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千葉雅也が語る、自己破壊としての勉強と痛みとの共存 「生きることは、プリミティブな刺激を快楽に変換すること」

リアルサウンド

20/4/25(土) 10:00

 気鋭の哲学者、千葉雅也氏の『勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版』が文春文庫より発売された。本書は2017年に文藝春秋より刊行された『勉強の哲学 来たるべきバカのために』に書き下ろしの「補章」を加えた完全版だ。

参考:独哲学者マルクス・ガブリエルの思想は過大評価か? 福嶋亮大が『新実存主義』を読む

 「勉強は、自己破壊である」とする本書は、アイロニーとユーモアを用いて自身にとっての享楽的なこだわりを見つけていくという「勉強の原理」の解説から、自己を変身させるための勉強法の実践について、さらに勉強の先にある「制作の哲学」までを追補し、「勉強とはなにか」を根本から考えるための1冊となっている。

 果たしてどのような考えから本書は生まれたのか、著者の千葉氏に話を聞いた。(杉本穂高)

■アイロニーとユーモアはビジネススキル

――『勉強の哲学』は勉強とはなにかを問う、勉強そのものについての本ですが、非常に珍しいアプローチだと思います。この本を書こうと思われたのはなぜでしょうか。

千葉:この本は、院生時代に塾で教えていた頃から、若者たちに教えたいと思っていたことを、自分なりに実践してきたことを踏まえてまとめたものです。具体的には、いわゆる学校の科目教育的なものに沿って単純に知識を身につけるだけではなく、もっと広い意味でものを考える力、汎用性の高い思考法を教えたかった。この本では、物事を批判的に考えるアイロニー=ツッコミで縦に掘り下げる、対象をずらして考えるユーモア=ボケで横に視野を広げるという2つの軸での思考法を語っています。

 勉強するというと、例えばファイナンシャルプランナーの資格を取るためだとか、そういうイメージがあると思います。しかし限られた分野の勉強だけをしていると、視野が狭まりがちです。専門性の高い勉強をしながらも、同時に広く汎用性のある考え方を身に着けるためにはどうすれば良いのかを、哲学的な思考をベースにできる限り平易に解説したのが本書です。

――近年は大学で人文系の予算が削られがちな傾向がありますが、そうした流れに抵抗する意味も、この本にあるような気がしました。

千葉:それもあります。この本では、文化や哲学、文学などがビジネスに応用できることも示しています。例えば、小説をアイロニーとユーモアで解釈していく能力を鍛えれば、ある特定の業務提案があったとき、アイロニーでその根拠を掘り下げ、ユーモアでプランB、プランCと広げて考えていくこともできるようになる。文学を多様に解釈する能力とビジネススキルは、頭の使い方という点でつながっているんです。

 最近はデザイン思考やアート思考みたいな言い方で、人文系、あるいは芸術系の学問とビジネススキルをつなげるような言説が増えましたが、僕は中学の頃から、芸術と数学、あるいは社会など、一見すると離れているものをつなげて考える教育をすべきだと思っていました。父がデザイン会社を経営していたため、家庭内でデザインの話をよくしていたし、同時に経営の話もしていました。父の中ではアートとマネジメントが結びついていたので、僕の家庭環境ではアート思考的な語りがごく普通でしたね。30年ぐらい経って、やっと世の中が追いついてきたと思っています。

――千葉さんは「無意味」なものにこだわれとよく言われます。この『勉強の哲学』もそういう無意味なものの重要性を体系的に語る1つの試みのようにも読めました。

千葉:僕の友人である俳人・北大路翼はよく「多作多捨」と言っていますが、仕事でも何でもアイデアを出す時は、使えない無意味なものでもどんどん出さなければいけません。冗談を言い合いながら、「これいけるんじゃね?」くらいのノリであれこれ出していく。最初のうちは目的思考や意味思考を弱くして、多作多捨的にアイデア出しをするほうが機動性が高まります。その意味でも、言葉遊び的なものとか、形遊び的なものに慣れておくことはビジネススキルの向上につながります。

