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“青春×音楽”映画の傑作! 『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』が描くコミュニケーションの拡張

リアルサウンド

18/7/24(火) 10:00

 うつむきがちな高校1年生の少女・大島志乃(南沙良)は、ほっそりとした身体をめいっぱいに震わせて、目にいっぱいの涙をためている。入学式の日、教室での自己紹介の場でのことである。彼女は言葉を話そうとすると、どうにもつっかえてしまい、満足な会話はおろか自分の名前さえ上手く言えないのだ。

 『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』は、長編商業映画デビューとなる湯浅弘章監督と脚本家の足立紳がタッグを組み、原作である押見修造の同名コミックに忠実に、あまりに眩しい“青春×音楽”映画の新たな傑作を作り上げた。

【インタビュー】南沙良×蒔田彩珠『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』対談 「2人なら大丈夫だと思っていた」

 自己紹介や、何か意見を求められる場で、自分の順番が回ってくるのにビクビクした経験は少なからず誰にでもあるだろう。新しい環境、新しい友との出会い、そして新しい自分との出会いに胸の高鳴りをほのかに感じながらも、それ以上にやはり、「新しい」とは時に恐怖でもある。それも志乃は、自分の名前さえ上手く言えないのだから。

 志乃が悩んでいるのは、いわゆる「吃音」であるが、これはあくまで象徴に過ぎず、思春期特有の悩みはいろいろとある。スクリーンに映し出されるのは、ほんの若い15、16歳の少年少女たちだ。大人になれば、いつか今の自分から変わることができるのだと夢想することがあった。しかしそれがなかなか難しいのだという確信は、少年少女期をとうに通り過ぎた者の特権だろうか。いや、15歳でも、25歳でも、たとえ35歳であっても、そうは変わらないのではないか。

 志乃は「なんで私だけ」と口にするが、おそらくこの教室にいる誰もが、そしておそらく今あなたの隣にいる誰かも、五十歩百歩の似通った不安を抱えているはずである。という希望的観測が、筆者の場合の日常との折り合いの付け方である。だが、実際そうなのであろうことは、音楽が好きでたまらないのに音痴な岡崎加代(蒔田彩珠)や、自分の居場所を常に見出せないでいる菊地強(萩原利久)たちとの触れ合いの中で、のちのち分かっていく。

 しかし繰り返すように彼女らはまだ15歳なのである。自分の悩みにばかり敏感で、他人の悩みには鈍感だ。志乃の場合は、そんな悪意のない好奇の目と、若さを持て余した熱狂の中にさらされているのである。

 「喋れないなら書けばいい」と口にし、加代は志乃に紙とペンを渡す。それはこの2人の間だけに成立するコミュニケーションだ。これがやがて、歌であればつっかえないことから志乃が歌い、加代がギターを弾くというデュオ・“しのかよ”結成へと発展していく。これもまた、2人の間だけに成立するコミュニケーションだ。そして彼女たちは、秋の文化祭のステージに立つことを目標に、部屋、カラオケ、人気の少ない橋の上、やがて人通りの多い広場へと、次第に外へと外へ向かっていく。2人だけで完結していたコミュニケーションは、小さく狭いところから、大きく開けた世界へと向かっていくのだ。コミュニケーション(=世界)の拡張を試みているのである。

 「翼をください」「あの素晴らしい愛をもう一度」「青空」「世界の終わり」ーー志乃が口ずさみ、加代が鳴らすギターとともに、2人の距離はぐっと縮まり、音楽を介したコミュニケーションはより強いものとなっていく。開巻すぐから印象的であった陽光の美しさはここで極致に達し、海辺の町で育まれる少女ふたりの友情を祝福するかのようである。すべての「新しい」を前に、だいだい色の西陽をたっぷりと浴びて、潮風に身体を揺らしながら笑顔を交わす2人の姿は眩しく、いつまでも見ていたいと思える。だが、長くは続かない。

 ここでお調子者の菊地が、彼女たちふたりの音楽する姿に共鳴するのは、2人っきりのコミュニケーションが外の世界に開かれている証だとも見てとれるだろう。しかし、彼の介入によって志乃は“しのかよ”をやめたいと言い出す。それは、志乃と加代の2人の間を菊地が邪魔しかねない存在だからか、いつか彼が志乃の「吃音」を笑ったからなのか。いずれにせよ、思春期の心情は繊細で複雑だ。そもそも、志乃は変わったわけではない。加代と出会い、加代との間にだけ、固有のコミュニケーション方を見出しただけである。つまり問題は、志乃自身がクライマックスで口にするように、「自分の中」にあるのだ。

 終始うつむきがちな志乃だが、そんな彼女が自身の想いを述べる場面が2度あることに注目したい。1度目は、加代の音痴を笑ったことを謝罪する場面である。志乃が涙で顔をぐしゃぐしゃにする姿は、誰かに想いを伝えることの困難と、「伝えようとする」ことはそれほどまでに“命がけ”の行為なのだと教えてくれる。と同時に、彼女の鼻先から伸びた鼻水は、例の西陽と潮風にさらされてキラキラひかり、「伝えようとする」ことの尊さを示すようでもある。自然とカメラはうつむく志乃の足元に入り込み、絞り出すように言葉を紡いでいく彼女の顔を見上げる姿勢で捉える。その角度では、彼女の表情を見ることができるのは映画の観客だけだ。しかし、人前で歌うことを避けていた加代が意を決し、たった1人で文化祭のステージでオリジナル曲「魔法」を歌い上げたときは違う。最初こそうつむきがちであるが、同じように涙で顔をくずしながらも、志乃は顔を上げる。映画の観客だけでなく、加代や菊地、他の生徒たちが、志乃の“命がけ”の姿を目撃することとなる。彼女の叫びは、この自分を受け入れたことの証であり、新しいコミュニケーション法を獲得した証であるだろう。

 そう簡単に人は変われるものではない。しかし志乃はもううつむきはしない。「ありがとう」のひと言をいうのにも相変わらずつっかかる彼女だが、そこにはあの憂鬱さはなく、ただ清々しいまっすぐな笑顔だけが眩しく輝き、似た者同士である私たちの背を押してくれる。

(折田侑駿)

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