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山本益博の ずばり、この落語!

第一回「桂文楽」平成の落語家ライブ、昭和の落語家アーカイブ

毎月連載

第1回

 私の落語史を振り返ってみると、まずはじめに思い浮かぶのは、八代目桂文楽である。昭和の落語の黄金時代を支えた名人で、持ちネタは限られていたが、どの噺も磨きこまれて、『明烏(あけがらす)』『愛宕山(あたごやま)』『素人鰻(しろうとうなぎ)』『船徳(ふなとく)』『富久(とみきゅう)』などの十八番は、文楽が現役でいる間は、誰も高座にかけなかったほどである。

 初めて文楽の高座に接したのは、私が早稲田大学へ入学した昭和43年(1968年)3月14日、東京放送主催の「第五次落語研究会」の第1回公演だった。この時の出演者は、文楽のほかは三遊亭圓遊、柳家小さん、林家正蔵、三遊亭圓生で、トリは圓生が勤め、演目は『妾馬』だった。70歳を過ぎた文楽は高座へあがると「あいだィ挟まりまして、一席お笑いを申し上げます」と紋切り型の口上を早口で言ったのちすぐに『明烏』へ入っていった。

 私はこの『明烏』の高座にすっかり魅了され、文楽の虜になってしまった。そして、「桂文楽」を卒業論文のテーマにすることに決め、以後、大学の3年半の間、文楽を追いかけ続け、80回以上の高座に出会えた。だが、桂文楽最後の高座、昭和46年8月31日の第42回「落語研究会」の高座は、当日札幌にいて聴き損ねてしまった。

第一回落語研究会のパンフレット。ちなみに同会は2018年6月、600回を迎えている。

 文楽は『大仏餅』を口演、「神谷幸右衛門」の名前が出てこず、絶句してしまい、「大変申し訳ございません、名前を忘れてしまいました。もう一度勉強し直して参ります」と言って高座を降りてしまった。その後、再び高座に上がることなく、その年の12月12日、肝硬変で亡くなってしまった。

 翌年春、私は『桂文楽の世界』と題した卒論を書き、それがそのまま商業出版され、卒業後は落語評論家としてスタートすることとなった。

 それがきっかけとなり、CBSソニーから発売されたレコード「桂文楽全集」の監修を任された。遺された録音からベストの高座を選び出す作業は、文楽の芸の秘密を知る上で極めて貴重な経験だった。例えば、遺された『愛宕山』の5本のテープ、30分近い噺に関わらず、10秒の違いもない高座ばかりだった。即興のくすぐり(ギャグ)は一切なく、一言一句、噺の運びが決まっていた。正確無比の完璧主義者だったのである。

 国立劇場小劇場の「落語研究会」で、次の出番を待つ文楽の姿を後ろから盗み見ていたことがあった。いざ出番となって、自分の出囃子「野崎詣り」が聞こえてくると、右手に持った扇子を筆に見立てて、左手に持ったハンカチ(文楽は手拭いでなくハンカチだった)に、「人」の字を書いてはそれを飲み込む仕草を3回繰り返して、高座に出ていった。

 あの完璧主義者の名人にして、この縁起を担ぐ周到さ! 客をご機嫌にさせる文楽の芸の秘密を垣間見た気がしたものだった。

いまも大切に保存している、当時の落語研究会「ご常連席券」(年間パス)

豆知識 「出囃子」

(イラストレーション:高松啓二)

 一口に言えば、落語家のテーマソング。浄瑠璃、端唄、俗曲などから抜粋して、三味線、太鼓の下座が奏でる。文楽は「野崎」古今亭志ん生は「一挺入り」古今亭志ん朝は「老松」、春風亭小朝は「吉原騒ぎ」、立川談志は、若い頃、童謡「あの町この町」だった。当代の人気落語家春風亭昇太は「デビークロケット」三遊亭白鳥は「白鳥の湖」である。
 ちなみに「落語研究会」では、当初、明治以来の伝統に倣って、出囃子なしで落語家は高座に上がっていた。

プロフィール

山本益博(やまもと・ますひろ)

1948年、東京都生まれ。落語評論家、料理評論家。早稲田大学第ニ文学部卒業。卒論『桂文楽の世界』がそのまま出版され、評論家としての仕事がスタート。近著に『立川談志を聴け』(小学館刊)、『東京とんかつ会議』(ぴあ刊)など。

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