 中学生の頃、父からレンガ一個を与えられて「今から即、20個の企画を考えてみろ」と言われたことがありました。その時は「むちゃくちゃ言うな」と思ったんですけど、今の僕なら10分あればできるかもしれません。とにかく何でも良いからアイデアを出してみろという授業は、学生相手にもよくやっていますね。

■勉強とは自己破壊

――『勉強の哲学』の重要なポイントの1つが、「勉強とは自己破壊である」という主張だと思います。通常、勉強は何かを身に付ける作業というイメージですが、どうしてこのような主張にたどり着いたのか、そのプロセスに非常に興味があります。

千葉:僕は高校3年生まで受験勉強の鬼みたいな感じでした。だから『ドラゴン桜』作者の三田紀房さんとはすごく波長が合います。でも、大学に入ってからは優等生的なものを脱ぎ捨てて、恋愛もして若者らしく生き直していったんです。サブカルチャーを哲学的に考えたりとか、批評的なものが視野を広げてくれて、今までのガリ勉キャラを破壊してストリート的な身体を生きるようになりました。それは、自分はこういうものだと思っていた自己像を破壊していく行為でした。大学デビューと言うと、勉強しないで適当に遊ぶみたいなイメージかもしれませんが、僕の場合は教養教育を受けたことで大学デビューできたんです。

――その感覚は個人的にすごくわかるのですが、それまでの自分を破壊するのは怖いという人もいると思います。

千葉:そういう人にこそ、この本を読んでほしいです。自分を破壊するのが怖いからこそ、みんな勉強をしないんだということを、システマティックに説明したのが『勉強の哲学』です。ただ、その上で重要なポイントは、本書にはやりたくない人はやらなくていいとちゃんと書いていることです。どうしても自分のアイデンティティを壊すのが怖い人はいます。例えば、マイルドヤンキー的な地元愛を大事にする人とか。僕は、それはそれで美しいとも思っています。大学のインテリは、そういう大衆性を生きる人を馬鹿にしがちだけれど、世の中には色々な人がいるわけですから。

■痛みを享楽に変えるのが人間

――『勉強の哲学』では、人間は基本的にマゾである、痛みを享楽するものだという主張も重要で、これは千葉さんの小説『デッドライン』でも描かれていると思います。しかし、世の中的には痛みをどんどん取り除いて「快適」にしようとする動きばかりが加速しているように感じます。人間が本来マゾであるなら、なぜ社会はそれを取り除く方向に流れるのでしょうか。

千葉:結局、痛みが嫌だからでしょう。二律背反で、痛みは享楽にできるけれど、それでも痛いのはやはり嫌なんです。先ほど話した自己破壊も要するに痛みですから、そういう無理なことをしたくない人も多いわけです。でも、痛みを減らそうとしても完全にゼロになることはない、だから少しでも痛みを快楽に変えようとする傾向が人間にはあります。

――どれだけ痛みを取り除いても、痛みはなくならないのですか。

千葉:そうです。あらゆる外部刺激は本来すべて苦痛であり、光が見えるのだって痛みですから。アメリカの文学理論家のレオ・ベルサーニなどはそういう根本的なレベルでなぜ人間にはマゾヒズムがあるのかを考えていますし、ブッダだっておそらくそうだと思います。生物が生きていくということは、プリミティブな刺激を快楽に変換することなんです。痛みを減らそうとしても減らしきれないので、本当は痛みとは共存しないといけません。もし完全に痛みをなくせると考えている人がいるならば、それは鈍感だし、愚かなことです。この問題は、様々な暴力の問題などともつなげて考える必要があると思います。二村ヒトシさん、柴田英里さんとの共著『欲望会議 「超」ポリコレ宣言』では、そのレベルで痛みを考えています。

