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宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験

リアルサウンド

18/9/20(木) 12:00

【自然界の「駆り立て」の連鎖】

 『愛しのアイリーン』を見て、僕は、幼少時に見たドキュメンタリー番組の衝撃を思い出しました。番組は食物連鎖を描いたものでした。ガゼルの母親が我が子を愛おしむ様子が描かれますが、直後にガゼルの子がライオンに食べられてしまいます。何と可愛相なのだろうと僕は思いました。

参考:宮台真司の『万引き家族』評:「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り

 でも、そう思った矢先に、ライオンがお腹を空かせた子ライオンの母親だったことが描かれるのです。まさにそれが食物連鎖というものだ、という話なのですが、子供心にはこれは衝撃でした。ガゼルの子が哀れだというのは一つの視座ですが、別の視座に立てばライオンの子こそ哀れなのです。

 自然全体すなわち存在界全体の摂理を見よ、と番組は教えていたわけです。全体から見れば、何かを可愛相だと思うのは「人間的な」つまり身勝手な感傷に過ぎません。ガゼルはライオンに駆り立てられますが、ライオンもお腹を空かせた子ライオンに駆り立てられます。そこには「駆り立て連鎖」があるだけなのです。

 大学に入った僕は、こうした認識が後期ハイデガーの真髄だと知りました。思想や哲学の界隈で1990年代に起こった「存在論的転回」や、それ以降の「多自然主義」や「多視座主義」も、敢えて用語説明をしなくてもお判りのように、後期ハイデガーが注目する「駆り立て連鎖」の延長上にあるものです。

 駆り立て(Gestell)は連鎖します。その外に出る自由(選択の余地)はガゼルにもライオンにもありません。人間にもありません。ことは食物連鎖に限られません。大衆は新聞や雑誌やウェブを読むよう駆り立てられますが、それらを供給する記者や編集者も記事を配信するよう駆り立てられます。存在界の摂理。「<世界>はそもそもそうなっている」。

【結婚のために愛を探す滑稽】

 『愛しのアイリーン』を見た皆さんは、結婚を選択(自由の行使)だと信じているかもしれない。それは最近の錯覚です。元々の結婚は選択ではありません。1万年前からの定住化に伴い、収穫物のストックの保存・配分・継承のために所有概念ができ、所有を保護するために法ができました。法人類学が教える「常識」です。

 所有とは「使っていなくても自分のもの」という観念です。この概念が、物だけでなく人にも適用されたものが「結婚」です。でも、こうした所有概念を受け容れなかったのが非定住民。だから彼らは、セックスレスの意味を理解できず、「セックスレスで家庭内別居状態なのに他人様の不倫で炎上する」定住社会のクズを軽蔑します。

 高名な人類学者である奥野克巳の研究によれば、ボルネオ先住民プナン族は、非定住民では珍しく排他的な一夫一妻ですが、2年余りで相手を変えるので、生涯4~5回、多い人は10回相手を変えます。相手を変えるたびに子が生まれますが、適当に配分するので、家族の中には親が違う子供たちが普通に含まれるのです。

 確認すると、元々はどの社会でも結婚は権利配分を決める制度で、愛は無関係でした。血縁集団が複数集まって定住集団を形成しましたが、A集団の男がB集団の女と結婚し、B集団の男がA集団の女と結婚する「半族婚」や、男が母方イトコと結婚する「交叉イトコ婚」など、血縁的な続柄で相手が指定されたのです。

 血縁的な続柄で結婚相手を指定する「親族ルール婚」は、やがて社会が階層化して「家柄婚」にシフトしましたが、やはり愛は無関係でした。いつの時代にも、結婚は、社会全体を保つのに必要な部分的結束のためになされる「権利配分」でした。実際に日本でも、僕の両親が結婚した半世紀前まで、7割が見合い婚だったのです。

 諸外国との経済的な非対称性(による駆り立て連鎖)を今は横に置きますと、愛と無関係な、財産と地位獲得のための結婚は、日本でも最近まで珍しくありませんでした。身長・学歴・収入で相手を“選ぶ”いまどきの「三高」婚でも、愛の優先順位は低いはず。ならば、あぶれる心配も期待過剰による失望も回避できる「見合い婚」は、とても合理的です。

