Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

ホアキン・フェニックスの瞳に取り憑かれた映画作家たち “銀幕の道化師”に成り得るまで

リアルサウンド

20/7/20(月) 12:00

 白い塀に顔の下半分を遮られた一人の男の姿が映る。ヘルメットを被った頭部は隠され、観客の目線は否応なくその瞳に吸い寄せられることとなる。これはポール・トーマス・アンダーソンによる『ザ・マスター』(2012年)で、初めてホアキン・フェニックスがスクリーンにその姿を現すショットのことだが、おそらく画面がそう仕向けようとするまでもなく、なによりもまず観客はその瞳に惹きつけられてしまうだろう。同じくアンダーソンによる『インヒアレント・ヴァイス』(2014年)のラストショットにおいては、日の光が車中にいるホアキンの瞳を舐め回すように照射される。この光はまるで有機体のような動きを見せ、ホアキンの瞳もまた獲物を物色するかのようにその光をにらみつければ、生き物と生き物がじっとりと絡み合っているのかと幻視してしまう。異なる手つきによって、ホアキンの瞳をスクリーンに映し出そうとするアンダーソンもまた、その瞳に取り憑かれた多くの映画作家のうちの一人と言えよう。

【動画】「ジョーカー」放送記念大特集ラインナップ映像

 あるいは、イエス・キリストを演じた『マグダラのマリア』(2018年)では、瞳孔の開いたホアキンの瞳がクロースアップで象徴的に映し出される。まさにそれこそが特殊な力の源泉とでも言わんばかりに、緑がかった色彩の美しさは際立ち、ルーニー・マーラと肩を並べるホアキンが身にまとう神秘的なオーラは、この映画で頂点に達している。これまで映画に映し出されてきたホアキンの瞳は、そのなかにもう一つの“顔貌”を抱え込んでいるかのようであり、それが彼の演技を間違いなく重層的にしている。

 そんな瞳の吸引力にいざなわれてか、ホアキンはきわめて泣く演技が多い。孤独な元軍人を演じた『ビューティフル・デイ』(2017年)では、ホアキンが一粒の涙を流した直後に銃で自らの頭を撃ち抜く衝撃の描写が続く。『裏切り者』(2000年)では、ホアキンの横顔を照らす暖色の光が消失し、顔の陰影のコントラストが強まった矢先に涙が流れ、照明の変化に合わせて涙の輝きの色も芸術品のように揺らめく。『リターン・トゥ・パラダイス』(1998年)では、ホアキンはマレーシアで麻薬に手を出した3人の若者のうち、現地で逮捕され絞首刑に科せられるルイスを演じている。弱々しくうずくまるルイスの背中のみを捉えたショットが劇中に何度か差し込まれるが、この背中を覚えている者であれば、『ジョーカー』(2019年)の、骨が皮膚を突き破ってしまいそうなホアキンの背中に経年を感じ取ることだろう。牢獄で死の淵にいるルイスは、顔は青白く、身体はやつれきっている。たゆむことなく祈りを捧げるルイスの生気を失った瞳から出る涙は、悲痛の表情のなかに溶けきり、もはや涙として視認することさえ難しい。あるいは、ケイシー・アフレックと組んで製作したモキュメンタリー『容疑者、ホアキン・フェニックス』(2010年)では、「自分で自分の人生を台無しにした」と何も知らなければ虚構なのか現実なのかわからないペテンにかけた泣きの芝居を見せてもいる。このように挙げてみただけでも、ホアキンの泣く演技はバリエーションに富み、彼は涙の成分を絶妙に配合しながら自在に操ってしまう。

 しかし、ホアキンの魅力は演技だけに留まらない。彼はただそこに立っているだけで、奇怪さを滲ませ、不穏さを漂わせ、異様さを滾らせる、稀有な存在感を放つ役者でもある。そのためか、一見してラブロマンスのように見える作品であっても、一筋縄ではいかない作品も多い。『トゥー・ラバーズ』(2008年)では、その映画タイトル通り、2人の女の間を揺れ動く双極性障害の男を演じている。2人の女はそのまま男にとっての「現実」と「夢」を体現し、愛の二面性が主題とされる。隔たった建物の窓越しに恋する者同士が言葉を交わす映画的なロマンティックさとは裏腹に、終始不穏な空気を漂わせているのはまさにホアキンその人であり、病んだ結末に両義性を含ませている。

 マリオン・コティヤールと共演した『エヴァの告白』(2013年)では、心奪われた女を娼婦として働かせる屈折した男を演じている。このときホアキンは、黒いスーツとコートに身を包んだいかにも紳士風情で、内に秘めた卑屈さや薄気味悪さをその身なりで覆い隠しているように見える。ただの善良な人間には決してならず、隠れた曲者の匂いを漂わせるのは、独特な存在感を持つホアキンならではであろう。『トゥー・ラバーズ』と同様、二面性を携える人物を演じるホアキンは、遺憾なく自身の毒性と薬性を発揮し、映画に化学反応を起こす。

 スペクタクル史劇『グラディエーター』(2000年)で堅実な演技力を確固たるものとし、実在の歌手ジョニー・キャッシュを演じた伝記映画『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』(2005年)では劇中で実際に歌唱に挑み、ホアキンはその多才さを世に知らしめていく。そうして着実に役者として積み上げてきたキャリアにおいて、ターニングポイントとして位置づけられるのは、おそらく『容疑者、ホアキン・フェニックス』だろう。同作ではその後すべてがフェイクであることが明らかにされたが、役者から歌手への転向を取り沙汰された2年間をあたかも事実であるかのように追う。たとえすべてがフェイクであったとしても、彼は構築された自身のペルソナを剥ぎ取り唾棄したのだ。子役から活躍していたものの、一時的に休業し、『誘う女』(1995年)で復帰したホアキンは、思えば途切れない直線的な役者人生を歩んできたわけではなかった。

 『容疑者、ホアキン・フェニックス』の終盤、作り込まれた『ビューティフル・ディ』でのふくよかな身体や、『ジョーカー』での侘しい身体とはまた異なる、役の狭間に生きる生々しい身体を曝け出しながら、ホアキンは緑が生い茂る自然の水のなかをゆっくりと歩いていく。このあまりに弛緩した時間は、それまでの何かを洗い流す自浄作用を彼にもたらしている。そして、ホアキンの身体すべてが水のなかへ飲み込まれたとき、ようやく映画は幕を閉じる。こう言ってよければ、まさにその瞬間ホアキンの新たな役者人生の幕が開けたのだろう。その後の出演作はより一層多彩になり、個性派の異名がより強固に刻まれていく。ホアキンはAIと恋愛する男にも、鬱の哲学者にも、神にも、そして四肢麻痺の風刺漫画家にも、驚異の演技力によって完全に化けていく。そして2019年、銀幕の道化師と呼ぶべきこの役者は、ついに『ジョーカー』という名の大舞台へと至ったのだ。

(児玉美月)

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む