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『半分、青い。』はなぜ“新しい”と呼ばれた? 恋愛ドラマの名手・北川悦吏子がもたらした革新

リアルサウンド

18/10/8(月) 6:00

 連続テレビ小説(以下、朝ドラ)『半分、青い。』(NHK)が完結した。左耳が聞こえない楡野鈴愛(永野芽郁)の半生を描いた本作は、大きな反響を呼ぶヒット作となったが、同時に激しい賛否を巻き起こした。

 脚本は北川悦吏子。『ロングバケーション』(フジテレビ系)や『ビューティフルライフ』(TBS系)など、90年代から00年代初頭にかけて、数々のヒット作を生み出してきたベテラン脚本家だ。近年は連続ドラマの執筆から遠ざかっていたが、2016年に久々の執筆となった連続ドラマ『運命に、似た恋』(NHK)を経て、満を持しての朝ドラ登板。それだけに放送当初から攻めた姿勢の新しい朝ドラとなった。

 本作は朝ドラとして何が新しかったのか? まず一番に挙げられるのは、ヒロイン・楡野鈴愛の人物造形だろう。鈴愛は、小学三年生の時に左耳が聞こえなくなる。物語はそんなハンデキャップを持つ鈴愛が健気にがんばる物語になるかと思いきや、負けず嫌いで想像力が豊かな鈴愛は、創意工夫で状況を切り開いていく。高校卒業後は東京で少女漫画家の秋風羽織(豊川悦司)の元でアシスタントとして働き、やがてプロの漫画家としてデビュー。しかし、やがて漫画は打ち切りとなり、自分に才能がないことを悟った鈴愛は、自分の意志で漫画家を辞める。

 朝ドラでは、ヒロインが仕事を通して成長していく過程が描かれるが、仕事を辞めるのは、結婚(母親)と仕事のどちらかを選ばなければいけない時である。そして多くの場合、ヒロインは仕事をやめて母になることを選ぶのだが、鈴愛は、才能がないという身も蓋もない理由で漫画家を辞めてしまい、その後、仕事を転々とする。

 恋愛の描き方も新しかった。幼なじみの萩尾律(佐藤健)に特別な運命を感じながらも、鈴愛は別の男性と恋愛しては失恋し、律もまた別の女性と結婚してしまう。ドラマでは意外な展開だが現実にはよくあることである。さすが恋愛ドラマの名手・北川悦吏子だ。

 漫画家を辞めた鈴愛が、100円ショップで働いている時に知り合った、年下のダメ男・涼次(間宮祥太朗)と勢いで結婚してしまう展開もリアルだが、そんな涼次が映画監督という夢を諦めきれず復帰した時に離婚を告げるという展開には驚かされた。

 朝ドラヒロインが抱える優等生的役割をいかに脱却するかというのは、2010年代の朝ドラが抱えた大きなテーマだったが、そういう葛藤自体を粉々に破壊して終わらせたのが本作だと言えよう。

【参考】脚本・北川悦吏子が明かす、『半分、青い。』執筆の苦悩と喜び 「才能を毎日試されているようでした」

 もう一つ、画期的だったのは、劇中で描かれた時代だ。本作では鈴愛が生まれた1971年から、東日本大震災の起きた2011年までの40年間が描かれた。中でも力が入っていたのが、80年代後半から90年代初頭。言うなれば本作は70年代生まれの個人史を描いた朝ドラということになる。

 江戸末期から明治を舞台にした『あさが来た』のような例外を除くと、近年の朝ドラは、『カーネーション』や『とと姉ちゃん』のような戦前・戦中・戦後を描いた昭和モノと、『純と愛』や『まれ』といった現代モノに分かれる。そんな中、アクロバティックだったのは、00年代後半から2010年代という近過去を80年代という過去との対比で描いた『あまちゃん』だが、『半分、青い。』と時代の描き方が似ていたのは物語終盤で東日本大震災を描いた『あまちゃん』ではないかと思う。

 『あまちゃん』では80年代後半と東日本大震災へと向かっていく2008年以降の日本がアイドルと芸能界というモチーフを通して描かれていたが、本作が優れていたのは80年代の芸能界をノスタルジックに描く一方で、2010年代のネットカルチャーを媒介にして盛り上がるライブアイドル文化の輪郭を必死で捉えようとする試行錯誤が見られたことだ。これは宮藤官九郎の脚本だけでなく、チーフ演出の井上剛たちによる映像面でのこだわりが大きかったと思う。

 対して『半分、青い。』は、少女漫画の世界を用いて80年代末から90年代初頭の日本を描くことでバブル末期の空気を甘美な過去として描くことに成功したが、00年代に入ると作り手の思い入れのなさが画面に現れるようになり、時代モノとしての面白さはどんどん後退していった。

 かろうじて、津曲雅彦(有田哲平)の息子がボーカロイドで作曲し、ニコニコ動画らしき場所で公開している場面は、同時代性を感じさせたが、80年代末の歌謡曲の使い方に比べると、やはり物足りない。

 ただ、これは仕方がないのかもしれない。劇中の時間がポンポン飛ぶことが批判されたが、基本的に本作は鈴愛が興味のないことは描かないという作りになっている。2011年の東日本大震災も、親友の裕子(清野菜名)が亡くなるという形で描かれていたが、どこまで行っても個人史でしかないというのは、本作の魅力であると同時に限界である。出てくるキャラクターは魅力的で、瞬間々々は面白いのだが、物語が行き当たりばったりに見えてくるのが残念だ。鈴愛がそういう性格だから仕方ないと言えば、それまでだが。

(成馬零一)

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