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『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失

リアルサウンド

20/12/5(土) 10:00

『ヒプノシスマイク』から考える映像文化

 最近、この10月からTOKYO MXで始まったテレビアニメ『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』Rhyme Anima‬を観ている(Netflix配信をまとめて観ることが多いのだが)。

 本作は、キングレコードの内部レーベル「EVIL LINE RECORDS」が2017年から手掛ける男性声優たちによる音楽原作キャラクターラッププロジェクトのテレビアニメ化。昨今のオタク系コンテンツ同様、マンガ、アプリゲーム、舞台など、多角的に展開されているメディアミックスの一環だ。本作の舞台設定は、女性だけによる政党「言の葉党」が男性を完全排除した「中王区」で政権を握り、彼女たちが制定した「H法案」によって人間を殺傷するすべての武器の製造禁止及び既存の武器の全面廃棄が実現された世界。そのなかで、中王区外のいくつかの区画(ディヴィジョン)で暮らし、MCグループを結成している男性たちは、言の葉党が武力の代わりに開発し、言葉=リリックによってヒトの交感神経にさまざまな作用を及ぼす「ヒプノシスマイク」を用い、ラップバトルによるテリトリー争いを繰り広げている。

 正直、ぼくはこのコンテンツの熱心なファンとはいえない。しいていえば、10年ほど前に刊行した単著で、メディアの「ソーシャル化」以降に台頭しつつある昨今の新たな映像文化においては、「ヒップホップ」に象徴される「リズム」に準拠した身体的な情動性が鍵となるだろうと、『SRサイタマノラッパー』(2009年)や『サウダーヂ』(2011年)を例に出しながら指摘した者として(拙著『イメージの進行形』第2章を参照)、単に気楽にアニメ版を視聴しているといった程度だ。

 もちろん、この連載のつながりでいえば、前回、「プロセスの映像文化」を定義する際に参照したA・N・ホワイトヘッドの「抱握」概念に関して、まさに「律動pulse」の要素が深く関わっていることを論じた社会学者の伊藤守の議論をここで念頭に置いてもよいだろう(『情動の社会学――ポストメディア時代における“ミクロ知覚”の探究』青土社)。したがって、ここではぼく固有の関心からこのアニメについて書いてみたい。

『ヒプマイ』の示す現代カルチャーのフラットさ

 アニメ版の『ヒプマイ』は、ひとまずは2010年代以降に急速に隆盛した一連の「アイドルアニメ」の系譜に明らかに連なる作品といえる。なおかつ「男性たちのラップバトルを女性が見る」という物語世界の設定にも如実に反映されているが、最近も批評家の石岡良治がたびたび強調する(『現代アニメ「超」講義』)、21世紀以降の「女性オタク」の台頭を表してもいるだろう。

 その上でいえば、本作からはさまざまな意味で、ある種の「フラットさ」を強く感じる。たとえば、こういう議論がすでにされているのかさえぼくは寡聞にして知らないが、『ヒプマイ』の世界観は、「EXILE」グループによる総合エンターテイメントプロジェクト『HiGH&LOW』シリーズ(2015年〜)と多分に共通するところがある。また一方で、Zeebraが企画したラップバトルをテーマとする深夜バラエティ『フリースタイルダンジョン』(テレビ朝日系、2015年〜2020年)から始まる近年の「フリースタイルラップバトル」ブームともリンクしている。実際、この三者が始まった時期は、ほぼ同じだ。しかも、そもそも『フリースタイルダンジョン』のエンディングテーマは、LDHの「BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE」であり、番組ナレーターは、『ヒプマイ』の「MC.B.B」こと山田一郎役を演じる木村昴が務めている。

 かつては、『ヒプマイ』を受容するようなオタク層と、『HiGH&LOW』を観るようなマイルドヤンキー層、そして『フリースタイルダンジョン』に熱中するようないささかアンダーグラウンドなコアカルチャー層とはそれぞれ別々のクラスタに属し、相容れないものだったはずだ。しかし、2020年の現在では、それらが若者文化のなかで相互にユルく、浅く、つながりあっている。これが、『ヒプマイ』のフラットさのひとつだろう。