 そう。昔はどんな定住社会でも、愛ではないものに「駆り立てられて」結婚しました。愛は「結婚以降に」始まりました。その愛ですら、皆さんが考える愛は歴史的な“作品”です。相手を崇高化し、永遠を誓うような愛は、12世紀南欧に始まりました。吟遊詩人が領主の奥方を神に擬えた「既婚者の愛」が出発点でした。

 この成就を期待しない“戯れ”が15世紀に宮廷に持ち込まれ、既婚者同士の“真面目な”宮廷愛が始まりました。「あなたが世界の全て」という物言いが、婚姻の法(しきたり)を踏み越える制御不能な情熱を象徴しました。でも言葉では何とでも言える。ただの人が世界の全てなんてあり得るのか。だから、恋ゆえの病と死が「真の心」の証とされました。

 成就を目指したとはいえ、暇な貴族の営みに過ぎなかった恋愛は、19世紀に印刷術の普及を背景に恋愛小説が流行ったことで、一挙に庶民化します。ただ、「真の心」の証が病と死では、庶民にとってハードルが高すぎるので、結婚が持ち出されました。「真の心」の証明としての結婚、という新解釈が与えられたわけです。

 20世紀に入ると、「愛の証明」として“結婚を探す”のが逆転して、「結婚の手段」として“愛を探す”ようになり、それが世界に拡がりました。つまり「恋愛結婚」です。映画の主人公岩男も、「結婚の手段」として“愛を探す”のですが、42歳過ぎても見つかりません。彼の「見果てぬ夢」と、母親の「家柄婚」願望との衝突が、映画の重要なモチーフを与えています。

【愛を超える愛のようなもの】

 さて、この映画に描かれるのは一つの「逆転」です。「愛」なき結婚に起因する怒濤のトラブルが、「愛のようなもの」を生み出す事態を描きます。奇妙なことに、「愛」よりも「愛のようなもの」の方が遙かに濃密で、登場人物たちに命を賭けさせるのです。なぜなのか。それを考えることで、観客は重い何かを持ち帰れることになります。

 竿師を導きの糸にします。竿師は単に竿(チンポ)で女をコントロールするだけに見えます。でも女の視座からも見なければなりません。女にとっては単に竿が気持ちいいからではありません。夢を見ることができるからです。そう。瞬間恋愛です。竿師とは、“チンポに加えて夢を咥えさせる”存在なのです。

 僕は1990年代前半に、“伝説のナンパカメラマン”や“テレクラナンパ師”を多数取材しました。結果は関西テレビ系のドキュメンタリーになってもいますが、長年不思議だった竿師の竿師たる所以が分かったように思いました。圧倒的な言葉の贈与や性交の贈与による「変性意識状態」の惹起と、彼ら自身の「超越系の佇まい」が、ヒントです。

 「超越系」を説明します。毎日が平穏で幸せであることで幸せになれるのが「内在系」です。他方、毎日が平穏で幸せであるだけでは幸せになれないのが「超越系」です。超越系は、不幸な「ここ」は無論、どんなに幸せな「ここ」にも、「ここではないどこか」を対置してそれを希求します。“優秀な”竿師は、日常をうまく生きられない「超越系」です。

 続いて「変性意識状態」を説明します。正確には「前催眠状態」ですが、軽いトランス状態だと考えればよいでしょう。言葉の怒濤やセックスの怒濤が与える非日常の感覚が、女を「ここではないどこか」に──より具体的には「あり得たかも知れない究極の愛」の夢想に──導くのです。僕が幾つかの著作で「瞬間恋愛」と呼んできたものです。

 瞬間恋愛は「愛のようなもの」に過ぎません。それなのに、女は竿師に縋り付き、全財産を注いだりします。そこにあるのは、「欠落」に起因する「見立て」や「重ね焼き」です。だから、女にとって、恋人や夫への「愛」より、竿師に対する「愛のようなもの」の方が勝つのです。これは数多の取材と自分の体験から得た確信でもあります。

