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村井邦彦×吉田俊宏 対談:アルファミュージックの原点を語る

リアルサウンド

21/3/4(木) 17:00

 リアルサウンド新連載『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』の執筆のために、著者の村井邦彦と吉田俊宏は現在、様々な関係者に話を聞いている。その取材の内容を対談企画として記事化したのが、この「メイキング・オブ・モンパルナス1934」だ。

 第五回は、村井邦彦の誕生日となる本日3月4日にBlu-rayボックス『ALFA MUSIC LIVE-ALFA 50th Anniversary Edition』(完全限定生産盤)が発売されることを受けて、改めて吉田俊宏が村井邦彦に取材。ミュージシャンたちとの出会いやアルファミュージック設立にいたる経緯、5月革命の余韻が残る1969年のパリの雰囲気などを語った。(編集部)

※メイン写真は『ALFA MUSIC LIVE』より。撮影:三浦憲治

アーティストたちとの出会いは偶然

吉田:『ALFA MUSIC LIVE』の映像を見直してみて改めて感じるのは、ここに出てくるアーティストたちがいなければ、日本のポピュラー音楽の歴史はずいぶん違っていただろうなということです。ユーミン(松任谷由実)やYMO(イエロー・マジック・オーケストラ、細野晴臣・高橋幸宏・坂本龍一のトリオ)をはじめ、歴史を変え、歴史をつくった人たちばかりですからね。村井さんの才能を見いだす眼力が確かだったともいえますが、村井さんはどんなところに着目して、彼らをアルファミュージックやアルファレコードに引き入れたのでしょうか。

村井:はっはっは。いやあ、最初から難問を突きつけられましたねえ。うーん、そういう人たちと出会えたということ自体、もう偶然なんですよ。僕がたまたまキャンティっていうイタリアンレストランに出入りしていた、そのキャンティをつくった川添のお父さん(浩史)と息子の象(しょう)ちゃん(川添象郎)がミュージカル『ヘアー』を手がけた、そこに小坂忠や細野晴臣がいて、その周りにユーミンがいた……、みたいなね。

吉田:偶然に偶然が重なった、と。

村井:そうですね。でも、やっぱりユーミンの曲を初めて聴いたとき、これは今までにない作曲家だなと思ったんですよね。例えば、簡単なフォークソングだとハ長調ならハ長調のままですよね。でも、ユーミンの場合、ひとつの曲の中にいろんな調性が出てくる。使っているコードも多彩ですよね。僕はそこがすごく気に入ったんです。

吉田:村井さん自身、ジャズ出身ということもあって、作曲家としていろんなコードを使っていますからね。

村井:そうそう(笑)。ただ、ユーミンはそれと同時に彼女の書く歌詞の初々しさっていうのかな、感性が素晴らしかった。

吉田:細野さんはどんな印象でしたか。

村井:何といっても音楽性がいいんですよ。どう説明していいか分からないんだけど、例えば、細野がドミソのコードをギターでジャランと弾いただけで、もう他の人と違うわけ。それが素晴らしいなと思って、一緒にスタジオで仕事するようになったわけです。ユーミンが『ひこうき雲』を作るときに「音楽監督をやってくれ」と細野に頼んだら、彼がマンタ(松任谷正隆)を連れてくるわけですよ。

吉田:それも偶然の出会いというわけですね。

村井:まさにそう。そうやって、次から次へとそういう人たちと出会っていったわけです。だから本当に運命みたいなものですね。

吉田:偶然を生み出す何か不思議な……、人を引き寄せる引力が村井さんにあったのだろうなと思えますね。

村井:うん、あったかもしれませんね。アーティストとの出会いって本当に面白いですよ。同じ時期に第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)に勤めながらシンガー・ソングライターとしてデビューした小椋佳さんと出会っているんだけど、向こうも僕に対してひらめかないし、こっちもひらめかない。だから友達としては付き合っているのに、レコードを作るには至らなかったんです。つまり一緒に何かをやる相手というのは、お互いにピンと来るものがあるんだろうねえ。アーティストの方も、僕の方もね。

