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葛西純自伝『狂猿』第7回 「クレイジーモンキー」の誕生と母の涙

リアルサウンド

20/3/31(火) 12:00

 葛西純は、プロレスラーのなかでも、ごく一部の選手しか足を踏み入れないデスマッチの世界で「カリスマ」と呼ばれている選手だ。20年以上のキャリアのなかで、さまざまな形式のデスマッチを行い、数々の伝説を打ち立ててきた。その激闘の歴史は、観客の脳裏と「マット界で最も傷だらけ」といわれる背中に刻まれている。クレイジーモンキー【狂猿】の異名を持つ男はなぜ、自らの体に傷を刻み込みながら、闘い続けるのか。そのすべてが葛西純本人の口から語られる、衝撃的自伝ストーリー。

関連:“デスマッチファイター葛西純が明かす、少年時代に見たプロレスの衝撃 自伝『狂猿』連載第1回

 当時の大日本プロレスのなかで、本間、山川、WX、ウィンガーというのがデスマッチ戦線の四天王で、彼らに比べて俺っちは、体格的に見てもテクニック的に見ても、まだまだだと感じていた。強さだけじゃなく、華や色気みたいな部分でも全部劣っていたから、どうすればこの4人を超えられるのか、デスマッチファイターとして上に行けるのかということを模索していた。

■CZWに加入しザンディグとタッグ結成

 そのころ、大日本プロレスでは年末の「最侠タッグリーグ」が始まるという時期だった。CZWからはザンディグとニック・ゲージがタッグを組んで出場する予定だったんだけど、ニック・ゲージがビザのトラブルで来日できなくなってしまった。会社内で、じゃあザンディグのパートナーどうするってモメてるときに、ここで俺がいったら面白いんじゃないかなとひらめいた。CZWの奴らとはノリが合ったし、特にどのユニットに属してるわけでもなかった俺っちがガイジン軍団に入ってしまえば、単純に目立つんじゃないかと思ってね。それで、札幌の大会のときにリング上でアピールして、ザンディグのパートナーに名乗りをあげた。会社はどう思ったかわからないけど、お客さんの支持は得られて、俺っちは日本人なのにCZWに加入する形になり、ザンディグとタッグを組むことになった。

 この「最侠タッグリーグ」では、準決勝でシャドウWX&アブドーラ・ザ・ブッチャー組と戦って、ブッチャーからフォールを取った。ブッチャーとは、その前から試合をする機会があったんだけど、子供の頃から見ていたブッチャーに勝ったのは感慨深かったね。

 ブッチャーは試合では容赦ない人でいつもボコボコにされたけど、リングを降りれば紳士で、俺っちのことをすごく可愛がってくれた。ご飯をご馳走になったことあるし、「ヤングボーイにシューズ買ってきてやったよ」って、スニーカーも2回ぐらいプレゼントしてもらった。俺っちの髪の毛がちょっと伸びてる感じだったら「このマネーで床屋行ってこい」ってお金もらったこともある。若手に対して、面倒見がいい人だった。

 俺っちのタッグパートナーとなったザンディグは、不思議な魅力のある男だった。ザンディグからは、プロレスのテクニックや、練習のやりかたとかに関しては見習う部分はまったく無かったけど、プロレスラーとしての自己プロデュース法とか、個性の出し方というのは側で見ていてすごく参考になった。ザンディグはリングの内外で、どんなパフォーマンスすれば自分を売り込めるか、この業界で上がっていけるかということをいつも考えていて、デスマッチに対しての哲学も独特だった。

