょっとファンタジックというか、SNSとテレビ報道というものを、笑って泣けるコメディ映画の単なる装置として使っているだけで、その本当の恐ろしさみたいなところには肉薄していかないんです。もっと言うならば、現実に比べて、かなり手ぬるいものとして描かれていますよね。小説家の彼女は、テレビ報道やSNSの反応を受けて、別にノイローゼになったりするわけじゃないですよね。その時点においても彼女は、自分は悪くないと思っているわけで。彼女が本当に改心するのはSNSによってではなく、最後の最後に布団叩きおばさんが見せた行動と告白によってじゃないですか。

ーーそうですね。

菊地:まあ、そこでひとつカタルシスがあって、浄化がもたらされるんだけど、それはもはやSNSとは関係ないというか、彼女が改心さえすれば、簡単に世の中はひっくり返るわけで……でも、それってホントかなっていう。あと、布団叩きおばさんは、スマホを持ってないわけですよね。で、ネットも見ないから、自分が騒ぎの中心になっていることも、まったく知らないと。つまり、スマホを持ってないことによって、彼女のまわりには結界が張られていて、ネットの騒ぎから守られているわけです。でも、小説家の彼女は、そうはいかないですよね。スマホを使っているから。というか、布団叩きおばさんが、スマホを縦横無尽に操って、きゅうりの画像とかをインスタにアップとかしていたら、やっぱり心にノイズが出たと思うし、あのおばさんもまた、小説家の彼女と同じように、要らない世論に振り回されたと思うんですよね。

ーーなるほど。そうかもしれないです。

菊地:だから、見ようによっては、あのおばさんのように、スマホを持たなければ、こんなにもピュアになれるんですよっていう。そういうメッセージが、この映画には入ってなくもないというか、反省すべきは小説家の彼女のほうで、あのおばさんではないと。だって彼女は、パーフェクトピュアだから。

ーーSNSを重要な要素として扱っておきながら、結局SNSを使わない人がピュアなんだっていう結論は、ちょっと納得いかないような気がします。

菊地:そうですよね。SNSによって事態が大きくなっちゃうんだけど、そんなSNSの中にも美談があって、それによって助けられるようなホームドラマが成立したとしたら、それはすごいカッティングエッジな物語だと思いますけど、これだと単に、SNSをやらない人がピュアなんだっていう話に思えなくもないので。そこはちょっと物足りないというか、すごく才気走った監督で、脚本もよく書けているんだけど、現代性っていうものに向ける目が、ちょっと弱いような気がするんですよね。もちろん、自分は三谷幸喜監督のような若年寄りであって、現代性とかトレンドにはいっさい興味がないんだって言うなら、それはそれで構わないと思うんだけど。要するに、同じSNSでも、2005年と2020年では大きく違うわけです。この作品にはもう一点穴熊があって、割と前半に、小説家の夫が、子どもの面倒を妻に押し付ける。その理由が「こんな時期だから、(スタジオミュージシャンの)たまに来る仕事が断れない」というセリフで説明されていて、観客をコロナ禍にリーディングしてしまっている段階で、現在性を強めてしまっています。このセリフと設定を、コロナ禍とは全く関係ないんだ。という所にまで丹念に説明しないと……例えば不景気とか、夫に職能が低く、仕事が慢性的に少ないのだとか、そういう風にしておかないと、自動的に今の話になってしまう。そうなるとさっきまで話していた、SNSの軽い扱いが目立ってしまう。おばさんが騒音嫌がらせに出してくるのがカセットデッキだったりするのもおかしい。一般人がパパラッツィ化するときも、今だったら100%スマホでしょう。まだデジカメがいるのね(笑)、なのに夫はコロナ禍で仕事が少ない。というのは矛盾です。完璧なシナリオなんですけど、ここ、穴熊ですよね。なんか完全犯罪が破られる瞬間みたいな話ですけど(笑)。

ホームドラマを作る上での時代設定の重要性

ーーうーむ。

菊地:だから、応援したいっていう気持ちが、もう90%なんですけど、その上で「苦言」ではなくひとつの「提言」として……というか、それは我々観客も一緒になって、考えていかなきゃいけない問題なのかもしれないですよね。どのくらいまでそれを責めるのか、あるいは許すのかっていう。この映画が、実際の事件があった15年前とかの話だったらいいんですけど、これを今の話として捉えるのであれば……というか、観ているほうも、自分がこの映画をいつの時代の話として観ているのか、ちゃんと考えたほうがいいのかもしれないですよね。これからの時代は、そういうことが、どんどん大事になってくると思うので。そう、ちょっと前にウディ・アレンの『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』っていう映画があったじゃないですか。