吉田:当時、作曲家が自らアルファのような音楽出版社やレコード会社を設立するなんて、ほとんどありえない話だったわけですよね。村井さんは若くして作曲家になって、すぐに売れっ子になった。既存のレコード会社の要求は「さらに売れる曲」だったわけですよね? 自分で会社をつくってしまった背景には、そうした状況への反発もあったのでしょうか。

村井:その通りなんです。僕は作曲家として世に出る前、赤坂でレコード店を開いていたんですよ。

吉田:まだ慶応大学の学生時代ですよね。

村井:4年の頃です。僕は会社員になるのは嫌で、独立して何かをやろうと思っていた。レコードが大好きだからレコード屋さんをやったわけです(笑)。大学を卒業したころかな、ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」が大ヒットしたんです。僕は大学のジャズオーケストラでアレンジをしたり、作曲も少しはやったりしていたけど、そういうヒットソングを書くという発想はなかったんです。少なくともそれまでは。ところが「ブルー・シャトウ」を聴いたら、和声の進行が非常に洋楽的なんですよ。こういう曲なら僕でも書けるんじゃないかと思って、友達にフィリップス・レコードの本城和治さんを紹介してもらった。

吉田:それでヴィッキーとか、森山良子さんに曲を提供して、作曲家になったのですね。

村井:そうそう。何作目かでザ・テンプターズの「エメラルドの伝説」が当たっちゃったんですよ。そうしたら、すぐにナベプロ(渡辺プロダクション)やホリプロから曲の注文が殺到して、わずか1年か2年ぐらいの間にヒットソングライターが経験する一通りのことはやってしまった。その最中に加橋かつみの録音に立ち会うためにパリへ渡って、フランスの音楽業界の王様みたいな存在のエディ・バークレイのところで仕事をして……。

吉田:エディ・バークレイは村井さんと一緒に書いている小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』の「エピソード1」にも登場させましたね。ドレスコードの厳しいカンヌのコンサート会場にホテルのバスローブ姿で現れたおじさん(笑)。あのエピソードは実話なんですよね。

村井:そうそう、あれにはまいったね(笑)。僕はバークレイの音楽出版部門の責任者ジルベール・マルアニからバークレイが保有する楽曲を日本で売る権利を買ったわけです。最初に選んだのが4曲で、その中の1曲に「マイ・ウェイ」が入っていた。

吉田:それで作詞家の山上路夫さんと一緒に音楽出版社のアルファミュージックを旗揚げするんですよね。「マイ・ウェイ」はポール・アンカが英語の歌詞をつけて、フランク・シナトラの歌で大ヒットするわけですが、そうなる前の段階ですものね。売れた後の「マイ・ウェイ」を買ったのなら分かりますが、フランス語の原曲「コム・ダビチュード」の時点で、その権利を村井さんは買った。

村井:そうなんですよ。

吉田:慧眼というべきか、素晴らしい嗅覚ですね。それだけでも村井さんの凄さの片鱗がうかがえますよ。大ヒットした「マイ・ウェイ」は旗揚げしたばかりのアルファミュージックにとっては大きな収益源になったでしょうね。

村井:自分たちが書いた山上・村井コンビの曲としては、赤い鳥の「翼をください」が1971年に出るんですけど、ユーミンはせっせと曲を書いている習作の段階で、まだ収入源になっていませんでしたからね。「マイ・ウェイ」と「翼をください」で食いつないでいた(笑)。面白いですね、考えてみると。

吉田:1969年に加橋かつみさんのレコーディングでパリへ行った。その旅が村井さんの転機になったわけですね。

村井:そうですねえ。エディ・バークレイを通じて欧米の音楽業界の要人と付き合うようになったのですが、ずいぶん日本と様子が違うんですよね。日本のレコード会社といえば、ほとんどが大きな電機メーカーの子会社でしょう。松下電器産業(現在のパナソニック)とかソニーとかね。向こうは本当にレコード屋さんなんですよ。例えばエディ・バークレイにしても、彼は作曲家で、元レコード屋ですからね。ナイトクラブでピアノを弾き、自分のオーケストラも持っていた。そんな人たちがレコード会社を経営しているなんて、これは面白いなって思いましたよ。僕も作曲家として同じことをやってみたいと考えてアルファミュージックを始めたのです。