『ヒプマイ』のフラットな画面

 もうひとつは、この連載が注目している、文字通り「画面」に感じるフラットさ=浅さだ。

 アニメ『ヒプマイ』で劇中でキャラクターがラップするシーンでは、いつも前後の物語世界から切れたようなミュージックビデオ風の映像演出が凝らされる。マイクを持ってラップを歌うキャラクターを中心に、グラフィカルな背景とリリックがリズムにあわせて画面に登場し、それらが組み合わさって画面が展開されていく。その画面は、いわばカラフルな書き割り的背景の上にペタッとキャラクターが乗っているような強い平面性を視聴者に感じさせる。

「ヒプノシスマイク -Rhyme Anima-」MV

 しかも、アニメ『ヒプマイ』の場合、こうした画面の平面性は、ラップバトルのシーンの演出に限らない。そもそも『ヒプマイ』世界のキャラクターたちが暮らすイケブクロ・ディヴィジョン、ヨコハマ・ディヴィジョンなどの街の風景自体がカラフルな色彩が施され、ペラペラの書き割り的なイメージに溢れている。また、そこに立つキャラクターたちも(これも昨今のアイドルアニメに典型的な演出だが)画面に向かって正面に並列する平面的な配置が多く、これらが相俟ってアニメ『ヒプマイ』全体の画面のフラットさ=浅さ、及び一種の「明るさ」を全面に押し出しているのだ。

『ヒプマイ』と大林宣彦的画面の共通性

 いささか突飛すぎる連想を承知で書けば、こうしたアニメ『ヒプマイ』の平面的な画面――フラットで書き割り的な風景イメージは、連載第1回で取り上げた大林宣彦の映画の画面を髣髴とさせる要素がある。

 たとえば、アニメ『ヒプマイ』のディヴィジョンの街頭風景は、大林の商業映画第1作『HOUSE ハウス』(1977年)の冒頭、ヒロインのオシャレ(池上季実子)らの女子高校生たちがたたずむ東京駅の駅前広場の舞台の書き割りのように奥行きを欠いた平板な景色とよく似ている。そして、このロケーションとセット撮影、さらにオプティカル合成やアニメーションといった複数のレイヤーがのっぺりと遠近感なく重ねられた大林特有の画面は、彼の晩年の2010年代に立て続けに撮られた「戦争3部作」(2012年〜2020年)でもふたたび顕著に見られたイメージだった。その意味で、今後の議論を先取りしておけば、このアニメ『ヒプマイ』の平面的な「明るい画面」もまた、すでに大林を論じた拙論で注目したように(「「明るい画面」の映画史――『時をかける少女』からポスト日本映画へ」、『ユリイカ』9月臨時増刊号参照)、おそらくは現代日本映画の「明るい画面」の系譜――それは「アニメ的」でもあり「インターフェイス的」でもある――に連なっているように思われる。

「浅い画面」の『ヒプマイ』ファンの「近づいた」受容

 アニメ『ヒプマイ』の徹底して遠近感を欠いたフラットな画面。それは、「深さ」という「距離」を欠いた画面だといいなおすこともできる。

 おそらくここには、映像文化に限らない、現代における文化消費の構造の特徴が顔を覗かせているのではないだろうか。

 たとえばそれは、コンテンツやスターと、それを消費(受容)するファンとのあいだの関係性(距離感覚)に集約することができる。マンガ研究者の岩下朋世は、『ヒプマイ』が作中の対立チーム間のラップバトルと現実とのメディア展開を結びつける「battle CD」という音源をリリースし、それによって「AKB48総選挙」のように、それぞれのディヴィジョン同士の対決が、音源購入による投票という形で彼らを「推す」それぞれのファン同士の対決とリンクしていく構造に着目し、つぎのように述べている。

 いずれにしろ、こうした展開は、「推す」行為によって、ファンがキャラクターの生に直接関わることができるような仕掛けとなっており、今日的なキャラクターの享受のあり方を体現している。『ヒプマイ』のメディア展開は、ファンに、物語、そしてキャラクターの生へ貢献する感覚を与えるものだと言える。そして、そのことはファンのプロジェクトに対する発言力を強めるものでもあるだろう。実際にその発言がどの程度の影響力を持ち得るかはともかく、「公式」の打ち出す方針や姿勢に対して、ファンとして何かを物申したくなる。ファン参加型のメディア展開は、そうした感覚を刺激する」(「キャラクターはどこにいる――『ヒプマイ』そして「解釈違い」」、『キャラがリアルになるとき――2次元、2.5次元、そのさきのキャラクター論』青土社、185頁)