ーーティモシー・シャラメとエル・ファニングが出ている。

菊地:そうそう。あの映画は今の時代を描いた作品のはずなのに、SNSの扱いがおかしいというか、ちょっと軽過ぎるんですよね。それはまあ多分、ウディ・アレンがスマホを持ってないからだと思うんですけど(笑)。スキャンダルのあり方に、ちょっと70年代的なところがあって。実際に70年代に書かれた脚本とか使ったりしますからねウディ・アレンは(笑)、だけれども、そこを差っ引いても傑作であると。というか、そこって今、すごい重要なところになっていると思うんですよね。特に、若い世代で映画を作る人にとっては。アレンのような老人特需は許されないし、自動的に「現代を描いた」とされてしまう。たとえば、今の時代って、そのへんのカフェとかに入ったら、みんな黙ってスマホを見ていたりするじゃないですか。だけど、監督としては、そういう殺伐とした風景は、あんまり撮りたくないですよね。電車に乗ったら、全員スマホを見ているとか(笑)。でも、実際の現実は、そういうふうになっているわけで……そのあたりが今、すごい難しいんですよね。さらにこれからは、コロナの問題も入ってくるわけじゃないですか。

ーーそうですよね。

菊地:そこを知らんぷりして、アンリアルな現在を描いていくのか、もうこれは過去の話ですって断った上で、物語を描いていくのかっていう。これは今、すごい切迫した問題だと思うんです。『鬼滅の刃』とかだったら、別にいいわけですよ。あれは一応、大正時代の話だから(笑)。だけど、今の時代に、例えば令和のホームドラマを描こうとしたら、政治経済のことはギリギリ避けられるかもしれないけど、SNSやコロナの問題っていうのは、やっぱり避けて通れないわけで。ひょっとしたら、平成において昭和の時代にこだわり続けた人がいたように、令和においても、平成の時代にこだわり続ける人が出てくるかもしれないですよね。俺はSNSの無かった平成の前半しか描かないんだっていう(笑)。だったら、今僕が言ったような問題点は、全部クリアできるので。別にそれでもいいと思うんですよね。いつの時代にもあったことだし。

ーー目の前にあるのと同じ現実を、どれだけの人が映画の中に求めているのかっていう問題もあるような気がします。

菊地:そうですよね。細かい話はどうでもいいから、とにかく笑って泣ける話が観たいんだっていう民の欲望というか、とにかく今日はチャーハンが食べたい気分なんだっていう(笑)。で、それにちゃんと応えますよっていうものが作りたいのであれば、それはそれでいいと思うんです。自分はオールドファッションな若年寄りスタイルで、三谷幸喜さんとはまた違った意味でビリー・ワイルダー原理だ。とかね。その上で笑って泣けるウェルメイドなコメディを作りたいんだっていう。そういうことなら、その意気や良しというか、それはそれでまったく問題ないわけで……ただ、さっき言ったように、そういう、「平成レトロ」みたいな(笑)ことにしない限り、SNSはやっぱりひとつの急所になってしまうんですよね。だからまあ、今の時代っていうのは、時空を脇に置いたような突拍子もないコメディを作るのは簡単なのかもしれないけど、リアルな生活の中から出てくる泣きと笑いのコメディを作るのは、ホント難しいと思うし……これからの時代の映画監督は、コメディであれ、ナンセンスであれ、ポストモダンであれ、ホームドラマを作る上では、時代設定を曖昧にできない、「家族」というのは一番リアルなリージョンであって、逆にいうと、どんな時代にも設定できる。設定に意味が出る。そこが面白い所になると思います。『万引き家族』や『パラサイト』は、もちろん作劇が素晴らしかったんだけれども、タイミングにも恵まれたと言えます。

■公開情報
『ミセス・ノイズィ』
全国公開中
出演:篠原ゆき子、大高洋子、長尾卓磨、新津ちせ、宮崎太一、米本来輝、洞口依子、和田雅成、田中要次、風祭ゆき
監督・脚本:天野千尋
配給:アークエンタテインメント
(c)「ミセス・ノイズィ」製作委員会
公式Twitter:https://twitter.com/MrsNoisy_movie

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む