 デスマッチファイターによって考え方は違うと思うけど、ザンディグは、デスマッチという普通のプロレスと違うことをやるからにはオーディエンスにたっぷり期待させて、喜ばせて、その期待を超えるインパクトを残していかないとダメだと言っていた。デスマッチなのに地味なことをやって、お客さんにも伝わらない自己満足するような試合をしても意味がない。その姿勢には、俺っちも少なからず影響を受けたと思う。そんなザンディグに比べると、他のCZWメンバーはおとなしいというか、何も考えてないようにみえた。試合以外ではそこまで暴れることもないし、いま思えばみんな若手のガキだった。そのなかで、ザンディグは頭1つも2つも抜きん出たビッグボスだったし、不思議なカリスマ性があった。

■たまたま生まれた「猿キャラ」

 最侠タッグでザンディグと組んで、年越してからも相変わらずCZW・JAPANとしてやりながら、俺っちはどうにか自分のキャラクターを確立させたいともがいていた。そんなある日、ザンディグと2人でプロレス・格闘技専門チャンネル『サムライ』のニュース番組にゲストで出てくれというオファーがあった。それでザンディグとふたりでスタジオに行ったら、たまたま別の番組で関わってたキックボクシングの伊原(信一)会長がサムライのスタッフにバナナを山ほど差し入れてくれてたみたいで、「スタッフで食べ切れないのでゲストのみなさんも好きなだけ食べてください」って、控室のテーブルにバナナがいっぱい置いてあった。

 俺っちは、昔から猿みたいな顔っていわれてきたし、バナナが似合うと自負していた。このままニュースに出ても気の利いたことも喋れないから、本番中にひたすらバナナでも食ってれば何も言わなくて済むんじゃないかって思ったんだ。それでスタジオにバナナを持ち込んで、本番が始まったら、ザンディグが何か吠えてる横で、俺っちは松崎駿馬さんの物真似しながらひたすらバナナを食ってた。それが自分の予想以上にウケたんだよ。

 放送を見たファンから「めちゃくちゃ面白かった」とか、「葛西は本当に頭がおかしいのか」って声が届いて、同じプロレス業界の人からも「あれよかったよ」「本当にキチガイだな」って褒められた。だったら試合もこのセンでいったら面白いんじゃないか。

 それまでのデスマッチは、殺るか殺られるかの世界で、殺伐としていて、泥臭かった。俺っちは、それ以上に激しいことをやりながら、試合中にバナナ食ったり、引っ掻いて逃げたりとか、ちょっとコミカルな部分を織り交ぜていくのはどうかな、と考えた。動きのモチーフは猿だけど、人間じゃないから何するかわからないというイメージ。要は、ファンが俺っちの試合を見てて「葛西は本当に頭がおかしいんじゃないか」って思ってもらえるようなモノにしたかった。それをだんだん具現化していって出来上がったのが「クレイジーモンキー」というキャラクターだ。入場曲もスキッド・ロウの「Monkey Business」に変えた。これはザンディグが「クレイジーモンキーならこの曲しかないだろ」って決めた。ザンディグはスキッド・ロウが好きだったからね。

 いまとなっては、キャラクターレスラーもいっぱいしるし、コミカルな試合も当たり前になったけど、当時はデスマッチだけじゃなくプロレス界全体で「お笑い」はご法度だったし、ファンからもソッポを向かれる可能性のほうが高かった。だから、これはギャンブルだと思ってた。真面目なファンから「ふざけんじゃねぇ!」っていわれるか、「葛西は狂ってるな!」って応援してもらえるか。結果的に、めちゃくちゃウケて、クレイジーモンキーは葛西純の代名詞になった。いまも俺っちの試合に欠かせないアイテムになってるゴーグルを使い始めたのもこの頃だ。

■パールハーバー・スプラッシュをやり続けるワケ

 CZWの一員として来日していたマッドマン・ポンドが入場の時のコスチュームとしてゴーグルを使っていた。ある日、ポンドが「いっぱい持ってきてるからカサイにもやるよ」って、ゴーグルをひとつくれた。もらったはいいけど、入場時にゴーグルをつけるっていうのはポンドがやってるから、じゃあ俺っちはこれを試合中に使えないかなと考えた。