 岩下によれば、『ヒプマイ』の示すメディア展開は、「『推す』行為によって、ファンがキャラクターの生に直接関わることができるような仕掛け」があり、それによって「ファンに、物語、そしてキャラクターの生へ貢献する感覚を与える」ことを可能にしている。つまり、そこではファンと、彼ら/彼女たちが「推す」コンテンツ(物語、キャラクター)の距離は格段に縮まっている。だからこそ、「『公式』の打ち出す方針や姿勢に対して、ファンとして何かを物申したくな」り、また実際に「ファンのプロジェクトに対する発言力を強め」ているのだ。

「距離」を喪失した21世紀の文化消費

 もちろん、こうした傾向は、何も『ヒプマイ』に始まった傾向ではないだろう。これもまた、コロナ禍以前の2010年代に全面化してきた文化現象のひとつだ。2000年代後半のSNSの普及以降、一方で、ぼくたちはかつては遠い存在だったハリウッドスターや各国の首脳に気軽にメンションを送れるようになり、また他方でパッケージ販売に代わってアイドルの握手会や舞台を典型とするライブエンターテインメントが盛り上がった。それらはひとことでいいかえれば、ぼくたちの文化消費の感覚からあらゆる「距離」(深さ、高さ、広さ)を失わせる動きだった。YouTuberも声優も、地下アイドルもオンラインサロンの主宰者も、伸ばせば手が届くところに近づけることができる。それらはいまや、かつてと比較すると、まさにフラットに「密着」可能な存在になっているのだ。

 それゆえに、ファンは、「物語、そしてキャラクターの生へ貢献」できもすれば、簡単に「何かを物申」すこともできる。しかもこうしたメディア環境の変化による受容の変化は、映画研究者の北村匡平が「原節子の時代から若尾文子の時代へ」という魅惑的なフレーズで定式化したように(『スター女優の文化社会学――戦後日本が欲望した聖女と魔女』作品社)、映画館からテレビへと移行した戦後昭和期にもすでに見られたものでもあるだろう。

「推し」「推す」に見る接触可能性と「遠さ」の消失

 ぼくはとりたててスター研究やファンコミュニティ研究を専門としているわけではないけれども、たとえば、そもそも昨今用いられる「推し」(「推す」)という言葉にも、そうした性質が顕著に表れているように感じるときがある。

 すでによく知られるように、「推し」とは自分が応援したい対象を指す言葉である。もともとはAKBなどのアイドルグループのお気に入りメンバーを「推しメンバー」(推しメン)と呼んだことに由来する。また、そうした「推し」を応援することが「推す」という行為である。

 ぼくがこの「推し」や「推す」という言葉の語感から感じるのは、その親近性、対象との距離の近さの感覚である。

 そして、その近さは、第一に、横のつながり=ファン同士の近さ、そして第二に、縦のつながり=「推す」対象との近さの両方を含んでいる。まず、いうまでもないことだが、「推す」とは本来、「推薦する」=同じ対象を愛好するファン同士のあいだのコミュニケーションの意味を含意しているだろう。実際、最近でも「推し」について考察する哲学研究者の筒井晴香は、SNSの普及に伴って、現代の女性オタク間の「社交」の重要性に注目している(「孤独にあること、痛くあること――「推す」という生き様」、『ユリイカ』9月号所収)。

 さらに、「推し」という言葉の語感は「押し」にも転化し、どこか自分が憧れる対象への「接触可能性」(押せること)のニュアンスを惹起させている。憧れている存在ではあるけれども、同時に自分自身もさまざまな手段を通じて彼/彼女の活動に何らかの影響を与えることができ(まさに「物語、そしてキャラクターの生へ貢献」でき)、推す=押す気になれば推せる=押せるという確かな信憑を感じられる――そういう存在に、ファンが消費する対象が変容しつつあるように思われるのだ。これは直感的な判断でしかないが、たとえば「宇多田ヒカル推し」というとどこか違和感が残るが、「米津玄師推し」というと自然に聞こえる。

 したがって、2000年代あたりくらいまでに流行っていた「萌え」という言葉に代わって(?)、偏愛する対象に対する賞賛の表現として、現在、若者たちのあいだでしばしば「尊い」「尊み」という表現が使われるのを耳にすると、ぼくはどこかとてもシニカルな気持ちになる。それは、いいかえれば、ぼくたちの文化消費の条件から、もはや徹底してかつてのような「尊さ」の感覚が失われているからこそ、逆説的にそれを回復するために用いられているのではないか?