吉田:へえー、バークレイも作曲家でレコード店を開いていたのですか。村井さんが学生のころ始めたレコード店は「ドレミ商会」という名前でしたよね? レコードへの想いが本当に強かったんですね。

村井:ドレミ商会は赤坂のホテルニュージャパンの隣にあったんですよ。僕は音楽も好きなんだけど、本も大好きでね。とにかく自分が欲しい本とレコードを好きなだけ買えるくらいにはお金持ちになりたいな、っていうのが僕の子どもの頃からの夢だったの(笑)。でね、レコード屋をやればお店にレコードがたくさんあるから、いつでも聴ける。これはいいな、という単純な発想でしたね(笑)。

吉田:ははは。ケーキ屋さんやおもちゃ屋さんを夢見る子どもと発想は同じかもしれませんが、大人になるまで夢を見つづけるのは大変なことで、それも才能ですよ。本もレコードもタイムマシン的なところがあって、ページをめくればアーネスト・ヘミングウェイに会えるし、針を落とせばベニー・グッドマンにも会えますものね。

村井:うん。本とレコードは本当に魅力がありますねえ。日本にいてもヨーロッパの音楽が聴けるし、うんと古い時代の音でも聴けるわけですから。例えば、ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937年)のピアノを今でも聴けるんですよね。

吉田:ガーシュウィンが作曲した曲を後の人が演奏した録音ではなく、ガーシュウィン自身の演奏ということですね?

村井:そう。彼はね、ピアノロール(演奏情報を記録した巻紙。自動ピアノに装着して演奏させる)に録音していたんですよ。それからピアノロールで僕が好きだったのはね、ロシア人のピアニストで作曲家の……、ど忘れしちゃったな。

吉田:えーと、ラフマニノフ(セルゲイ、1873~1943年)ですか?

村井:そうそう、ラフマニノフ!  ラフマニノフも残しているよね。たぶんロールだと思うんですけど、それを基にしたCDも出ています。1930年代くらいの録音ですが、そういう過去のものね。戦争直前のフルトヴェングラー(ヴィルヘルム、1886~1954年)指揮のベルリン・フィルとかもいいし、最近聴いて凄いなと思ったのは、李香蘭(山口淑子、1920~2014年)の歌う「蘇州夜曲」。これなんか満州(現在の中国東北部)録音だよね、きっと。そういうのを考えると、アルファのスタジオでユーミンやYMOが録音してもう40~50年たちますからね。同じような記録になってくるのかなというふうにも思います。

1969年のパリで受けた衝撃

吉田:今や日本だけでなく、海外にも当時のアルファの音楽をむさぼるように聴いている若者が増えているそうです。今の我々がフルトヴェングラーの音は凄いと言っているような感覚で、彼らは細野さんとかユーミンの音に触れているわけですよね。

村井:本当にそうですね。

吉田:そういう意味でも、アルファは歴史をつくった存在だといえますね。話は戻りますけど、エディ・バークレイのところに行ったのは、キャンティの川添浩史さんがバークレイと知り合いだったからですよね?

村井:そうです。事の起こりは、加橋かつみがザ・タイガースを抜けて今後どうしようかっていうときに、加橋をかわいがっていた川添さんが「いっそ、フランスのレコード会社の専属になったらどうだ」と言いだした。それで加橋は川添さんの口利きでバークレイ・レコードと契約したわけです。川添さんは息子の象ちゃんに「おまえ、加橋のレコードを作ってこい」と指令を出して、加橋と象ちゃんがパリに行ったんですよ。1969年5月ごろかな。

吉田:村井さんは最初から一緒に行ったわけではないのですね?