――痛みと共存する、あるいは享楽として受け入れるためにはどんなことを実践すべきでしょうか。

千葉:自分の中で、実は嫌だけど楽しいと思えることを発見することでしょうか。例えばスポーツなどは、肉体的に苦しいことをやっているのに、楽しみにしている人も多いですよね。あとは仕事とか。エクセルにデータを入力する作業だって苦痛だと思いますけれど、やり始めると楽しくなってきてしまうことがあるでしょう。人間は物事に集中すると、ある種の自閉症的なプロセスに入っていき、うまくいくと楽しさにつながっていきます。重い腰を上げるのは大変ですが、一度やり始めてしまえば、閉じられた中でのルーティンが回り始めるので、ハムスターがぐるぐる回るのと似たような奇妙な享楽が発生します。

――嫌だけど楽しいと思えることを発見するのは、無意味に思えることにこだわるという話ともつながるのでしょうか。

千葉:つながります。我々が有意味だと思っている仕事も、パーツごとに分けると実はすごく無意味なプロセスの組み合わせから出来ているんです。無意味なプロセスを肥大化させると、非効率な組織になります。書類を馬鹿丁寧に作るとか、きちんとした順序ではんこを押すとかは、まさに苦痛を享楽化したために起きることで、そのほとんどは無意味です。

――手続きの肥大化は基本的に好ましくないことですよね。

千葉:そうですね。でも、無意味で非効率であることが必ずしも悪いわけではありません。例えば新型コロナウイルス対策に関して、手続きなんて飛ばしてすぐに緊急事態宣言すべきだと言っていた人もいますが、それはファシズムにつながる危険性があります。無駄な手続きの肥大化には、ファシズムの防波堤という側面もあるんです。無駄な手続きによって生じるリスクはもちろんありますが、だからといって手続きなしにリーダーが決断すればいいわけではない。

 これはすごく重要な観点で、日本ではリーダーがリーダーらしく振る舞っていないとの批判もありますが、民主主義のあり方として間違っているとは言い切れない部分があります。欧米各国では、国のトップがかなり強いリーダーシップを発揮していますが、ああいうところに欧州文化の暴力性が出ているとも言えるでしょう。一見すると無意味なことによって守られているものもあるという観点があると、痛みと共存する道も見えやすくなるのではないでしょうか。

■『勉強の哲学』から「制作の哲学」へ

――『勉強の哲学 増補版』で加筆された補章では「制作の哲学」というプロジェクトを温めていたと書かれています。それはジャンル横断的に「ものを作ることの原理的考察」であり、『勉強の哲学』も根本的には「いかにして何かを作る人になるか」を考えていたとのことでした。例えば小説『デッドライン』を書かれたのは、その「制作」の実践なのでしょうか。

千葉:そうですね。「制作の哲学」というプロジェクトネームで、ここ数年は色々と実践してきました。小説を書いたのもそうですし、俳句を作ったり、漫画を描いてTwitterに載せたりしているのも全部そのプロジェクトの一環です。

――補章で「勉強しながら何かを制作することは、生活を楽しくするための間違いないやり方」と書かれています。生活を楽しくすることの根本的な大切さとは何なのでしょうか。

千葉:これも苦痛を快楽にするようなひねりのある話になりますが、人間は本能的な必要性を満たすだけでは生きていけないんです。必要だから栄養を取り、眠り、繁殖するだけでは人間らしくいられない。脳神経がすごく複雑に発達したために、腹が減ったとか眠いといった本能的に必要なこと以外にも、余計なことを考えてしまうようになった。人間の知性の余った部分が余計なことを考えてしまうので、何か意味ありげなことをして適当になだめていかないと人はおかしくなってしまいます。それがこの世界に文化が存在する理由なんだと思います。創造的なことをして楽しく生活することは、人間の過剰な認知能力に対する日々の対処なんです。

――新型コロナウイルスで不要不急とは何かと問われる中で、文化の重要性についてこの上なく明快な解答を得た思いです。ありがとうございました。(杉本穂高)

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