 欠落に起因する見立てや重ね焼きは、フロイト的に言えば神経症の徴候です。翻ってみれば、岩男もアイリーンも、愛子(後述)も塩崎(後述)も、岩男の母ミツも、皆が神経症だと言えます。誰もが、「ここ」に「ここではないどこか」を重ねます。だからこそ、合理では一見説明できない振る舞いを連発するのです。でもそこには隠れた合理性があります。

 例えば、岩男と怒濤の性交をするに至る人妻・愛子。彼女の視座から見ると、「ここ」(法内)的には申し分ない夫であれ、「ここではないどこか」(法外)でシンクロしたい自らにとって、何ら抑止力にはなりません。というか、法を破る享楽を理解できない夫だからこそ、妻を「法外の享楽」へと押し出すのです。

 愛子にとっては所詮は火遊びに過ぎないとの反論があり得ます。確かにテレクラ取材で出会った人妻の多くは、良き妻や良き母であるためにこそ時々知らない人に抱かれる必要があるのだと語っています。でも、これを遊びとして矮小化するのは男の視座です。女の視座には、実は祝祭の暗喩があります。実際「祭り」という言葉を使う女もいます。

 連載も語ってきたように、“定住による集団規模の拡大ゆえに「法内」を生きることで所有を守る”というのは、かつてない「異常な作法」です。法内を生きる営みはたかだか1万年前からの、人類史的には特殊な作法です。この「異常さ」に耐えるには、仕掛けが必要です。その仕掛けが定期的な祝祭でした。正確には、祝祭への待望が日常を耐えさせるのです。

 祝祭は、社会システム(定住社会)から見れば単なる「ガス抜き装置」ですが、パーソンシステム(実存)から見れば「本来性への帰還」です。むろん「本当の自分」への帰還ではない。むしろ「本来の自分」を要求される定住社会の軛[くびき]からの解放です。「法」から「法外」へ。「輪郭のあるもの」から「輪郭のないもの」へ。つまり「エク・スタシス=外に立つこと」。

 祝祭時には、平時には差別される非定住民が「芸能の民」として奉納芝居や門付芝居などの「聖なる芝居」を、夜は娼婦などとして「聖なる性愛」を提供しました。鴻上尚史の芝居『ものがたり降る夜』(1999年)が描いた世界です。神々や高貴な人々を喜ばせる眩暈の営みを担うのです。一口で言えば、タブーとノンタブーの逆転劇の眩暈です。

 この逆転劇は情報非対称性の逆転として現れます。夫は妻について間男の存在を含めて僅かしか知りませんが、間男である竿師は彼女から夫について日常の癖から寝床での性癖を含めて全てを聞き出す。それを推し量るから浮気を知った夫が嫉妬で激昂する──。「日常愛が主で、非日常愛が従」とする通念は、問題の有害さを中和する認知的整合化です。

【厳密な対位法が与えるもの】

 映画には厳密な対位法があります。アイリーンには貧困を端緒とした「駆り立て」連鎖があります。彼女を直接「駆り立て」るのは母親です。同じく、岩男には世間体を端緒とした「駆り立て」連鎖があります。彼を直接「駆り立て」るのも母親です。だから映画が描き出すように、二人にとって共通に、「駆り立て」て来る自らの母親がウザイのです。

 そしてやがて、岩男はアイリーンを、アイリーンは岩男を、自分と同じ“「駆り立て」連鎖のコマ”に過ぎないのだ、と悟るのです。岩男は、アイリーンの母親が貧困に「駆り立て」られている事実を知り、情けをかけます。アイリーンは、岩男の母親が相次ぐ流産など数多の不幸に「駆り立て」られているのを知り、最後は寛容になります。

 もう一つの対位法は、アイリーンに惚れる怪しいチンピラ・塩崎と、岩男を誘うパチンコ店員・愛子との、間にも見られます。アイリーンは、やがて塩崎を感染させます。同じく、岩男も、やがて愛子を感染させます。感染を導くのは、アイリーンと岩男の双方に見られる、多くは無知に由来するだろう過剰さです。