村井:うん。国際電話で象ちゃんと話したら「クニは加橋に曲も書いているし、面白いからパリに来ないか?」って言うんですよ。それで、すぐパリに飛んで行ったわけ。他の仕事を放りだして2カ月くらいパリにいたかな。面白くて、面白くて、仕方がないくらい面白かったからね。もちろん、加橋のレコーディングに立ち会ったり、曲を書いたりもするんですけど、バークレイ・レコードやバークレイの音楽出版部門の人たちとも仲良くなって、とにかくワイワイやっていたんです。あのときレコーディングしたスタジオには24チャンネルのレコーダーがあったんですよ。

吉田:へえー、日本では4チャンネルとか、せいぜい6チャンネルくらいの時代ですよね。

村井:そうそう、ビクターが6チャンネル、テイチクは4チャンネルだったかな。そんな感じでした。だから欧米の最先端を目の当たりにして衝撃を受けるわけですよ。それで出版部門のヘッドだったジルベール・マルアニと仲良くなって「バークレイ出版が著作権を持っている曲の中に、日本のサブ・パブリッシャーが決まっていない曲がたくさんあるから、気に入った曲を持っていっていいよ」と言われたわけです。1曲100ドルくらいだったかな。うんと安かった(笑)。さっき言った通り、そのうちの1つが「マイ・ウェイ」だった。

吉田:凄い話ですねえ。そういえば1969年のパリというと68年の翌年ですから、五月危機(5月革命、パリの学生運動を契機にフランス全土に広がった社会変革運動)の名残が相当あった時期でしょうね。

村井:あ、凄かったですよ。実際に68年はなんとかド・ゴール大統領で切り抜けたんですけど、69年になって国民投票をやったんですね。それでド・ゴールが僅差で敗れてね、69年にもう引退しちゃうんですよ。だから僕たちがパリにいた5月くらいにはド・ゴールを支持する年を取った人たちと、支持しない若い人たちのデモが両方で行われているわけ。

吉田:凄い時期にパリにいたんですねえ。

村井:うん。若い人たちはサンジェルマン・デ・プレの方でデモをやり、ド・ゴール支持の人たちはシャンゼリゼ通りをバーッと行進するんですよ。そういえばサンジェルマン付近で学生と警官隊が追っかけっこをしていたな。夜中にレストランから出ると、目の前を3人くらいの学生がダダダダって走っていったりしてね。

吉田:まるで映画のようですが、それが当時のリアルなパリだったわけですね。

村井:サンジェルマンのうんと細い裏通りにキャステルというディスコティークがあって、映画『男と女』の音楽を手がけたフランシス・レイとか、ピエール・バルー、まだ学生だったファッションデザイナーの高田賢三とかね、そういう人たちが出入りしていたんです。僕も毎晩のように象ちゃんや加橋と一緒に出かけていました。1階と2階で食事ができて、地下がディスコティークになっていたんです。食事をすませてディスコに行くと、ピエールとかケンゾーといった連中が踊っているんですよ。店から20メートルほどでフール通りに出るのですが、学生が石畳を掘り起こして警官隊に投げた5月革命の最初の頃の激戦地なんです。ただでさえ刺激的なパリという街で、そんな刺激的な出来事が起きていたから、余計に面白いと感じたのでしょうね。

吉田:アルファにはノンポリ(ノンポリティカル、政治運動に無関心)のイメージがありましたが、1960年代に起きた世界的な社会変革の空気を大きく吸い込んでいたんですね。

村井:そうですね。赤軍派が出てきたり、1970年には三島由紀夫さんの割腹事件もあったりして、僕たちはイデオロギーこそ問題にしていなかったけれど、自由を求めていたんですよ。川添浩史さんたちの影響もあったかもしれませんね。フランスで若い時期を過ごした大人たちです。川添さんが亡くなった後、タンタン(川添夫人の梶子)から紹介してもらった古垣鐵郎さん(駐仏大使、NHK会長などを歴任)もそうです。もっと女性に社会的な立場を与えなければいけないとか、もっとリベラルな考え方をしなくては……というのは、川添さんや古垣さんから学んだことですね。

吉田:イデオロギーというよりは……。

村井:そう。人間というのは、もっと自由で、もっと解放されなければいけない……という考え方でしたね。

吉田:実際、村井さんはアルファの社内で積極的に女性を登用されたんですよね。

村井:そうですね。力のある人にはどんどんやってもらおうっていうのが基本的な考えでした。

吉田:アルファは音楽的にも、社風の面でも、自由、解放を目指していたのですね。「川添イズム」みたいなリベラルな精神がアルファに注入されていたということになりますか。