 当時、WWF(現WWE)で、スコッティ2ホッティとタッグを組んでた、グランドマスター・セクセイという選手が、コーナートップに上がって、ゴーグルを装着してからダイビングギロチンをする「ヒップホップ・ドロップ」という技をやっていた。俺っちはダイビングギロチンなんてできないから、これをスプラッシュでやったらいいんじゃないかなと思いついた。

 それでコーナーに上がって、ゴーグルをかけて、特攻するイメージで敬礼してから飛ぶ「パールハーバー・スプラッシュ」が生まれた。なんでゴーグルかけて敬礼して飛ぶんだって聞かれたから「このゴーグルは真珠湾攻撃で亡くなった爺ちゃんの形見。だから、敬礼してから飛んでるんだ」って答えたら、それが公式の由来になった。

 でも俺っちは、この「パールハーバー・スプラッシュ」をフィニッシャーにしようと思ってたわけじゃなかった。そもそもダイビング・ボディプレスもそんなに得意じゃなかったし、地方の試合とかでも勢いでバンバンやっていただけだった。そしたらある日、試合を見てくれていた大黒坊弁慶さんが「葛西、あの技、いいぞ」って話しかけてきた。「そうですか? ただ単にゴーグルかけて、敬礼して、綺麗でもないスプラッシュやってるだけですよ」なんて返したら、「いや、あれはいい。何があってもあの技だけはやめるなよ」って言われた。それがなぜか心に残ってて、今も「パールハーバー・スプラッシュ」をやり続けてる。

■アメリカの試合で残した爪痕と150針の大ケガ

 CZWのメンバーになってから、出身も「ヒラデルヒア」にして、ワイフビーターの家に下宿してるというギミックにしてたけど、実はアメリカなんて行ったこともなかった。だけど、ザンディグがアメリカでのCZWの興行にカサイを連れていきたいって言い出して、大日本プロレスにオファーをかけたら別にいいよという感じなった。俺っちも、会社が言うなら行きますよってことで、初めての海外遠征が決まった。

 俺っちはCZWでガイジンと組んでるからといって英語ができるわけでもないし、初めてのアメリカで右も左もわからなかった。最初はザンディグの家に泊まって、最後の2日間はジャスティス・ペインの家に泊まらせてもらうという話だったけど、とにかく試合をすればいいってことだけ考えてた。

 現地に着いてからザンディグに、俺っちは誰と組んで誰と対戦するんだって聞いたら「セミファイナルでニック・モンドと組んで、ジャスティス・ペインとジョニー・カジミアとやる」と。まぁ、日本でもやってるような連中だったから、それはなんとかなりそうだ。それで、デスマッチ形式はなんだって聞いたら、「俺、明日からワイフビーターと一緒にメキシコ行っちゃうから、よくわかんねぇ。あとは他の奴と相談してくれ」みたいな感じで、なんだそれって思いながらも当日、会場に行った。

 会場っていっても、消防署のデカいガレージみたいな所で、パートナーのニック・モンドに「今日の試合形式は?」って聞いたら、「たぶん蛍光灯デスマッチじゃね?」みたいな感じで言われた。ある程度そんなモンだと思ってたけど、みんな雑で適当なんだよ。

 試合時間が迫ってきて、入場曲が鳴ったからリングに向かったら、蛍光灯どころか、アイテムらしきものがなにもなかった。なんだよ、普通の試合じゃねえかと思いながらコールを受けて、今からゴングがなるっていうタイミングでリングアナがマイクで何かベラベラ喋りだした。

 英語なんてわからないから、何言ってんだろうと思ってたら、会場中のファンがいきなり動き出して、自分の家から持ってきたガラクタやら、画鋲のついたバットやら、割れたでっかい鏡なんかを、リングの中にバーって投げ入れ出した。いま思えば「観客凶器持ち込みデスマッチ」だったんだけど、当時の俺っちはおいおい聞いてねえよっていう感じで試合がはじまった。