 そして、ここでふたたび話を元に戻して、結論めいたことをいえば、アニメ『ヒプマイ』の画面が示すフラットな平面性とは、そうした「尊さ」(「深さ」)が逆説的に仮構される、「推し」のリアリティに満ちた現代のポップカルチャーの内実を視覚的に体現するもののようにも見えるのだ。

ポストモダン社会における「高さ」=「憧れ」の喪失

 かつてのぼくたちは、自分たちが憧れる対象に対して、絶対的な「距離」(深さや遠さ)を実感することができた。しかし、そうした「距離」は徐々に相対的なものとなり、いまではぼくたちはもはやかつてあった「距離」の感覚すら失われている(そして「尊み」という言葉だけが実質を奪われつつ、インフレ的に使われている)。そして、『ヒプマイ』の画面の奇妙な「浅さ」は、どこかその本質を映し出している。

 以上に述べたぼくの仮説については、じつは若い哲学研究者の岩内章太郎が、ほかならぬポストヒューマニティーズの哲学との関連においてより抽象的に整理している。

 岩内は、かつての近代社会が維持していたひとびとの信念や行動を包摂する共通前提(「大きな物語」)が機能不全に陥ったポストモダン社会、さらにはぼくたちが生きるこの現代社会の特徴を、近代以前にあった「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)が失われた時代だと簡潔に定義する。まず、注目すべきは、ここで岩内が神の存在に象徴されるかつての「高さ」(超越性)の感覚を、まさに「対象への憧れ」として説明している点だ。

 神に限らず、一般に超越性が有する「高さ」は人間の実存にとって二つの意味を持つ。[…]もう一つは、高さへの憧れ。[…]一般に、憧れの対象は私たちの日常性から離れた高い場所に存在している。欲望の対象がロマン化されて超越的理想になる場合、私たちはその高さへの希求を「憧れ」と呼ぶのである。憧れの対象は、特別な対象であり、遠くにあって(まだ)自分には届かないが、手を伸ばして触れてみたいものとして現われる。[…]したがって、こう言うことができる。高さを失うことは憧れを失うことである、と。(『新しい哲学の教科書――現代実在論入門』講談社選書メチエ、18頁、原文の傍点は削除した)

 ここで岩内がいう「高さ」(超越性)を、かつての文化消費にあった意味解釈の「深み」や、ファンがスターに憧れを感じ、希求する「高み」の感覚へと置き換えることができるだろう。そして繰り返すように、おそらくいまやぼくたちはその「高さ」を失い、「憧れ」を失ってしまった。

 ニヒリズムの時代からメランコリーの時代へ

 こうして近代以後=ポストモダンの社会が到来するというわけだが、示唆的なのは、さきほども少し触れたように、このポストモダン以降に生きる、「高さ」(超越性)を喪失したひとびとのリアリティを、岩内がさらに2つの段階に細かく分けている点だ。具体的に言うと、彼はそれをそれぞれ、(1)ポストモダン=「ニヒリズムの時代」と、(2)ポストモダン以後=「メランコリーの時代」と呼んでいる。

  このうち、前者の「ニヒリズム」と規定づけられたポストモダンの特徴とは、「意味の無意味化の経験」だと、岩内は述べる。「一般に、ニヒリズムとは「世界の一切は無意味である」という主張を指すが、この主張の前提にあるのは、かつては何らかの意味があったがそれはすでに失われてしまったということである」、「ポストモダンとは、かつて揺るぎなく存在した「意味」(=モダン)を喪失するという経験だった。もちろん、ポストモダン思想は目の前で「大きな物語」(マルクス主義)が崩れていくのをただ眺めていたわけではなく、はっきりとした動機から積極的にそれを無化し否定した。だが、この無化し否定するという発想はニヒリストのものである」(前傾書、23、24-25頁)。

 かつての「高さ」が失われてしまったポストモダンでは、まずその「高さ」の無化や無意味こそが虚無的に強調された。だが、さらにいまぼくたちが生きている現代――それを「ポスト・ポストモダン」とも「ハイパーモダン」とも呼んでもいいかもしれないが――は、そうではなくなっていると岩内はいう。少々長くなるが、引用しよう。