村井:そうですよ、おっしゃる通りです。それから川添さんは若者を大事にしたね。昔の大人はなかなか若者を相手にしてくれなかったんだよね。若い人たちは若い人たちだけで何かやっていて、大人は大人だけでやっているような状態でね。ところが川添さんは、若くても、物を知らなくても、大人と付き合って大人から吸収したいという意欲を持つ若い人をどんどん自分の懐に入れていったんですよ。

吉田:村井さんもその中にいたわけですね。

村井:そうです。僕はその恩恵を受けたと自覚しています。それでね、川添さんはキャンティをつくった理由として、こう言っているんです。「大人の心を持った子どもと、子どもの心を持った大人が一緒に遊べる場所をつくりたかった」

吉田:いい言葉ですね。今はそういう場所はなかなかありません。やはり若い人は若い人同士、大人は大人同士で終始してしまっている気がします。

村井:川添さんはフランスのリベラリズムみたいな考えを持っていたんだろうな。例えば、フランスに行くでしょ。リュックサックを背負ってヒッチハイクをしている若者を道端で見つけると、すぐに乗せてあげちゃうわけ(笑)。当時、ヒッチハイクを装った強盗みたいな事件もあったから、みんな「やめた方がいいよ」「危険な場合もあるんだから」って注意するんだけど、全く言うことを聞かないんです(笑)。若い人が困っているんだから、助けてあげなきゃ……っていうタイプの人でした。

吉田:なかなかできないことですよね。村井さんが山上さんとアルファミュージックを旗揚げしたときは「海外に音楽を発信する」「国際的なビジネスをやる」という目標を掲げていたのですよね。それもやはり川添さんの影響でしょうか?

村井:うん。まさに、それが川添さんのやってきたことですからね。川添の象ちゃんがフラメンコギターの名手になって帰国して、フラメンコ舞踊団を率いて全国公演をしたんですけど、その公演をオーガナイズしたのが川添さんで、僕はアルバイトみたいな立場でその手伝いをさせてもらった。以来、ずっと川添さんのそばにいたんですよ。その間、川添さんのかかわったプロジェクトで僕が観たのは、まず日生劇場で開かれた『ウエスト・サイド物語』の公演。あれはニューヨークのオリジナルを招聘したんです。それから僕は現場には行っていませんけど、文楽の海外公演をプロデュースしたり、ロックミュージカル『ヘアー』を手がけたり、大阪万博の富士グループ・パビリオンの総合プロデューサーを務めたり……。

吉田:川添さんの一連の国際的な仕事を間近で見てきたわけですね。

村井:まさにそうです。プロセスをずっと横で見てきた。それで自分も外国から何かを引っ張ってくるだけではなく、日本の文化を海外に持っていくような仕事がしたいと考えるようになっていったんですよ。

アルファミュージックの精神

吉田:例えば、アヅマカブキの日本舞踊や文楽のような伝統文化は様式が確立されたオリジナリティーのあるものだから、それが海外で受けるのは分かるのですが、欧米のポップスやロックなどの影響を受けた日本の新しいポピュラーミュージックを海外に発信して、どのくらい受け入れられるのか、1970年当時は未知数だったのではないでしょうか。村井さんはどう考えていたのですか?

村井:全部当たって砕けろ、ですからね。自分が手掛けるアーティスト、赤い鳥もユーミンもすべて海外に持っていって、向こうの出版社の人やレコード会社の人に聴かせたのですが、やっぱり言葉の壁っていうのは凄く厚くてね。特にアメリカのマーケットでは英語以外の歌はほとんど受け付けてくれないんだよねえ。みんな仲間だから、本当のことを言ってくれるんです。「クニ、一生懸命売ろうとしているのは分かるけど、どうしたって日本語では売れないよ。英語でなければ誰も聴いてくれない」ってね。1970年代ですからね。まあ、それできっとYMOみたいなインストゥルメンタルの方がチャンスはあると考えたんですね。

吉田:細野さんたちがYMOでテクノをやると言ったときは、村井さんは社長としてどう判断されたのですか。

村井:ともかくインストゥルメンタルは可能性があると思っていたから「うん、何でもいいよ」と。僕と細野で組んで、外国で売ってやろうっていう夢を2人で共有していましたからね。

