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『アド・アストラ』は“文系SF”と呼べる作品に 破滅的ヴィジョンと一筋の救いを同時に描く

リアルサウンド

19/10/2(水) 12:00

 「星へ」の意味を持つラテン語をタイトルに、ブラッド・ピットが製作と主演を務めた『アド・アストラ』は、地球より太陽系の端まで直線的に航行していく、一見すると意外なほどにシンプルな宇宙探索アドベンチャーだ。

参考:『アド・アストラ』初登場3位 国内映画興行におけるSF映画の可能性と限界

 SF作品といいながら、『地獄の黙示録』(1979年)の原案となったジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』や、古代ギリシアの叙事詩『オデュッセイア』の設定を参考にしていると監督が述べているように、本作は『インターステラー』(2014年)のような最新の科学理論を作品に組み込んだものというよりは、古典的な文学作品に近い魅力を持った、いわば“文系SF”と呼べるようなものになっている。

 ここでは、そんな文系SFたる本作『アド・アストラ』の内容を振り返りながら、その裏に隠されている問題を考察していきたい。

 まず面白いと感じるのは、ブラッド・ピットが演じる宇宙飛行士ロイのキャラクターだ。何があっても安定した心拍数を維持できるという、驚異的に冷静な人物。危険の多いミッションのなかで突発的な事故に遭い、死が身近に迫っている状態でも、彼は落ち着き払って助かる方策を一つずつ試し、何度も危機を乗り越えていく。その性質は、たしかに宇宙飛行士に向いているといえるのだが、一方で危うさを感じるところもある。作中で「人間関係は演技」だと述懐しているように、彼は感情が極端に表に出ないという悩みを抱えているからこそ、命の危険に際して、頭だけを使う冷徹な態度でいられるのだ。

 ロイには10代の頃、宇宙の彼方に旅立って戻ってこなかった宇宙飛行士の父親がいた。ロイの背景が分かってくるにつれ、彼が感情を出せなくなった理由の一つに、多感な時期に“父親に置いていかれた”という喪失感があったことが暗示されていく。

 そんなロイに、軍上層部から「君の父親はおそらく生きている」という報せを受ける。地球から43億キロ離れた宇宙空間にいるという父親クリフォードが乗った宇宙船から、信号が届いたというのだ。しかもクリフォードが従事していたという計画は、太陽系を滅ぼしかねない危険性を持っているらしい。ロイは遠く離れた父親に会うというミッションを与えられ、彼方へと旅立つことになる。

 この設定は、やはり前述した文学作品を組み合わせたものとなっている。故郷へ長年の間帰ることのできない英雄の叙事詩『オデュッセイア』、組織から逸脱した人物を組織に属する人物が追跡し、同じ道程をたどることで精神の旅をする『闇の奥』を下敷きに、ロイの内面や、ロイにとっての父親との関係を、この長い航行へと投影していく。

 興味深いのは、ロイが父親に近づけば近づくほど、精神が不安定になっていくところである。数々の試練や苦難に対して、悩み自問自答する日々が続き、軍の用意した精神鑑定システムにおいても、異常を感知するようになってくる。しかし、この不安定さというのは、ロイにとっては別の意味を持つのではないだろうか。

 ロイはこれまで自分の内面が、態度や行動などのかたちで、外に表出することができなかった人物である。劇中で死の危機に対して、こわばって動けなくなってしまう他の宇宙飛行士が登場したが、極端な状況においては、それがむしろ正常な反応なのではないのか。現実の世界でも、例えば戦場において、任務とはいえ人を大量に殺戮する行為を的確にこなし、何の影響もなく日常生活に戻れるとしたら、それは“正常”といえるのだろうかという疑問がある。だから、ロイがこのような状況で精神を病んでいくというのは、ある意味でロイの精神状態は良い方向に変化しているということもいえるはずなのだ。つまり、“正常に病んでいってる”のである。

 回復していく精神状態と、病んでいく精神状態。このふたつを切り分けて考えたい。前者は、自分の精神の発達を阻んだ原因である父親の存在を身近に感じ始めることで、自分の内面の問題を意識し、かえって積年の重圧を取り去ることができたと解釈することができる。そして後者は、父親が「地球の倫理から解放された」と記録映像の中で話すように、文明から離れた極限状態に身をさらすことで、人間性を喪失していくという、父親の精神の過程を追体験することで生まれている。

 ついに地球より43億キロも離れた海王星の近くで再会した父親に、「研究に夢中で妻や息子のことなど思い出しもしなかった」と、衝撃的な言葉を浴びせられるロイ。彼はすぐに「知ってたよ」と切り返すが、おそらくそれは、彼の防衛本能が言わせた咄嗟の言葉である。本音では彼は、「お前のことをずっと想っていた」と言ってくれることを期待していたはずなのだ。

 その根拠は、監督のジェームズ・グレイが明かした、本作の冒頭の演出にある。そこでは、父親役のトミー・リー・ジョーンズが発する「息子よ、お前を愛している」という音声が加工されて流されているというのである。これがロイの“隠された願望”であり、彼を支配していた心の重圧だったのだろう。

 その言葉を直接本人の口から聞くことができれば、ロイは救われたはずだ。しかし、それを得ることがかなわなかったことで、ロイは絶望にとらわれるのかと思えば、実際にはそのような展開にはならず、むしろロイは生きる力を与えられることになる。つまり最終的に救われるのである。これはどういうことなのだろうか。

 精神治療の分野では、精神上の問題の原因を突き止め、患者自身がそのことを認識すれば、そこで治療の大部分は終わっているということが、よくいわれる。つまり何を言われようと、父親と再会し、心の傷の原因になったものに対峙することこそが、彼にとって重要だったのである。

 家族を捨て、乗組員を殺害してまで「永遠に研究を続けたい」と語るクリフォードは、たしかに精神に異常をきたしている。「男の子はいつまでも男の子」などという言葉があるように、冒険家として、あるいは研究家として、“家族を顧みず仕事に没頭する”という、ステレオタイプな男性像が極度に先鋭化した存在がクリフォードなのだ。

 ここでは、クリフォードに象徴される人類の“進歩への意志”というものが、一種の狂気として表現されている。たしかに、新天地の開拓や科学の発展は、人類に様々な恩恵を与えてきた。しかし一方で、劇中で舞台のひとつとなる、観光地であり紛争地になってしまった哀れな月が象徴しているように、その結果として人類が際限なく資源を簒奪し互いに殺し合い、環境を大規模的に破壊し尽くす獣のような存在になっていったというのもたしかなことだろう。

 ロイは、そんなクリフォードの姿を目の当たりにし、最後まで理解することができない。際限なく永遠に前進し続けようとする父親と同じような体験をしても、倫理観を捨てずに後退することを選ぶのである。この決別が示すのは、前進し続けることを賞賛し、評価してきたこれまでの社会に対する、もう一つの理性的な判断である。“進歩する進歩”に対する、“後退する進歩”。このような思想が語られるというのは、言うまでもなく近年深刻化する地球環境の問題も大きいはずだ。

 本作が描いているのは、クリフォードとロイの関係に託した、これまでの男性的なマッチョ志向や、土地や資源を奪っていく力に対抗する、優しさや理性という視点である。それがなければ、成長に狂奔する人類は将来的に滅びることになるかもしれない。そんな遠くない未来の破滅的ヴィジョンと、一筋の救いを、本作は同時に示しているのである。(小野寺系)

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