 場外乱闘になると、客が何だかわからない凶器をどんどん渡してくる。それを片っ端から使いまくった。その中に、蛍光灯を並べたボードがあって、それに突っ込んだら左の肘が凄く切れてしまって、骨が見えてるくらいの傷になってた。背中も蛍光灯やらガラスやらで切り刻まれて血だらけ。こっちは夢中でやってたけど、とにかく観客の熱狂度が凄かった。

 なんとか試合が終わって、控室に帰ろうとしたら、会場に見にきてた女の子がもう興奮しちゃってて、Tシャツとブラジャー脱いで半裸になって踊ってるから、こっちは傷の痛さも吹っ飛んで思わず見入っちゃったよ。控室に帰ったら、その興行に出てた他のレスラーからも「グレート!」みたいに声をかけられて。アメリカに爪痕残してやったよ、っていう達成感があった。

 控室には、自称・医者というおばちゃんがいて「ここで縫う」っていわれて、その場で肘の手当をしてもらって、背中も150針縫った。結果的には、爪痕以上に、傷跡が残ったってことだね。

 そのまま病院にも行かず、ジャスティス・ペインのクルマに乗って帰ることになったんだけど、途中で背中が痛くて痛くてたまらなくなって、どうにかならねえかって言ったら、ジャスティス・ペインが「これ飲めよ」って、痛み止めの薬をくれた。それ飲んだら痛みは止まったんだけど、今度はクスリが強すぎて気持ち悪くなってきちゃって、クルマ止めてもらって、ハイウェイの路上に飛び出てゲロ吐いて。それを3回ぐらい繰り返して、ようやく帰れた。

■傷だらけの体を見て泣いた母

 翌日には飛行機に乗って、日本まで16時間のフライト。まだ背中が痛いから、シートにもたれられなくてずっと前傾姿勢のまま16時間過ごした。地獄のフライトだった。満身創痍だけど、とりあえずは無事に日本に帰ってこれた。いちおう報告しておくか、と、大日本の道場に帰国の挨拶に行ったら「じゃあ、明日はバトラーツの札幌大会に選手を派遣することになってるから、札幌行って試合してきて」と言われた。背中一面傷だらけで血が滲んでるのに、言われたとおりに翌日には飛行機で札幌行って、バトラーツの大会に出て、臼田勝美さんと試合をした。

 それで帰れるかと思いきや、「こんど帯広で大日本の興行やるから、ついでにその営業してきて」って言われて、そのまま帯広に飛んで、営業まわり。アメリカでの試合も大変だったけど、日本に帰ってきてバトラーツの試合出て、その後に帯広で1週間営業やった方がキツかったね。

 幸か不幸か、営業先が帯広だったから、久々に実家に帰ることができた。それで当然、風呂に入るんだけど、そのとき母ちゃんが俺っちの傷だらけのカラダを見て、「あんた、なにやってんの!」って泣きだした。「東京にプロレスをしに行ったんじゃないの?」って泣きながら怒られて、「いや、これがプロレスやってきた証だよ」って言ったんだけど、「そんなのプロレスじゃないでしょ!」ってね。

 ウチの家族は、俺っちが新人時代の試合しかみてなかったから、デスマッチファイターとしての俺がどんなことしてるのかは知らなかったんだ。親に泣かれてしまったけど、それでデスマッチを辞めようとはこれっぽっちも思わなかった。俺っちはまだ何もできてない、もっとやってやるとしか考えてなかった。

■葛西純(かさい じゅん)
プロレスリングFREEDOMS所属。1974年9月9日生まれ。血液型=AB型、身長=173.5cm、体重=91.5kg。1998年8月23日、大阪・鶴見緑地花博公園広場、vs谷口剛司でデビュー。得意技はパールハーバースプラッシュ、垂直落下式リバースタイガードライバー、スティミュレイション。

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