 ところが、ニヒリズムとは別の形態の意味喪失が存在する。何らかの強い意味があってそれが無化される(あるいは、それを積極的に無化する)のではなく、そもそも強い意味それ自体を見出しにくくなっている状態――私はこれを「ニヒリズム」とは区別して「メランコリー」と呼びたい。ニヒリズムはつねに無化すべき意味を必要とするが、無化すべき意味すら見つからないのだとすれば、私たちは「欲望の挫折」(=ニヒリズム)ではなく、「欲望の不活性」(=メランコリー)を体験していることになる。[…]
ポストモダン以後、私たちは無化すべき対象を見つけることができない。私たちには社会への蔑みや嘲りもない。その気になればそれなりに人生を楽しむこともできるが、同時に、ある種の生きがたさのようなものも感じている。ならば、現代を生きる私たちの実存感覚は前の世代[註:ポストモダン]とは異なるものになっているはずだ。
ニヒリストは伝統的権威に対する「攻撃性」を持ち、あらゆるものは無意味かもしれないという「虚無感」に苦しむが、メランコリストにとっての問題は、欲望の鬱積から出来する「倦怠」と「疲労」、そして、いま手にしている意味もやがては消えていくかもしれないという「ディスイリュージョンの予感」である。要は、「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望をメランコリストは生きているのだ。(前傾書、24-25頁、文を一部削除した)

 かつてのポストモダニスト=ニヒリストは、「高さ」(超越性)や意味の喪失に苦しみ、あるいはあえて無化してみせた(欲望の挫折)。

 しかし、今日のポスト・ポストモダニスト=メランコリストの実存とは、「高さ」(超越性)や意味の喪失という感覚そのものを実感できなくなっている(欲望の不活性)。いいかえれば、ポストモダン=ニヒリズムとは「高さ」(超越性)の喪失という時代だったが、ポスト・ポストモダン=メランコリーとは「『高さ』(超越性)の喪失」自体を喪失してしまった時代である。これを、社会哲学者の橋本努に倣って「ロストモダン」(『ロスト近代――資本主義の新たな駆動因』)と呼んでもよいだろう。

 したがって、そこでは高さも低さも、また遠さも近さもない、底抜けに明るく浅い、フラットな「倦怠」と「疲労」の気分(「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない……」)だけが残される。以上が、岩内の整理である。

時代精神としてのメランコリーと『ヒプマイ』的画面

 岩内自身は、この連載でも取り上げたグレアム・ハーマンらのポストヒューマニティーズの哲学(彼自身はこれを「現代実在論」という名で括り直しているが)を、こうした現代のぼくたちからは失われた「神の「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)」を「回復する運動として――または高さと広さとは別様に生きる可能性として――読み解くことができる」(前傾書、17頁)と解釈している。

 岩内の議論については、またあとでもあらためて触れる予定だが、ともあれ、ぼくもまたこの岩内の整理はかなり的確だと思っている。

 たとえば、ここでいうメランコリーの感覚は、これも近年注目を集める、ハーマン・メルヴィルの短編小説『バートルビー』(「しないでいるほうがいいのですが…(I would prefer not to)」)や、岩内も著作のなかで言及するルーマニアの思想家エミール・シオランのペシミズムにも通底しているだろう(シオランもまた、「倦怠」を強調する)。

 そして何より、勤務先の大学で20歳前後の学生と日々接しているぼく自身の個人的な実感としても、ポストモダン=ニヒリズムのリアリティは、ぼくの属するいわゆる「ロスジェネ世代(以前)」、そしてポスト・ポストモダン=メランコリーのリアリティは、その下のいわゆる「ゆとり/さとり世代」の持つ特徴にほぼ正確に対応しているように感じられる。若い世代のあいだに広がる「推す」カルチャー(感受性)、ある種の「距離」を失った感覚は、ここに帰着させることができるのではないか。ただ注意したいのは、こうしたビリー・アイリッシュ的な21世紀特有のメランコリーは、単に若い世代に特有のものではなく、おそらくは時代精神として、本質的にこの時代を生きるぼくたちすべてを覆っているということだ。いま、ぼくたち一人ひとりがぼんやりと感じているバートルビー的な「倦怠」や「疲労」、「生きがたさ」。それらの正体は、この「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない……」というメランコリーなのである。