 岩男は、童貞段階では、愛子の誘いが遊びか本気か区別がつかないで猪突猛進しますが、童貞を卒業するや所構わず発情してセックスしまくり、愛子に「あなたが初めからそうだったら…」と言わせます。アイリーンは、お前の結婚は売春と同じだと恫喝する塩崎に当初は動転しますが、けなげにそれを否定することで、塩崎の構えを変えさせます。

 愛子や塩崎が、単なるやりまくりの尻軽女や、女衒の人買いとしては、登場してはいないことがポイントです。愛子は、子育ての疲れや甲斐性無しの亭主に、「駆り立て」られて“逃避”しようとしています。塩崎は、父に捨てられたフィリピーナである母の悲しみに「駆り立て」られて、“復讐”しようとしています。

 愛子も塩崎も、岩男の母やアイリーンの母と同じく、「欠落」によって神経症的に「駆り立て」られています。そうやって「駆り立て」られている愛子と塩崎が、それぞれ岩男をセックスマシーンへと「駆り立て」、アイリーンを売春婦に「駆り立て」るのです(ただし未遂)。脇役に過ぎない存在に見えて、「駆り立て連鎖」のモチーフを奏でる重要な役割を演じます。

 愛子がパチ屋には場違いの「掃き溜めに鶴」で、塩崎が村には場違いの「女衒風情」なのも共通します。愛子が岩男を、塩崎がアイリーンを、法外へと駆り立てる=誘惑する存在だからです。この図式は「祝祭時に定住社会を訪れる非定住民」と同型です。非定住民は、定住以前の遊動民と違って定住民に依存しますが、愛子も塩崎も村の人々に寄生しています。

【愛のようなものの絶対勝利】

 「駆り立て連鎖」は、食物連鎖を考えれば思い半ばに過ぎるように、大概は一方向的です。それは一方的な「贈与」や「剥奪」として現象するだけで、双方向的な「交換」はむしろ例外的です。だからこそ、映画のどこかで「贈与」や「剥奪」ならぬ「交換」が描かれれば、観客の身勝手な視座=人間的視座にとっては、大きな救いになるでしょう。

 この映画が原作と大きく異なるのはラストシーンです。有名な原作なので御存知でしょうが、原作では、アイリーンを訪れた一方的な「剥奪」(ないし「贈与」のしっ放し)は、子供の誕生という「反対贈与」によって報われます。吉田恵輔監督は恐らくは迷った末、映画からこの反対贈与という交換を、明確には子供を描いていないという意味で除去しています。

 かつてのハリウッド映画なら、プロデューサがこの除去を許さないはずです。そうした除去が、カタルシスを抑止することで、仲間や恋人や家族と一緒に訪れた観客たちに「いい映画だったね」といった会話を禁じてしまうからです。この映画がそうした会話を可能にしていたら娯楽映画で終わっていました。

 しかし、実際には娯楽映画では終わりませんでした。そのことで、観客の心に回復不能な傷をつけるアートに昇格しました。「贈与」も「剥奪」も報われることがないという存在界の摂理──<社会>という間接化装置に普段は覆い隱された<世界>の実態──に、無理矢理に直面させられる体験。それが回復不能な傷を与えるのです。

 それが回復不能になるのは、観客たちが既に存在界の摂理を知っているからです。知っているのに「見て見ぬフリ」をするのは、<社会>を──<社会>によって間接化された<世界>を──安心して生きるためです。でも、「本当の愛」(と敢えて呼べば)は、「交換」を旨とする安心安全な<社会>のなか=法内に、あるのでしょうか。吉田恵輔監督の問いです。

 思えば、今日のドラマや映画で「愛」として描かれるものは、所詮は無害な「交換」のロジックの内側にあり、到底「本当の愛」だとは思われません。この映画に描かれた「愛のようなもの」は、意図せず巻き込まれた一方的な「駆り立て連鎖」そのものであり、一方的な「贈与」と「剥奪」に耐えるがゆえに「本当の愛」を導くのです。それは私たちに可能でしょうか。(宮台真司)

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