吉田:細野さんの感性を信じて任せた部分が大きかったということですか。

村井:完全にお任せですね。

吉田:村井さんとしてはテクノが当たると思っていたわけでもないのですか。

村井:そういうものってね、これが当たるとか事前に分かるものではないんだなあ。ともかく持っていくわけですよ。もちろん、ある程度のレベルは超えていないとダメですよ。音楽的にしっかりできているとかね。そこをクリアしていたら、次はそれを人の前に持っていって、相手がどう感じるか。僕が持っていったのはA&Mレコード社内の編成会議みたいなところ。

吉田:アルファは1978年にアメリカのA&Mと提携して、社長の村井さんも月に1度はLAに飛んで会議に出ていたんですよね。

村井:そうそう、そうです。会議に持っていくと、そこで反応が出るんですよ、若い社員たちから。YMOの場合、最初に火がついたのはフロリダ州とか、うんとローカルな場所だった。そういう土地をこまめに回ってくれているプロモーションの担当者が一生懸命に頑張って、そこのラジオ局とディスコで火がついたりするわけですよ。だからモノを売るときは「これがいい」と信じたものをいろいろな人に見せていく。すると誰かが「これはいい」と言い出してくれて、ワーッと広がっていくんですよ。

吉田:アルファは売ろうと思って音楽を作っていたわけではないということですね。

村井:できあがってから、さあ、これをどうやって売ろうかって考えていました(笑)。

吉田:ははあ、そういう順番なんですね。

村井:ちょっと変わっているようだけど、今までの芸術作品、文学や映画や音楽にしても、そうやってできて、売れたものって結構多いんですよね。最初から売ろうと思って商業主義的に作った物ではなくても、本当に良いものだったら、いつか売れちゃったりしますからね。

吉田:確かにそうですね。

村井:子どものころ、英語の先生に教えられたんです。「前衛っていうのはどういう意味か」って。文学青年のアメリカ人で、一緒にヘミングウェイを読んだりしたんだけど。

吉田:ヘンリー・シャフスマさんですね。

村井:あー、よく覚えていらっしゃる。

吉田:教育テレビの英会話の先生もやっていた。

村井:そうですね。

吉田:もうそういう時期から村井さんの意識にあったんですね。前衛とは何かについて。

村井:ありました。つまり、初めから万人に受けるようなものは、実のところ誰のものでもない。1人でも2人でもいいから、その人の心の奥深くまで突き刺さるものこそが本物なんだということです。

吉田:最後に残るのは、最初は前衛に見えていたものだということですね。

村井:うん。僕はその前衛の原理を信じて音楽を作っています。

吉田:僕は『ALFA MUSIC LIVE』を見て思ったんですけど……。

村井:そうだ、吉田さんにも生で見てもらったんだよね。記事も書いてくれて。

吉田:そうでした。「音楽史に残るコンサートになった」と書いた記憶があります。村井さんはライブ全体の構成と総合演出を松任谷正隆さんに任せたのですよね。そこが村井さんらしいなと思いました。この分野なら、この人に任せよう……といった人選のセンスが抜群だな、と。実際、松任谷さんの演出は素晴らしかった。

村井:そうなっちゃうんですよね。連載中の小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』も吉田さんがいなきゃ書けないよ、これ(笑)。

吉田:いやいや(笑)。

村井:僕は構想を練ったりするのは得意ですけど、実際にそれを文章化して、隅々まで行き届いた形にするっていうのは経験がありませんからね。だから今回吉田さんと組んだように、自分とは違う才能を持った人との組み合わせで仕事をすることが昔から多いんですよ。山上路夫さんと組むとか、細野と組むとかね。

吉田:才能を組み合わせるというのは、誰にでもできることではなくて、やはりそれこそプロデューサーの才覚でしょうね。

村井:ありがとうございます。いろいろなことは理解できるんですけどね、分からないことはいつも人に尋ねちゃう。「これ、どうなんでしょう」って。だから、常に勉強しているみたいな感じ。