 そして、「推し」を観るためにファンが熱中するアニメ『ヒプマイ』の書き割り的なフラットな「画面」は、そのメランコリーを、じつに「明るく」、のっぺりとイメージ化しているのだ。

『羅小黒戦記』のポストコロナ的フラットさ

 そういえば、現在、話題になっている中国のアニメーション映画『羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)ぼくが選ぶ未来』(2019年)が描き出す世界も、ここで述べてきた図式と重なっている。最後にちょっとだけ述べておきたい。

 もとより、主人公の黒猫に変化する少年の妖精・小黒(声:花澤香菜)をはじめとする森に住む妖精たちが、人間の自然破壊により棲家を追われ、図らずも彼ら妖精というノンヒューマン・エージェンシーと人間が接触し、互いに競合することになるという本作の世界観は、いうまでもなく連載の第1回でも論じた現在の新型コロナウイルスとぼくたちとの関わりを寓意的に表しているかに見えてしまう。

 そのなかで、当初、居場所を失った小黒を自分たちの仲間に加え、優しく面倒を見ながら、じつは密かに妖精たちの居場所を壊した人間たちに復讐を企む妖精・風息(声:櫻井孝宏)は、植物を操る超常的な力を駆使して、かつての神聖な森をふたたび復活させようとする。物語のクライマックスで、小黒と、人間でありながら妖精との共生を目指す執行人・無限(声:宮野真守)と対決した風息は敗れることになるが、このときのかつてあった「高さ」(超越性)の復活を目指しながらも挫折する風息と、もはやそうした「高さ」を目指さず、ヒトとヒトならざるモノたちとのフラットな共生を志向する無限/小黒の姿は、それぞれどこかポストモダン的なニヒリストと現代的なメランコリストと重なって見えるのだ。 

 あるいは、このアニメーションは『ヒプマイ』とはまた違った意味で、多分に「フラットさ」を含んでもいる。本作は、もともとこの後日譚となる物語が2011年から発表されているが、それはFlashを用いたウェブアニメだった。また、すでに多くの指摘があるように、『羅小黒戦記』は中国製のアニメーションでありながら、その物語や表現、ギャグのセンスにいたるまで、『DRAGON BALL』(1984年〜1995年)など、現代日本のマンガ・アニメの影響を強く受けている。つまり、『羅小黒戦記』においては、人間/妖精という物語世界の対と重ねられるように、ウェブ/映画館、日本/海外といった境界=距離もフラットに均されているのだ。

 第2回でも名前を出した土居伸彰がすでに卓抜に指摘しているように(『21世紀のアニメーションがわかる本』)、こうしたかつて存在したさまざまな区別や境界がファジーに失われている点は、21世紀以降の現代アニメーションの示す大きな特徴のひとつだが、それは他方で、この連載が注目している「画面」の変容とも関わっているだろう。『羅小黒戦記』の「画面」は、中国の作品ではあるが、日本の『ヒプマイ』の「画面」とも意外に近いところで共振しているはずである。

 さて、以上までで、さしあたりコロナ禍=「新しい日常」の映像文化が見せている「新しい画面」について概観してきた。次回からは、この「新しい画面」たち――それらはひとまずフラットで明るい画面だ――が、どのような歴史を背負って現れてきたのか、その変遷を考えてみたいと思う。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■放送情報
『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』
TOKYO MXほか、毎週金曜日24:00〜放送中
声の出演:木村昴、石谷春貴、天﨑滉平、浅沼晋太郎、駒田航、神尾晋一郎、白井悠介、斉藤壮馬、野津山幸宏、速水奨、木島隆一、伊東健人、小林ゆう、たかはし智秋ほか
原作・音楽制作:EVIL LINE RECORDS
監督:小野勝巳
シリーズ構成:吉田伸
キャラクターデザイン:芝美奈子
総作画監督:芝美奈子、落合瞳、竹内由香里
サブキャラクターデザイン:川口千里、新谷真昼
プロップデザイン:江間一隆
美術監督:岡本綾乃
色彩設計:ホカリカナコ
撮影監督:宮脇洋平
CG監督:野間裕介
編集:西村英一
音楽:R・O・N
音響監督:本山 哲
音響制作:HALF・H・P STUDIO
制作:A-1 Pictures

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