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『獣になれない私たち』を“ゾンビもの”として考えてみた 「しんどい」が大渋滞する意図を読む

リアルサウンド

18/11/7(水) 6:00

 『獣になれない私たち』(TBS系)が「しんどい」という声を良く耳にする。上司からのパワハラ、取引先からのセクハラ、恋人の京谷(田中圭)の家には元カノ・朱里(黒木華)が居座り続けている。そんな、にっちもさっちもいかない状況に、ひと肌脱いでくれるかと思った呉羽(菊地凛子)は、衝動的に京谷と肌を重ね、ならばと晶も恒星を誘うがコトが始まる前に寝られてしまう……。うん、たしかに「しんどい」の大渋滞だ。

参考:田中圭またもスマホ落とす 『獣になれない私たち』“寝る”より悲しいキスのダメージ

 きっと、観る人によって何に「しんどい」を感じるのかも変わるはずだ。ある人は、社畜状態から抜け出せない晶と自分を重ねて「しんどい」と思うかもしれない、ある人は愛されていないとわかっていながらしがみつくことしかできずにいる朱里に、ある人は恒星や呉羽のセックスをめぐる軽いやりとりに辟易する人もいるかもしれない。「しんどい」は、自分の中にあるモラルに準ずる。

 ここを踏み越えられると、不快だ、迷惑だ、傷つくと思うボーダーライン。このドラマで、晶はいくつものそのラインに土足で踏み入られる。物理的な血は出ていなくとも、心を斬られ、撃たれ、傷だらけになる。その痛みを知っている人からすれば、痛々しくて目を背けたくなるような状態。にも関わらずニコニコと笑って、なんでもない振りをする晶を、恒星が「キモい」といったのは、まるで生きているのか死んでいるのかわからないゾンビを見ているような気分になったからかもしれない。

 では、いっそのこと『獣になれない私たち』を、現代日本を舞台にしたソンビものだと考えてみた。すると、拮抗した人間関係の現況が見えてくる。急速に進んだ価値観の多様化、様々なツールの進化によって、これまであった画一的なモラルが崩壊したモラルハザードな世界。規制の再構築が間に合わず、「自由」と「権利」を振りかざして、エゴを押し付けるモンスターたちがたくさん生まれた。誰かの苦痛の上に成り立つ、モラルなき「自由意志」は、ただの「ハラスメント」でしかない。「表現の自由」だと言って拡散する「フェイクニュース」もまた然り。

 自由な発言は、かつてない速さで伝播していく。そこに群がるのは、思考しているように振る舞いながらも、その実は反応でしか動いていない哲学的ゾンビたち。いつでも発信できるツールがあるから「自分の思いついたタイミングで連投する」、既読がついたら「すぐ返せるはずだ」と強制する、そこに携帯電話があるから休暇中の同僚に構わず連絡する、そこに性の対象になる人がいたから「する」……それもこれも「そこにあったから」「やりたかったからやった」という反応でしかなく、相手への意識はまるでないゾンビたち。

 もちろん、いつだって自分の自由意志を貫くためには、他者の理解が必要なのだ。新しい自由を手にしたかったのなら、当事者同士でルールのすり合わせを行うこと。それが本質的な“自己責任”だ。何が相手にとって不快になるのか、想像して、対話する。だが、人は「自分と他者が違う考えを持っている」ということは知ってるつもりだが、実際に向き合ったとき「自分ならこうするのに」「普通はこうするはず」と自分基準で考えてしまいがち。もはやみんなが大前提としているモラルが崩壊しているのだから、対話の前に価値観を知るというプロセスも必要だ。

 実際に、主張を聞いてみると、自分に都合のいい倫理観を組み合わせて、論理が破綻している思考停止状態な人も少なくない。朱里とは「してない」から愛してない、晶とは「してる」から愛してる、でも呉羽とは「した」けど「愛してない」から許してほしいし、晶は「愛してない」けど「する」は許せない、という京谷の思考は支離滅裂だ。「仕事が決まるまでいていい」と言われたから、「仕事を決めずにずっと居座ってもいい」と京谷の言葉を捻じ曲げている朱里もそうだ。持っている人を妬み、謎の理論を展開して呪いをかける姿は、もはや人にあらず。

 モラルやルールのすり合わせるのは、誰かを縛って自分の自由を行使するのではなく、お互いの自由を尊重するためにあるものなのだ。もちろん、ときには獣のように自由を求めて闘うことも必要だが奪い合いを続けていけば、いつか社会は崩壊してしまう。「しんどい」を乗り越えるのは、つまるところ愛しかない。性交渉は愛を体現するひとつの行動ではあるが、今や性に関するモラルも人それぞれになってきた。だが、変わらないのは“交渉”に残っている理解し合おうとする愛ではないか。性的接触をした呉羽と京谷よりも、言葉を交わしている晶と恒星に、ラブかもしれない何かが生まれる予感があるのは、きっとそこに思考があるからだろう。

 「クズ」「しんどい」と、モンスターやゾンビたちをシャットアウトする自由もある。だが、その理解しがたい主張を繰り広げる生物たちを画面越しに観て、「うわー」と思いながらも「自分ならどんな論理で共生していくか」を考えるのも、このドラマの楽しみ方のひとつではないか。自分の自由を守るため、そして人間らしく生きるための思考力を磨いていくのだ。そして、ふと自分自身の中にもいるゾンビやモンスターを見つけて、ゾクッとしてみたり。甘いラブだけではない。誰が観てもわかりやすいストレートな思いだけでもない。そんな人間の雑味も含めて味わうドラマなのだから。(佐藤結衣)

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