吉田:いろんな分野に、自分専用の専門家、知恵袋を持つということですね。それはとても効率がいいし、確実ですものね。検索して調べるよりスピードも速いし、自分の知識に合わせて解説してもらえるから、自分の血となり肉となる。

村井:全くそうですね。僕の親父はエンジニアだったんですよ。いわゆる専門家で、飛行機の設計なんかをやっていたんですけど、彼が僕に言うんです。「エンジニアは損だ」って。人に使われるだけで、あまり面白くないぞということですよ。「お前はなるべくゼネラリストになれ」と言っていました。いろいろな人と組んで仕事ができるように、深くなくてもいいから、いろいろなことを広く知って、専門家と組んで仕事をしたらいい……。そんな教育を僕にしたんです。

吉田:まさにお父さまがおっしゃった通りの人生を歩むことになったわけですね。

村井:たまたま向いていたんですよ。それに父は理数系だけど、僕は全くの文科系で、数学なんかは特に苦手でしたから、父の職業を継ごうと思っても無理だったわけです。

吉田:アルファミュージックは自前のスタジオをつくりましたよね。相当なお金がかかったと思いますが、国際的なビジネスをやるには国際レベルのスタジオが必要という発想だったのでしょうか。

村井:そう。それはやはり必要ですよね。技術の大切さについては、僕はよく理解していましたから。

吉田:今の効率重視の合理的な社会では、そんな贅沢なスタジオをつくるよりは……という発想になりがちですが、やはり村井さんは音楽家であって、芸術にとって最も肝心な部分でお金をケチってはいけないという信念で会社を経営していた証しだと思えます。

村井:そうですね。その通りです。

吉田:50周年という時代になっても、これだけの作品が世に残り、いまだに世界中で愛聴されているのは、そうしたアルファの精神のたまものでしょう。

村井:本当にその部分は一生懸命やりましたね。お金もかけたし、努力もした。つまり一生懸命やらなくては、いいものはできない。お金もかけないと、いいものはできないですよ。

吉田:お金も手間もかかるけど、いいものは50年たっても残るというわけですね。今は目先の小さな利益ばかり追って、なかなかそういう発想になりにくい世の中になっていますけどね。そういえば、さっき川添浩史さんの思い出で、若者を大事にしたとおっしゃっていましたよね。その話を聞いて『ALFA MUSIC LIVE』に大村憲司さんや林立夫さんの息子さんや小坂忠さんの娘さんがそれぞれお父さんと同じギタリスト、ドラマー、ボーカリストとして出演しているのを思い出しました。

村井:『ALFA MUSIC LIVE』には、僕らの世代がやってきたことを次の世代にバトンタッチする文化の継承という意味もありましたね。マンタがいて、彼を尊敬する武部聡志さんがいて、2人の弟子筋に当たる本間昭光さんがいてね。ジュニア世代だけでなく、服部克久さんや雪村いづみさん、ミッキー(カーチス)や加橋のようなベテランも出てくれたし。

吉田:このライブには出ていませんが、若者に人気のある星野源さんが細野さんをとても尊敬していて2人に交流があることは多くのファンが知っていますし、星野さんを通じて若者たちが細野さんの作品を聴くようになっているという現象もあるようです。そんな意味でも『ALFA MUSIC LIVE』の映像は若い人にこそ見てほしいですね。これを機に小坂忠さんや吉田美奈子さん、ブレッド&バターといった優れた人たちの再評価が進むといいなと思っています。

村井:全く同感ですね。あのライブがBlu-rayや高音質CDとして発表され、後世に残るのはとてもありがたいことですよ。吉田さん、今日はどうもありがとう。小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』も頑張って先へ進めましょう。

吉田:はい、こちらこそありがとうございました。いま書いている小説はいわば『ALFA MUSIC LIVE』の原点ですからね。頑張りましょう。

『モンパルナス1934~キャンティ前史~』

■商品概要
『ALFA MUSIC LIVE-ALFA 50th Anniversary Edition』
2021年3月4日(木)発売/¥13,000+税
Blu-ray Disc(2枚組)+Blu-spec CD2(2枚組)+ブックレット/三方背BOX
・監修:村井邦彦
・映像制作・発行:WOWOエンタテインメント株式会社
・CD制作・パッケージ販売元:ソニー・ミュージックダイレクト

<収録予定>
DISC-1 (Blu-ray Disc)
01.【プレゼンター:荒井由実】
02. 愛は突然に…/加橋かつみ
03. 花の世界/加橋かつみ
04.【プレゼンター:吉田美奈子】
05. 竹田の子守唄/紙ふうせん(赤い鳥)
06.【プレゼンター:ミッキー・カーチス】
07. 学生街の喫茶店/大野真澄(GARO)
08.【プレゼンター:服部克久】
09. 蘇州夜曲/雪村いづみ(演奏 ティン・パン・アレー)
10. 東京ブギウギ/雪村いづみ(演奏 ティン・パン・アレー)
11.【プレゼンター:野宮真貴】
12. ひこうき雲/荒井由実(演奏 ティン・パン・アレー)
13. 中央フリーウェイ/荒井由実(演奏 ティン・パン・アレー)
14. 【プレゼンター:細野晴臣】
15. ほうろう/小坂 忠(演奏 ティン・パン・アレー+高橋幸宏)
16. 機関車/小坂 忠(演奏 ティン・パン・アレー+高橋幸宏)
17. 【スピーチ:桑原茂一】
18.【プレゼンター:向谷実】
19. 朝は君に/吉田美奈子
20. 夢で逢えたら/吉田美奈子
21.【プレゼンター:紙ふうせん】
22. Mr.サマータイム/サーカス
23. アメリカン・フィーリング/サーカス
24.【プレゼンター:サーカス】
25. ピアニスト/山本達彦

DISC-2 (Blu-ray Disc)
01.【プレゼンター:坂本美雨】
02. あの頃のまま/ブレッド&バター
03. MONDAY MORNING/ブレッド&バター
04.【プレゼンター:ブレッド&バター】
05. La vie en rose/コシミハル
06.【プレゼンター:鮎川誠】
07. YOU MAY DREAM/シーナ&ロケッツ
08. LEMON TEA/シーナ&ロケッツ
09.【プレゼンター:高橋幸宏】
10. Hot Beach/日向大介 with encounter
11.【プレゼンター:荒井由実】
12. RYDEEN/YMO、村井邦彦
13. 翼をください/Asiah、大村真司、林一樹、村井邦彦、紙ふうせん、村上”ポンタ”秀一
14. 音楽を信じる/小坂忠、Asiah、大村真司、林一樹、村井邦彦、村上”ポンタ”秀一
15. 美しい星/村井邦彦

DISC-3 (Blu-spec CD2)
01. 愛は突然に… / 加橋かつみ
02. 花の世界 / 加橋かつみ
03. 竹田の子守唄 (シングル・バージョン) / 赤い鳥
04. 学生街の喫茶店 / ガロ
05. 蘇州夜曲 / 雪村いづみ 
06. 東京ブギウギ / 雪村いづみ
07. ひこうき雲 / 荒井由実
08. 中央フリーウェイ / 荒井由実
09. ほうろう / 小坂 忠
10. 機関車 / 小坂 忠
11. 朝は君に / 吉田美奈子
12. 夢で逢えたら/ 吉田美奈子

DISC-4 (Blu-spec CD2)
01. Mr.サマータイム / サーカス
02. アメリカン・フィーリング / サーカス
03. ピアニスト / 山本達彦
04. あの頃のまま / ブレッド&バター
05. MONDAY MORNING / ブレッド&バター
06. La vie en rose / コシミハル
07. YOU MAY DREAM / シーナ&ロケッツ
08. レモンティー / シーナ&ロケッツ
09. Hot Beach / INTERIOR
10. RYDEEN / YELLOW MAGIC ORCHESTRA
11. 翼をください (シングル・バージョン) / 赤い鳥
12.音楽を信じる We believe in music / 小坂 忠、Asiah
13. 美しい星 / 赤い鳥

■関連サイト
アルファミュージック ライブオフィシャルサイト
アルファミュージックオフィシャルサイト
オフィシャルInstagram(@alfamusic1969)

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